(一回投稿したんですけどね、
2つのお話を書いたら、あまりに長かったんで、2本に分けました)
山に行って、いろいろなことに気が付いたお話です。1つ前のブログ
の続きです~!
歩きながら、わ~緑がキレイ!とか、あ!花が咲いてる!とか、わ、リスだ!とか、いろいろ発見してその都度感激するわけですけど、
私が発見する前から、それらはそこにいたのか、
それとも、ワタシが発見したからそこに表れたのか?
普通は、
私が発見する前からそこにあって、
それを私が見た
ってことですけど、
ワタシにとっては、
そこにそれがすでに有ったのだとしても、
認識してないときには、見えてもいないし存在にも気付けておらず、それはすなわち「無いのと同じ」
また、もっととんでもない言い方をすれば、
私が見る(認識する)までは、あるのかないのか不確定な状態であったモノが、
私が見た(認識した)ことにより、そこにハッキリと存在するようになった
ということでもある・・・ってのが、量子論的考え方じゃないかな!と。
ワタシ的にはね、子どもの頃に「この私が見たことによってそこに存在するようになった」と思っていた時代がハッキリとあって、
自分が見てないときには、この世の中は存在していない(か、あるいは勝手なふるまいをしている)のではないか?と思ってた。
自分が振り返るまでは、後ろの世界は何かしら違う振る舞いをしてるかもな?という感じw
吉田戦車さんの漫画に、うどんから目を離したら、うどんがチンアナゴみたいにぴょんって立ち上がってて、見たら普通に戻ってる・・・ってのがあったけど、その発想に近いw
あ、今日言おうとしてたのはそれじゃなかったww毎度脱線w
もともと存在してるモノであっても、自分が認識しない限り、目にも見えないし耳にも聞こえないから、自分にとっては存在していないのと同じ、、、
つまり、
同じ場所にいても、すべての人にとってその場所は全く違う場所に感じてる可能性がある。だけど他の人の感覚は完全には理解できないから、「きっと同じに感じてる。同じところにいるんだから」と思って、了見してる。
これは、なんとなく言い換えたらパラレルワールドみたいなもんで、
自分が認識した瞬間に、そこが別の世界としてハッキリしてくる、、、みたいな。
何が言いたいかって、いろいろ言いたいんだけど(笑)
まずは、今自分がそこにいるからと言って、すべての事象を感じられているわけではなく、むしろほとんど見えておらず、自分が感じ取れるモノは自分の認識できている範疇だけだから、「思い込んで」いるとそれしか見えず、それが「現実」でそれが「真実」だと思ってしまうと、世界がものすごく狭くなっちゃう。
そして、同じところにいて別の世界を感じている人と、「同じモノを見てるのだから同じはずだ!!」と思って話をすると、共感できなくて、悲しくなったりする。
自分には見えてないけど、他の世界が同時に存在している
イヤな世界を見ることもできるし、
良い世界を見ることもできる
自分の認識次第で見えるものが変わるんだから。
世界を変えようとしなくても、自分の認識を変えれば、違う世界を見ることができる、、、
それと、
子どもってのは、物凄くフラットにいろんなモノを見ることができるという可能性を持っているのと同時に、「これは〇〇だ」と認識できているモノが少ないから、見えているモノが一体何なのかは認識できてない場合が多いと思うんだけど、
だからこそ、「ねーねー、これなーに?」って、は?そんなモンよく気が付いたね?ってこと聞いて来たりするわけだよね。大人には見えないものが見えてたりもするしw
そんな素敵な可能性に満ち溢れた「子ども」という大事な時期に、
オトナの世界の情報ばかりに触れてしまうと、その情報を通して世の中を見ることになって、
本来なら自分の心や体で世界を感じて、経験を積みながらそれが何なのかを知って行って、そのうちに自分に必要な情報を優先して取ることができるように「ラベリング」みないなものをして行って、だんだん必要なモノだけが見えるようになって行って、情報を簡略化して行く・・・
って感じになってるんだと思うの。
その「自分に必要な情報」って言うモノの「フィルター」を作る(できちゃう・・💦)ってのが、学んで行くってことなのかもしれない。
それをすっ飛ばして、大人の世界から「これはこう!!!」と情報を与えてしまうと、そのフィルターで世の中を見ることになっちゃって、
せっかくたくさんの素晴らしい世界があっても、そのフィルターを通して見えてる世界だけが真実だと思い込んでしまう、、、
となったりしちゃいませんか?
