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「大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~」

2013-05-02 10:50:38 | 日記
ダイヤモンド社より転載 2013/05/02
大川小検証委で遺族が初めて意見陳述第2回会合でも見えてこない検証の行く末
多くの児童や教師が学校管理下で、東日本大震災の津波の犠牲になった大川小学校。あれから2年が過ぎた3月21日、第2回大川小学校事故検証委員会が、宮城県石巻合同庁舎の大会議室で行われた。
今回の委員会では、児童の遺族3人が初めて、検証委員たちの前で意見を陳述。遺族3人は顔と名前を出して、これまでの思いを切々と訴えた。
また、事務局から、遺族らへの個別面談やアンケートの結果、今後の調査・分析に向けた論点整理などの資料が配布された。
これを受けて、同検証委員会の室崎益輝委員長は、震災後の「市教育委員会などの事後対応」についても検証していく方針を初めて明言。遺族の思いに一歩寄り添う姿勢を見せた。
その一方で、委員会が2回終わった現段階でも、結局、いったい何が話し合われて、何が決まったのか、要点がよくわからなかったような印象も受けた。それは、議事録を読み返したいまでも変わらない。
「市教委は震災前から何も変わらない」 子どもを亡くした遺族たちの訴え
今回の議事のメインは、遺族からの意見陳述だ。まず、当時小学6年生の大輔君を亡くした母親の今野ひとみさん(42歳)は、検証委員たちに向かって、こう訴えた。
「息子が当時6年生だったので、周囲の状況や、様子や情報から、自分が置かれている状況を把握し、早くから『山へ逃げたい』と先生に訴えていたと、生存している息子の同級生から聞きました。子どもたちは人間の本能で、逃げるべき、高いところに上がるべきだということを十分に知っていたのです。このままでは自分が死ぬとわかっていながら、寒い寒い雪の降る校庭で、50分間の時間を過ごしていたときの恐怖…。代われるものなら代わってやりたかったと、いまも泣いている日々です」
続いて陳述したのは、当時小学3年生の娘・未㮈(みな)さんを亡くした只野英明さん(42歳)。同じく学校にいた当時5年生の息子・哲也君は生還している。
「石巻市の教育委員会は、生き残った子どもたちに聴き取りを行いましたが、実に乱暴で、私の承諾も得ずに息子の聴き取りを行いました。息子が話したこと、聞かれたこと、問題になっている子どもたちが山に逃げようと先生に訴えた言葉ですら、なかったことにされた。息子は指導主事の先生に、確かに、『6年生の男の子が山に逃げようって言っていたようだけど、それって本当?』という質問に、息子は『はい!』と答えたはずだと言っているのに…」
先生たちの避難行動の足かせになったものは何か
只野さんは、こうした前例のない事態が起きたにもかかわらず、教育委員会は震災前と何ひとつ変わらないことに、こう疑問を問いかける。
「息子はいままでたくさん証言してきました。家族を亡くし、友だちを亡くし、自宅も故郷もなくした子どもが一生懸命証言したにもかかわらず、大人の対応、しかも学校・教育委員会が事前、当時、事後…すべてにおいてこのような対応を取り続けているのを、いまだに見せ続けていることそのものがあってはらないと考えるのは私だけでしょうか」 3人目は、当時小学6年生だった娘のみずほさんを亡くした佐藤敏郎さん(49歳)。スライドを使いながら、中学校教諭としてのこれまでの苦しい胸の内ものぞかせた。
「市教委の先生方1人ひとりは、これまでの対応について、明らかにおかしいと感じています。しかし、それを誰も口にすることなく、言い訳に終始しなければならない構造になっています」
「これまでの事後対応について検証することは、当日の避難行動の検証とも無関係ではありません。大いに問題視すべきです」
