こんばんはー。
今日はアタマがクルクルする、毒吐く系になるやもしれないので、それでも読んでやろう!!という方のみチャレンジしてね
まあ、長らくレッスンとかやってますし、そんな中でいろんな子に出会いますし、それに自分のコンディションもメンタルも日によってコントロールし切れてないところもありますし、年々グレードアップしてるとも言い切れないところも満載。
いやー、、、どーすりゃ良いんだ??ってこともあります。
何とかして上手く、楽に、楽しく、、、と願うのはいつもですし、
生徒の方も、何を学び取ろうか?何を盗んでやろうか??などと思ってる時は、お互いの思惑が合ってるから、苦難はあれど、向きが一緒なら何とかなるのですが、
一体何をしに来てるのかな??
って場合にいろいろ私の人間性が試されますね、、、
レッスンしてても、全く話を聞いてない。
勝手に吹いて全く違う場所をやる。
ちょっと「ここになんか書いてあるね」などちょっと注意すると、泣く。
デュエットをやってて、ちょっとくたびれて音が外れたら「ひとりがいい!!」とダダを言い出して、放棄する。
機嫌が良い時はとてもやる気があるけど、そうじゃない時は話ができない。
そのスイッチがよく分からない。
文章で話さなくて、「ここ」とか「分かんない」などの1コト単位で、それ以上説明求めると、泣く。
周りの人が目に入らない。
などなど、、、
あまり叱ったり強要するのはヤなので、「あそ!じゃあやる気になったら、呼んでね」「気が済んだら、呼んでね」
と言って、他の子のレッスンをします。
まあ、自分の子どもの時も大したことないヤツでしたから、わかるっチャー分かるんです。
「なぜこの大人は自分のこの『恥ずかしい』とか『説明できない胸の内』を察さないのだ??」
「なぜ自分を褒めないのだ?!」
「何か言われた!!自分はダメなんだ!!!!」
そういう気持ちがきっとあるのかなー。
上手くできたり褒められたりしたときは、自分の価値が上がった気がして、物凄く嬉しいし、テンションも上がる。
でも、「褒められる」「上手くいく」以外の状況は自分の存在価値が下がるからあってはならない!!
「上手くなりたい!」
「もっとこんなの吹きたい!!」
とかじゃなくて、自分の存在価値のためのオプションなのかなー、楽器を吹くってことが。
もしそうなんだとしたら、そんな風に思わなくても良いよ、ということを思わせられるようにしたいんだけど、私の人間性ではなかなかそれが出来ないよ。
そこへいくと、その子のお母さんは本当に素晴らしい。どうしてそんなに常に優しく、愛情を持って、忍耐強くやれるのか??爪の垢でも煎じて飲まねば!と思うレベルであるよ、本当に。
まあ、こういうことを書くと胡散臭いかもしれないけど、
おそらく、
それほど素晴らしい、優しい人間性を持ったお母さんを選んで、その子はこの世にやって来たんだと思う。
そして、これからいろんなことを学んで、愛をいっぱい頂いて、一段上の魂になろう!!というミッションなんだろうな。
「親がどんな育て方してんだか?!」
とか、そう言う話もよくあるし、そんな風に思う場合もあるけれど、親の育て方と「人の魂のキャラ」は関係ない場合も多い。
だから、このお母さんなら愛をくれるという確信の元にやって来たんだろうなー。
この子は普段はどんな感じなのかなー??
レッスンの時だけ、自分のことしか見えない感じなのかな。
そうなら、私がもっと頑張らずに頑張らねばならないな。。。
ホント、試されるわー。心折れそうになる。
で、場面は変わって、
合奏なんかもやったりするわけだけど、
その時も、「学ぼう!!」という姿勢なのか、「教えてもらう」という姿勢なのか、
そこら辺がね、
「学ぼう」とする人になってもらいたい。
いや、なって「もらう」とかがもう「教えてる」のかな?
「学べば?」
かな?!?
