こんにちはー!!!
今さっき、clubhouseになかなか面白い内容のルームがありまして、
根拠のない自信大学、、、子どもの教育、、、日本人に何が足りないのか?
的なタイトル。
タイトル、正確じゃなくてゴメンチャイ!途中から入ったので、半分くらいしか聞いてないんですけど、
とても興味深い、そこからめちゃくちゃ考えが進むお話がいくつかありまして・・・
フジイ的意訳になるので、適当に読んでくださいw
海外のツアーで、音響の良いお部屋にあるピアノをどなたか弾きませんかー?と聞かれたとき、
日本人たちは、ピアノを習ってた人も多く、腕に覚えもあるだろうに、お互いに顔を見合わせて、だれも手を挙げない。
他の国の方は、ワタシが!私が!!とみんな手を挙げて、やる気満々。
そして、その中の1人の方が選ばれ弾いた曲が、まぁ日本の童謡で言えばチューリップくらいの曲だったそうで・・・
そのときの日本人のリアクションは、え??そんな程度なら私の方が出来たし・・・
そして他の国の方々は、何とスタンディングオベーション!!!!!
この差が、日本人と海外の人のメンタルの差ではないか?
失敗を恐れたり、自分よりもっと上手い人がいるのでは?と思うと、譲り合ってしまう。
これを日本人的奥ゆかしさ、ということもできるけど、それもちょっと違うかもしれない。チャレンジしないなんてちょっともったいない。。。
そんなお話があって、
おおおおお!!!それ、めーーーーっちゃ分かるわーって。
かく言う私もそのとき、スピーカーに上がっていて(モデュレイターに喋る権利を与えてもらっていて、自分でマイクをオフにすれば、そのルームで喋ることが出来る状態)、いつ自分に話が振られるだろ???と無駄にドキドキ(笑)
別に、なにかの講演会でもないんだから、まったく失敗とかそういうこともないし、だれも私に凄い話なんぞ期待してないのにwwwと思うと、我ながら可愛いやっちゃワタシ・・・などと思うのでした。
それから、また別の方が、さらに興味深いお話を・・・
子どもの体力の二極化について。
運動をめちゃくちゃ楽しんで、スポーツクラブなどで習う子と、習いには来てるけど、モジモジしてやりたくなさそうな子。
有料の子どものスポーツクラブだから、きっと「指導」って形だったんだと思う。
時間が余って、「自由」ってなったときに、一番動き回ってたのが、やりたくなさそうにモジモジしてた子だったという話。
それからその方は、「遊び」が大切と考え、そういう論文を書かれたり、そういう方向で活動なさったりして、最終的には今は大学の先生として活躍されているそうな。
この話も、めーーーーーーっちゃ分かるー!!!!!
子どもの二極化は、ワタシの仕事である音楽のレッスンの中でも、めっちゃあるんですよ。
打てば響くような、あっという間に伸びる子と、そんなにモジモジしたり、そんなにイヤそうにするなら、どうしてここに来たんだい??と聞きたいような子。
自分の身体の使い方があまりよく分からないみたいな子は、実はすでに大学生にもいるよ。
空間認識が良くできないみたいな感じ。
トランペットをケースから出すと、元通りに仕舞えない大学生はかなり多い。子どもも押して知るべしって感じ。
自分の指がどうなってるのか、息はどうやって吸ってるか、自分の姿勢がどうなってるか、そういうのがなかなか分からない。
そして、最も私の中で、これは何とかしたいなーってのはねー、
大きな声で、ハイ!!!とか言えない子が結構いること。
正直、楽器なんか下手でもいいから、元気に大きな声が思いっきり出せたら、もうほとんど100点満点じゃね??と思っている。
思っているけど、さらに正直に言えば、「は??そんなことで良いと思ってるの??それでも指導者???」という世間の目が気になって、なんとか楽器を教えようとしていた自分もいましたよ・・・ハイ。
でもまー、もうそういうの辞めますけどね!!
大事なことじゃないんで。
ワタシの本当にしたかったことは、別に「正しさ」や「ハイスペックさ」じゃなくて、「解放」と「自由」と「生き生きさ」ですから。
輝いていれば、それで満点!!
いやね、「正しい奏法」があれば、幸せなのかも・・・とどこかで勘違いしたなって、思います。
ワタシが、子どもたちに正しい奏法を教えることができれば、それできっとハッピーになるんだ!!って。
もともとは、奏法なんかどーでもいいじゃん???気持ちよく楽しく吹ければいいんだよ!!
