しんぶん赤旗 2013年4月8日(月)
政府が恐れた安保違憲判決
日米で血眼になり「判決破棄」
安保の正当性に深刻な疑問
改定交渉の「空白」埋める解禁文書
日米安保条約改定交渉の「空白」を埋める新資料が発見されました。1面所報の、布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書です。
旧日米安保条約(1952年発効)に代わる現行安保条約の日米交渉は、59年6月にはほぼまとまっていました。それにもかかわらず、その署名が翌60年1月まで延期されたのはなぜか―。この「空白」の十分な説明はこれまでなされていませんでした。
例えば、外務省のアメリカ局安全保障課長として安保改定交渉に携わった東郷文彦氏は著書で、59年7月の岸信介首相の中南米・欧州外遊前に署名を行うため連日のように交渉を行い、6月には条約はほぼ完成していたと指摘。ところが、6月下旬になって署名は突如延期になり、「これも(自民党の)党内事情であって私は詳(つまび)らかにしない」と述べています。(『日米外交三十年―安保・沖縄とその後』)。
しかし、延期の理由は「自民党の党内事情」だけでなく、もっと大きな理由があったことが、布川氏入手の米政府解禁文書で明らかになったのです。
国民的共闘
その大きな理由とは、東京地裁での伊達秋雄裁判長による「米軍駐留は憲法違反」という砂川事件判決の跳躍上告(59年4月)を受けた最高裁が早期の結審にたどり着けないことでした。
当時、安保改定に反対する国民世論と運動は、日本共産党や社会党、労組、民主諸団体などによる「安保条約改定阻止国民会議」(安保共闘)の結成(同年3月)を機に大きな発展をみせていました。前年の58年には、警察官の権限を強化し人権を侵害する警職法改悪案を国民的な共闘によって廃案に追い込む成果もあげていました。伊達判決は、こうした国民的共闘による安保改定反対運動に一層大きなエネルギーを与えるものでした。
だからこそ日米両政府は、伊達判決を血眼になって葬り去ろうとします。
国際問題研究者の新原昭治氏が入手した米政府解禁文書で明らかになったように、マッカーサー駐日米大使が藤山愛一郎外相に、伊達判決を覆すため最高裁に跳躍上告を行うよう働きかけ、これを実現させます。
詳しく語る
一方、マッカーサー大使らは最高裁の田中耕太郎長官と複数回にわたり密会。この中で田中長官は公判の日程や判決の見通し、各裁判官の立場などを詳しく語っていたことも米政府解禁文書で明らかになっていました。今回、布川氏が入手した解禁文書にも、田中長官が在日米大使館のレンハート首席公使に伊達判決破棄の決意などを語ったことが記されています。
元駐日米大使特別補佐官の経歴を持つジョージ・パッカード氏は著書で、伊達判決について「日米安保条約の正当性に対し深刻な疑問を投げかけただけでなく、1951年の対日平和条約以来の歴代日本政府の外交的業績をすべて台無しにした」と語っています(『プロテスト・イン・トウキョウ』)。伊達判決、ひいてはその根拠となった日本国憲法は、日米安保条約とそれに基づく外交路線そのものを大きく揺るがしたのです。
(榎本好孝)
解禁文書全文
(写真)布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書のコピー
布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書は次の通りです。
米国大使館・東京発
米国務長官あて
(発信日1959・8・3 国務省受領日1959・8・5)
共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は、(レンハート)在日米大使館首席公使に対し砂川事件の判決は、おそらく12月であろうと今考えていると語った。弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手段を試みているが、裁判長は、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。こうした考えの上に立ち、彼は、口頭弁論は、9月初旬に始まる週の1週につき2回、いずれも午前と午後に開廷すれば、およそ3週間で終えることができると確信している。問題は、その後で生じるかもしれない。というのも彼の14人の同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがるからである。裁判長は、結審後の評議は、実質的な全員一致を生みだし、世論を“揺さぶる”もとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した。
コメント:大使館は、最近外務省と自民党の情報源より、日本政府が新日米安全保障条約の提出を12月開始の通常国会まで遅らせる決定をしたのは、砂川事件判決を最高裁が、当初もくろんでいた晩夏ないし初秋までに出すことが不可能だということに影響されたものであるとの複数の示唆を得た。これらの情報源は、砂川事件の位置は、新条約の国会提出を延期した決定的要因ではないが、砂川事件が係属中であることは、社会主義者やそのほかの反対勢力に対し、そうでなければ避けられたような論点をあげつらう機会を与えかねないのは事実だと認めている。加えて、社会主義者たちは、地裁法廷の米軍の日本駐留は憲法違反であるとの決定に強くコミットしている。もし、最高裁が、地裁判決を覆し、政府側に立った判決を出すならば、新条約支持の世論の空気は、決定的に支持され、社会主義者たちは、政治的柔道の型で言えば、自分たちの攻め技がたたって投げ飛ばされることになろう。
マッカーサー
