安倍自公政権によって、民主主義が大きく損なわれていますが、教育の分野では特に目立って意図的に国家主義化が進められています。教育によって国家の未来が決まることは言うまでもありません。それを知っているがゆえの計画的な取り組みです。
すでに、教育委員会など教育行政、教育基本法、教科書検定、学習指導要領など、戦後の民主主義の中で実現したものが次々と国家主義的な方向へ変えられてきています。
今、森友学園問題でその一端が多くの国民の目に見えるようになって来ました。森友学園での教育勅語の暗唱や、ヘイトスピーチまがいのことなどが映像でも知られて多くの国民は驚き、戦前の亡霊のごとき教育があると知ったのでした。その問題がおき、NHKを除く民放TVなどは8億円の問題や首相夫人問題への追及は比較的厳しかったと思います。でもこの国有財産問題の裏にある「教育勅語」による戦前の教育志向への批判という点では追及しきれないものだったと思います。
しかし、森友学園問題の核心は実はここにあると思うのです。
当初、首相はじめ閣僚もあの学園の教育方針をほめそやしていました。そのような教育を広める先例になるとの思いもあったのでしょう。だからこそ、安倍首相や夫人、自民党の議員は支持していたし、財務省、国交省なども忖度したのでしょう。
この間の報道の中で、首相はじめ多くの閣僚が、日本会議に所属し、復古主義的な教育勅語の考え方を是としていることがあからさまになりました。日本のマスコミは日本会議という安倍政権の裏の存在をあまり報道しませんでしたが(意図的に隠し続けた?)、「日刊ゲンダイ」や「週刊金曜日」など一部の雑誌や新聞と海外のマスコミが問題視していました。
しかし、マスコミで森友学園の理事長が叩かれ始めるとあっという間に無関係を装い、むしろ被害者になったかのような言説になりました。
そして追及を籠池個人の資質の問題に矮小化し、それが一段落したかに見えると、今度は逆襲に出ました。こともあろうに今度の問題を逆手にとって、「教育勅語」を教育の場へ持ち込むきっかけに利用しはじめているのです。 それが、先の文科大臣、副大臣の発言ではないでしょうか。この問題の教育勅語は「良いことも書いてある。根本は良い」(稲田大臣ほか)というだけではなく、松野文科大臣は扱っても良いといい、さらに義家副大臣は教育勅語を朝礼で朗読するのは「教育基本法に反しない限り」良いなどと言い始めました。扱っても良いという人々の多くは「孝行や礼儀など良い部分がある」ということを言います。
これらの言説は、「教育勅語」が憲法に違反する内容であるということから、既に戦後、国会の衆参両議院で廃され、歴代の内閣でも否定され続けてきたものを無視するものです。
「法に反しない限り」などという副大臣は、そもそも「教育勅語」が、主権在民ではないうえ、皇国のために尽くせと言う国家主義的なものであり、法どころではなく憲法に違反している事を知っているのでしょうか。いや読んだことがあるのでしょうか。
つまみ食い的に、「いいところがある」などというのも、そのいいところは、だれがだれに言われて(朕がなんじら臣民にですから、天皇が明治憲法下の人民にですね)、何のための「いいところ」なのかが問題ですね。最後にありますね。いざというときには、一命をかけて国のために尽くせと。
読解力があれば、この「いいことが」主語と述語の間にあり、全体として天皇が国民に示した言葉で、反論などは不敬として許されることではなかったものだと判断できると思うのですが・・・・。
全て知った上だとすると、これはまた大変なことです。意図的に、主権在民を否定し、国民を臣民におとしめる考えですし、人権なども奪うことになる考えですからね。非常事態法などによって人権を制限しようとする自民党の憲法草案などをみると、この「教育勅語」を学校での利用する発言などはその先兵的な役割になるのかもしれません。
今、当然のように考えている民主主義というのは、人々の努力が足りないと脆いものであると実感する近頃です。
言うまでもなく、この事は早くから多くの人々によって自覚されていました。特に戦後、日本国憲法のもとになった草案を考えた日本人は、この民主主義的な憲法がいつの日にか、反民主主義的(国家主義的な)な憲法にとってかわられることもありうると想定したかのような記述があります。
それは、憲法第12条の[国民の自由及び権利の保持責任、濫用禁止と利用責任]の項で次のようにあります。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、・・・」と。
よく「国民のレベルに応じた政治」ということが言われます。私もレベルを高める努力をしなくてはと。