という考えだったんだけど、どこかの時点で正しい奏法を身につけてる子たちが、楽そうに楽器を吹いてるのを見て、
あああ・・・そうか、、、大事なのは「最初から正しい奏法を身につけさせることだ」って思っちゃったんだよね。
それは、なんとなく本当そうに思えるし、きっとある意味ホントだと思う。
でも、結構いい奏法なのに、そこから全く音楽的に深化しない子ってのも相当数いて。
ちょっと深く表現しようとすると、少し奏法的にストレスかかることもあって、良い奏法で吹ける子は、そこからもうひと押しすると、崩れるんじゃないか?と怖くて、それ以上はパワーをかけられないっていう傾向が。
でも、本当にいい奏法であれば、思い切ってエネルギーを爆発させることができるはずだけど、それほどのレベルではなく、かなり脆弱な状態だったんだろうなー。
それに私自身が、せっかく良い感じで吹けてるのに、崩すと嫌だなって思ってたせいでもある。
おお、横道に逸れた!
そうそう!!!本当は、もっともっとなんでも「遊び」の中から、出てきて、そして「もっとこうやりたい!!!」という心からの欲求が出てきたときに、「じゃあこうしてみたらどう??」って大人が介入するのでも、遅くないって思うんだよね。
もちろん、横目では見てる。放置じゃなくて、見守り。そのある程度の安全の中で(若干の危険もある中で)遊ばせることができたら、いいよね。
今の日本に欠けてること・・・って言って、大人がもっともっと教育しようとしてしまう。
それが本当は間違ってるんじゃないかって思うの。
子どもは本当はみんなチャレンジャーで、この世には遊びに来てるわけだから、めっちゃチャレンジしたいんだよ、なんでも。
だけど、ついつい「正しさ」とか、もちろん愛情からかもだけど、「後で苦労させたくないから」ってのもあって、とにかく「間違えさせない」ってことに注力してしまう。
よく考えれば、「間違える」ってことすら、楽しい経験だよね。ダメじゃない、このやり方じゃないなーってことが分かるという、単に経験。
それなのに、そして大人たちはそれをやって来たのに、子どもにはそれを認めない。
失敗の経験を「負の遺産」としてしまうから、子どもは失敗してはいけないと思っちゃう。
大人の方も、子どもを失敗させないってことに注力してるから、「ああ!!違うでしょ?!もっとこうよ!!」とすぐ口出ししちゃう。
それと「時間がない(時短、効率の良さこそ善)」という意識が物凄くあるから、
子どもが何かしら、「うーーーんとねーーー」とかって何かしら言語化しようと頑張ってると、「ああ、それは〇〇ってことね!!」とすぐに忖度してあげてしまう。
大人が手っ取り早く言語化してしまうから、子どもは「あ、、うん、、そういうことかな??」と本当の自分の思考を見つめることなく、次に行く。
そんな子ども時代を経て、「さあ、自分の意見を言ってごらんなさい」なんて突然言われても、なかなか言語化できないよね。
あるいは、言語化が上手くいった子であっても、今度は「正しさ」を求める風潮の中で、「それは違う」「ダメよ」という中で、今度は勇気を失っていく。
もっと、間違って失敗して迷って困って・・・
そういう時間も、実は贅沢で楽しいはず。
自分で発見出来たら、その時初めて自信になって、くじけない力が付いて、勇気も出るし、その「過程」も分かるから、次はもっと早くできるよね。
なんでも正解教えちゃうとさー、毎回答えだけ手っ取り早くってのが、当たり前になっちゃって、その過程を楽しむという最高の贅沢がなくなっちゃうよね。
子ども時代だからこそできる贅沢じゃん?!
大人が指導法で対応して「私は素晴らしい指導ができる」ってしちゃうと、その子どもの贅沢を奪って自分の手柄にした・・・ってことになるように感じてきた。
あー、このルームでそんなことを言いたいな・・・と思っていたら、時間が来てお開きになりました(笑)
「今やらないと困るから」と言って、いろいろ詰め込むのが正しいことのようになってるけど、
きっと困りません。
困ったときには、きっとその子は本気で楽しんで(見かけは苦しくても)やります。やりたくなる時までは、好きなことでもしてればいいのだよ。
ま、これは本音だけど、ちょっと建て前的にはそうはいかない部分もいっぱいあるんだけどねw
今日も頭の中をバー―――ッと書いたから長くなりました。
いつも読んでくれてありがとー!!
それでは、またねー!