レンハート 59・7・31(注=起案日を示すと推定される)
政府が恐れた安保違憲判決
日米で血眼になり「判決破棄」
安保の正当性に深刻な疑問
改定交渉の「空白」埋める解禁文書
日米安保条約改定交渉の「空白」を埋める新資料が発見されました。1面所報の、布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書です。
旧日米安保条約(1952年発効)に代わる現行安保条約の日米交渉は、59年6月にはほぼまとまっていました。それにもかかわらず、その署名が翌60年1月まで延期されたのはなぜか―。この「空白」の十分な説明はこれまでなされていませんでした。
例えば、外務省のアメリカ局安全保障課長として安保改定交渉に携わった東郷文彦氏は著書で、59年7月の岸信介首相の中南米・欧州外遊前に署名を行うため連日のように交渉を行い、6月には条約はほぼ完成していたと指摘。ところが、6月下旬になって署名は突如延期になり、「これも(自民党の)党内事情であって私は詳(つまび)らかにしない」と述べています。(『日米外交三十年―安保・沖縄とその後』)。
しかし、延期の理由は「自民党の党内事情」だけでなく、もっと大きな理由があったことが、布川氏入手の米政府解禁文書で明らかになったのです。
国民的共闘
その大きな理由とは、東京地裁での伊達秋雄裁判長による「米軍駐留は憲法違反」という砂川事件判決の跳躍上告(59年4月)を受けた最高裁が早期の結審にたどり着けないことでした。
当時、安保改定に反対する国民世論と運動は、日本共産党や社会党、労組、民主諸団体などによる「安保条約改定阻止国民会議」(安保共闘)の結成(同年3月)を機に大きな発展をみせていました。前年の58年には、警察官の権限を強化し人権を侵害する警職法改悪案を国民的な共闘によって廃案に追い込む成果もあげていました。伊達判決は、こうした国民的共闘による安保改定反対運動に一層大きなエネルギーを与えるものでした。
だからこそ日米両政府は、伊達判決を血眼になって葬り去ろうとします。
国際問題研究者の新原昭治氏が入手した米政府解禁文書で明らかになったように、マッカーサー駐日米大使が藤山愛一郎外相に、伊達判決を覆すため最高裁に跳躍上告を行うよう働きかけ、これを実現させます。
詳しく語る
一方、マッカーサー大使らは最高裁の田中耕太郎長官と複数回にわたり密会。この中で田中長官は公判の日程や判決の見通し、各裁判官の立場などを詳しく語っていたことも米政府解禁文書で明らかになっていました。今回、布川氏が入手した解禁文書にも、田中長官が在日米大使館のレンハート首席公使に伊達判決破棄の決意などを語ったことが記されています。
元駐日米大使特別補佐官の経歴を持つジョージ・パッカード氏は著書で、伊達判決について「日米安保条約の正当性に対し深刻な疑問を投げかけただけでなく、1951年の対日平和条約以来の歴代日本政府の外交的業績をすべて台無しにした」と語っています(『プロテスト・イン・トウキョウ』)。伊達判決、ひいてはその根拠となった日本国憲法は、日米安保条約とそれに基づく外交路線そのものを大きく揺るがしたのです。
(榎本好孝)
解禁文書全文
(写真)布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書のコピー
布川玲子・元山梨学院大学教授が入手した米政府解禁文書は次の通りです。
米国大使館・東京発
米国務長官あて
(発信日1959・8・3 国務省受領日1959・8・5)
共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は、(レンハート)在日米大使館首席公使に対し砂川事件の判決は、おそらく12月であろうと今考えていると語った。弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手段を試みているが、裁判長は、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。こうした考えの上に立ち、彼は、口頭弁論は、9月初旬に始まる週の1週につき2回、いずれも午前と午後に開廷すれば、およそ3週間で終えることができると確信している。問題は、その後で生じるかもしれない。というのも彼の14人の同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがるからである。裁判長は、結審後の評議は、実質的な全員一致を生みだし、世論を“揺さぶる”もとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した。
コメント:大使館は、最近外務省と自民党の情報源より、日本政府が新日米安全保障条約の提出を12月開始の通常国会まで遅らせる決定をしたのは、砂川事件判決を最高裁が、当初もくろんでいた晩夏ないし初秋までに出すことが不可能だということに影響されたものであるとの複数の示唆を得た。これらの情報源は、砂川事件の位置は、新条約の国会提出を延期した決定的要因ではないが、砂川事件が係属中であることは、社会主義者やそのほかの反対勢力に対し、そうでなければ避けられたような論点をあげつらう機会を与えかねないのは事実だと認めている。加えて、社会主義者たちは、地裁法廷の米軍の日本駐留は憲法違反であるとの決定に強くコミットしている。もし、最高裁が、地裁判決を覆し、政府側に立った判決を出すならば、新条約支持の世論の空気は、決定的に支持され、社会主義者たちは、政治的柔道の型で言えば、自分たちの攻め技がたたって投げ飛ばされることになろう。
マッカーサー
レンハート 59・7・31(注=起案日を示すと推定される)