次回は、「教育勅語」が廃された国会決議、次々回は道徳の教科化などについて。
すでに、教育委員会など教育行政、教育基本法、教科書検定、学習指導要領など、戦後の民主主義の中で実現したものが次々と国家主義的な方向へ変えられてきています。
今、森友学園問題でその一端が多くの国民の目に見えるようになって来ました。森友学園での教育勅語の暗唱や、ヘイトスピーチまがいのことなどが映像でも知られて多くの国民は驚き、戦前の亡霊のごとき教育があると知ったのでした。その問題がおき、NHKを除く民放TVなどは8億円の問題や首相夫人問題への追及は比較的厳しかったと思います。でもこの国有財産問題の裏にある「教育勅語」による戦前の教育志向への批判という点では追及しきれないものだったと思います。
しかし、森友学園問題の核心は実はここにあると思うのです。
当初、首相はじめ閣僚もあの学園の教育方針をほめそやしていました。そのような教育を広める先例になるとの思いもあったのでしょう。だからこそ、安倍首相や夫人、自民党の議員は支持していたし、財務省、国交省なども忖度したのでしょう。
この間の報道の中で、首相はじめ多くの閣僚が、日本会議に所属し、復古主義的な教育勅語の考え方を是としていることがあからさまになりました。日本のマスコミは日本会議という安倍政権の裏の存在をあまり報道しませんでしたが(意図的に隠し続けた?)、「日刊ゲンダイ」や「週刊金曜日」など一部の雑誌や新聞と海外のマスコミが問題視していました。
しかし、マスコミで森友学園の理事長が叩かれ始めるとあっという間に無関係を装い、むしろ被害者になったかのような言説になりました。
そして追及を籠池個人の資質の問題に矮小化し、それが一段落したかに見えると、今度は逆襲に出ました。こともあろうに今度の問題を逆手にとって、「教育勅語」を教育の場へ持ち込むきっかけに利用しはじめているのです。 それが、先の文科大臣、副大臣の発言ではないでしょうか。この問題の教育勅語は「良いことも書いてある。根本は良い」(稲田大臣ほか)というだけではなく、松野文科大臣は扱っても良いといい、さらに義家副大臣は教育勅語を朝礼で朗読するのは「教育基本法に反しない限り」良いなどと言い始めました。扱っても良いという人々の多くは「孝行や礼儀など良い部分がある」ということを言います。
これらの言説は、「教育勅語」が憲法に違反する内容であるということから、既に戦後、国会の衆参両議院で廃され、歴代の内閣でも否定され続けてきたものを無視するものです。
「法に反しない限り」などという副大臣は、そもそも「教育勅語」が、主権在民ではないうえ、皇国のために尽くせと言う国家主義的なものであり、法どころではなく憲法に違反している事を知っているのでしょうか。いや読んだことがあるのでしょうか。
つまみ食い的に、「いいところがある」などというのも、そのいいところは、だれがだれに言われて(朕がなんじら臣民にですから、天皇が明治憲法下の人民にですね)、何のための「いいところ」なのかが問題ですね。最後にありますね。いざというときには、一命をかけて国のために尽くせと。
読解力があれば、この「いいことが」主語と述語の間にあり、全体として天皇が国民に示した言葉で、反論などは不敬として許されることではなかったものだと判断できると思うのですが・・・・。
全て知った上だとすると、これはまた大変なことです。意図的に、主権在民を否定し、国民を臣民におとしめる考えですし、人権なども奪うことになる考えですからね。非常事態法などによって人権を制限しようとする自民党の憲法草案などをみると、この「教育勅語」を学校での利用する発言などはその先兵的な役割になるのかもしれません。
今、当然のように考えている民主主義というのは、人々の努力が足りないと脆いものであると実感する近頃です。
言うまでもなく、この事は早くから多くの人々によって自覚されていました。特に戦後、日本国憲法のもとになった草案を考えた日本人は、この民主主義的な憲法がいつの日にか、反民主主義的(国家主義的な)な憲法にとってかわられることもありうると想定したかのような記述があります。
それは、憲法第12条の[国民の自由及び権利の保持責任、濫用禁止と利用責任]の項で次のようにあります。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、・・・」と。
よく「国民のレベルに応じた政治」ということが言われます。私もレベルを高める努力をしなくてはと。
次回は、「教育勅語」が廃された国会決議、次々回は道徳の教科化などについて。
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