と思うんだよね。
オトナの目からは完全に無駄で非効率に見えたとしても、
全身全霊で世界を感じて行って、そこから少しずつフィルターができていき、なるほど!!そういうことか!!と自分で分かるという時間をかけて行けば、
すべてのことが無駄ではなく、
世界にはまだまだ知らないことがたくさんあって、
いろんな考えがあって、
素晴らしい世界をチョイスすることができる、
ということが、体感として分かるんじゃないかと!
そんな大切な時に、
変などーでも良い問題集とかやってて、
問題の「解き方」の技術を学んで、
体験はテレビで見たとか、YouTubeで見たとか、そういうモノで十分と考えて、
自然や人と触れ合うことをあまりしないで、
(大きな声も出さず、顔も半分しか見せず・・・)
そんな風に、人間をAIかなんかと同じみたいに、情報入れときゃ情報が一次情報でも二次情報でも関係ないね、みたいな感じでやってたら、
ヤバいことになるよね・・・
という私の考えも、杞憂かもしれないし、案外ほんとうにヤバいかもしれない。
良い感じで、何かはなくとも別の何かを補完して、人として素晴らしい成長を遂げる子どももたっくさんいるから、必ずヤバイなんてことはないわけだけど、
オトナがそういうことを理解して、無駄なことにもたっぷり時間をかけることをヨシとする、精神的余裕も必要よね。
「勉強できなかったら、どうなっちゃうのよ!!ダメな人になっちゃうのよ!!ちゃんと勉強しなさい!!」
勉強できてなかったり、してなかったりしても、立派になった人はたくさんいるし、
勉強して立派になった人もいるし、
勉強して人としてダメになった人、勉強しなくて予言通りダメな人になった人、、、
どのパターンもいるわけでwww
何が見えてるかは、その人によって違う。
何を成功とするのか、
何を幸せとするのか、
それだって、人によって違うし。
そして、もっと言えば、
「幸せだなー」と感じる力があれば、そこにある幸せを感じることができる。
それで幸せになれる。
簡単そうだけど、人ってそんな簡単にどんな中でも「幸せだなー」って思えないよね!!
それができる力を持ちたい。幸せの種をどんどん見つける訓練をし続ける。
そうやってそれをホントに幸せになるように育てる。
それを癖にして、たくさんの種を見つけて育てることができれば、
それが幸せな人生ってことかなー
ホントは不幸だけど幸せと思い込みましょう、って話じゃない。
ホントはステキなところにいるんだ!ということを見つける(認識できる)訓練をして、それをたくさん見つけられる(そこに存在させる)ようにして、それを大きなものに育てて行く、、、
そういうことなのかなー、、、
なんてさ!
そして、「なんだかなー、、、」と思うことはさ、ワタシに「あなた、そういう見方してませんかー?」と見せるために、ワタシの目の前にわざわざ現れてくれてんのかなーって思うようになってきた。
自分の中にある「何だかなー」が、相手に投射されて見えてる。
相手に腹が立つのは、自分の中の「何だかなー、、、」が相手の中に見えるから。
だから、自分の中の「何だかなー、、、」を素敵に変えて行くのが一番なんだな、、、
って、それもさ!!見えたってわけ。
それをやってくのが人生ってヤツなのかなw
というわけで、さーて、寝ましょー!!
それでは、今日もナゾの話にお付き合いくださったアナタは本当に素敵な人でございます💖ありがとー!!
それではおやすみなさ―い!
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