どうしても、「こうしなさい」「ああしなさい」に慣れてると、自分で発見したり、考えたり、疑問を持ったりしなくなる。
寝ていて口を開けてご飯が入るのを待つような。
「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」
ってのと、ちょっと似てるような、違うような。
んー、
喉が渇いていても水辺に行かない
喉は渇かないけど、水は出てくれば飲むけど、水辺には行かない
とか??
「人を作る」的なところが一番大事と、いろんな名指導者や名コーチが書いてるよね。
そこなんだよなー。
それなんだよ。それ。
結局、人として話が通じるようになった瞬間、爆発的に上手くなったりするよね。
コミュニケーションだからなのかな??
もちろん「孤高の天才」みたいな場合もあるから、コミュニケーションじゃない人もいるのかもしれないけど、
自分の世界しか見えてないと、やっぱりなかなか厳しいよね。
私もなかなかできない。
見どころあるなーってヤツは小学生でも、「先生、ずっと立ってたら疲れないの?椅子持ってくるよ!」なーんていう、気の利いたことが、サッと言えちゃう。
私が「立ってる」ことに気付いてない子がほとんどな中で、そういう観点を持ってる。
子どもながらに見習いたい。
「今日は楽しかったです、ありがとうございました」
そんな一言がちゃんと言える子もいる。
私なんぞは、自分が「仕事」の間は言えるけど、ひとたびオフったら、もうそんなの言えない。
言えない自分であるけれど、
じゃあ客観的にそれを言えるのと言えないのと、どうよ??と考えた時、
なぜ言えないのか??の理由もなんだかあまりに自分だけの理由であるし、要するに「そんなことをわたし如きがわざわざ言う何ぞ、自意識過剰ではないか?」「面と向かって、そんなことをゆっくり言うほど相手の時間を奪う価値は私にはない」などと言う、物凄く自分の価値観が低いことによる躊躇なんだな、と冷静に分析するとどうやらそうらしい。
それを言えたら、周りをどんなにハッピーな気持ちにできるかって考えた時に、
言って損することなど一つもないし、
思ってるなら伝えなきゃ、なーんにもないのと一緒。
そう思うと、
「言葉にできる」と言う技術、能力、勇気、優しさ、、、
これ、めっちゃ大切な気がして来た。
「思ってる」
とは違う。
思ってても思ってなくても、「言葉」にしなければないのと同じ。
いやいや、雰囲気で分かるでしょ??
そりゃー、やっぱり何かの波動は出ておろうから、言葉にせずとも何かは伝わる。
でも、それなら犬とか赤ちゃんとかと一緒。
ワンワンワンワン!!!
オギャーオギャー!!!
分かる場合もあるだろうけど、きっと「何なのか言ってくれよ!!」と思う人は少なくないはずだ。
言ってくれないから、あれかな?これかな??相手は必死に推測し、いろいろやってみる。
愛情が深ければ、それをやり続けてあげられる。
でも、そこまでじゃなければ、「何なんだよ!!」と苛立ち、腹を立て、自信をなくす。
そして、相手の望みも叶わない。全くWin-Winじゃないヤツね。
赤ちゃんは仕方ない。まだ言葉が分からない。
だから、段々訓練する。覚える。学んで外の世界とのやり取りの仕方を覚える。
お互いに言葉で説明ができれば、100%ではなくとも、方向性くらいは分かるから、「あーもー!!!!」とならなくて済むし、解決方法も場合によっては相談できる。
何かで、
生まれてから死ぬまで何十年とか生きるわけだから、その間をいかに楽しく過ごすかが人生だ
って聞いた。
何人かの人が言ってたな。
みんなで「少しでも楽しく過ごす」ためにいろいろやるのが人生なんだよね。
そこなんだよな、そこ。
と言うわけで、本日のまとめ、、、
はじめに「ことば」ありき。
自分だけの世界より、自分もいるこの世界。
人生という時間をいかに楽しく過ごすか。
ってことかなー。
なんて思った本日でした。