『漢方の味』(鮎川静:著、日本漢方医学会出版部:1939年刊)という本をご紹介しています。今回は最終回です。
◆脊椎カリエス
脊椎カリエスは、非常に悲惨な病気なので、まずはその説明から始めたいと思います。
『療養教本 下巻 第一編 肺臓以外の結核性諸疾患』(亀井玆常:編、黎明会:1934年刊)という本によると、「脊椎カリエスとは、脊椎骨に結核性病変をおこし、為に骨質の融解を来たす疾患である。」と書かれています。そして、胸椎に病変があれば、脊柱が湾曲して突出するそうです。
治療法は、身体をギブス等で固定し、半年から2、3年程度絶対安静を守り、自然に治癒するのを待つしかなかったようです。また、患部が化膿した場合は、針を刺したり切開して排膿したそうです。
俳人・歌人の正岡子規は、1896年(明治29年)に脊椎カリエスを発症し、手術を受けたのですが、その様子が『子規の回想』(河東碧梧桐:著、昭南書房:1944年刊)という本に描かれているのでご紹介しましょう。なお、子規は自身の脊椎カリエスについて、周囲の人に「背中へ大山が出来てナ」と笑いながら話していたそうです。
「其の三月ニ十七日、佐藤三吉博士の手術があるというので、立合人に私が立たせられた。成程脊髄の中央部に腫物でもなければ、筋肉の膨脹でもないエタイの知れない大きな隆起がある。大山が出来たというのも、感覚ばかりでもない、驚くべき贅瘤(ぜいりゅう=こぶ)なのだ。当時天下無二の国手(こくしゅ=名医)の手術というのが、鋭く長い漏斗状をした銀色の管を、力に任せて贅瘤の肉へ突き刺す、無造作なものであった。局部麻酔など進歩した方法も無かったのか、患者は身を震わして痛みを堪えていた。 突き刺した管をそのまま、さぐりを入れて、中の膿をさそい出すのであるが、刺し込み場所がよくないとかで、二度び管を刺し替えた。」
どうやら、この手術は排膿のための処置だったようですが、患者の苦痛が伝わってきて、脊椎カリエスの悲惨さがよく理解できますね。結局、このときできた2つの穴の一方は、いつまでも癒着しないで、絶えず膿を拭きとらなければならなかったそうです。
なお、本ブログの「日光浴と空気浴」でご紹介したように、脊椎カリエスには日光浴が著しい効果を示すそうで、『綜合日光療法』(正木不如丘:著、三光書院:1930年刊)という本には、下の写真の少女の脊椎カリエスが、15か月の日光浴で完治したことが書かれています。
【脊椎カリエスの少女】(正木不如丘:著『綜合日光療法』より)
ここからは『漢方の味』に戻りますが、鮎川氏によると、脊椎カリエスは主に背骨の病気ですが、股関節や肋骨に病変が現われることもあるそうで、この本では股関節カリエスの例が紹介されています。
それによると、以前、鮎川氏は肋膜炎の少年を治療したことがあったそうです。その少年は、当時中学3年生だったのですが、その2、3年後、今度は股関節カリエスにかかり、病院では手の施しようがないので鮎川氏に往診の依頼が来たそうです。
そこで詳しく話を聞いたところ、この少年は、股関節が痛くなって近所の医者に診てもらったところ、股関節カリエスと診断され、大学病院に入院したのですが、膿が溜まって切開排膿した後も少しも治る様子がなく、この先10年かかるか20年かかるか見当がつかないと言われて別の病院に転院し、そこでも進展がなかったため1週間前に現在の病院に入院したものの、結局ここでもいつ治るか見当がつかないと言われたのだそうです。
往診した鮎川氏は、彼を退院させ、小柴胡湯と桂枝茯苓丸の合方に大黄を加えて投与し、さらに伯州散(はくしゅうさん)を兼用するとともにその軟膏を塗布したところ、約2週間で排膿が止まり、その後も服薬を続けた結果、股関節カリエスは約1年で完治し、彼は杖なしで歩けるようになったそうです。
一方、前述の正岡子規は、手術後も病気が進行して2、3年後には病変が尾てい骨にまで及び、寝返り一つできない状態となったそうです。子規は1902年に34歳で亡くなったそうですが、もし彼が漢方医の治療を受けていたら、もっと長生きして、日本文学の歴史を変えていたかもしれませんね。
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今回登場した伯州散は、『臨床応用漢方医学解説』(湯本求真:著、同済号書房:1933年刊)という本によると、他の漢方煎薬と兼用されることが多く、主として興奮・強壮作用があり、他には鎮痙・鎮痛・去痰・排膿・止血・止瀉作用があるそうです。
また、結核性の骨や皮膚の病気に神効があるそうで、脊椎カリエスとは相性がいいようです。ただし、内臓に急性の炎症がある場合には絶対に使用してはならないそうです。
なお、小柴胡湯は本ブログの「蓄膿症」で、桂枝茯苓丸は「呼吸器病」でそれぞれ解説していますので、よかったら参考にしてください。