「今日も私たち3人がこの公開の場で、カメラの前で話をしていますが、本当につらいです。関心を持っていただいている多くの皆さんも、報道の皆さんも、この重い事実にどう向き合うべきなのか、悩み苦しみながら2年間過ごしてきました」
最後に、佐藤さんは力を込めて、こう訴えた。
「津波の恐怖の中、寒い校庭でじっと指示を待っていた子どもたちから目を背けないでください。家族と地域が見守り、育ててきた、大事な、大事な、大事な子どもたちです。その子どもたちの命から目を背けないでください。仕方がなかった、で終わらせてはいけない。このようなことは決してあってはならないのです」
先生たちの避難行動の
足かせになったものは何か
このように勇気を振り絞って意見表明した遺族3人に対し、立教大学現代心理学部心理学科教授の芳賀繁委員は「先生たちが避難の必要性を感じていながら、避難行動の足かせになったものは何か」と質問した。
佐藤敏郎さんは「避難の必要性は複数の証言がある。ただ、命を守る組織として、機能が停止した状態にあった」と強調した。
捜索活動さえ組織的にまったく行なわず
「8・12連絡会」事務局長の美谷島(みやじま)邦子委員は「行政の事後対応と震災前の組織の問題の検証は必要」との認識を示したうえで、校舎の立地条件の問題について尋ねた。
しかし、佐藤敏郎さんは、これまでも学校側と保護者との懇談会の中で、「山に登るところを付けたほうがいいという意見は毎年のように出ていた。(大川小は)川が溢れたら危険な場所だということは何十年も前からわかっていた」として、立地条件のことを「クローズアップする必要はないのではないか」と指摘した。
それを受けて、東北福祉大学総合福祉学部社会教育学科教授の数見(かずみ)隆生委員が「確かに立地の問題にするのではなく、学校の中で教職員集団が子どもを守るために機能していたのかが大事な視点」との見解を示すと、佐藤敏郎さんは、「どういう学校経営をしていたのかを含めて考えていかないと、なぜ避難マニュアルがあれだけ杜撰だったのか、わからなくなる」と同意した。
捜索活動さえ組織的にまったく行わず
教育委員会が抱える深い闇
撮影が許されたのはここまでで、カメラは退席。続いて、事務局の社会安全研究所の首藤由紀所長から、委員らが児童や教職員の遺族7人から意見聴取した個別面談の結果が報告された。
そのうち、いまも行方不明のままの児童の保護者から、事前の聴取で次のような意見があったという。
<震災直後、学校長及び市教委の関係者は、捜索現場にほとんど近寄らず、安置所で遺体を見ることもなかった。市教委への報告も、遺体捜索を行う保護者に聞いて、その内容を伝えるのみだった>
<本来は最優先で行うべき捜索活動が、まったく組織的に行われなかった。学校として、もしくは市教委としての災害対策本部を設置し、関係機関に要請して、早期に大々的に捜索活動を行っていれば、いまだに行方不明のままということはなかったのではないか>
もちろん、これだけの混乱を招いたのは、震災直後、教育委員会や学校長が現場にいなかったことが原因とは言わない。しかし、本来、預かった子どもたちの命を全力で守らなければいけない学校の先生たちの組織集団である教育委員会に対し、2年以上経ったいまもなお何度も厳しい批判が寄せられていることを、文科省や教育委員会の当事者たちは、どう受け止めているのだろうか。
アンケートでも遺族が要望した「市教委事後対応」の検証
この行方不明児童の保護者は、さらにこう続ける。
<本来は、検証委員会での検証など必要ない。当事者が自らの非を認めて謝罪し、真剣に今後の改善に取り組むべきだった。真摯に反省して変わろうとしなければ、本当に、今後に活かすことにはならない>
市教委の聴き取り記憶に残された、生存者の証言の食い違い、矛盾、隠ぺい、捏造…。震災直後の2011年4月9日に行われた市教委の最初の保護者向け説明会のときから、こうした数々の疑惑に対し、問題の本質や責任の所在はうやむやにされてきた。同年6月の2回目の説明会では、1時間ほどで話し合いが一方的に打ち切られるなど、事実の解明はいまに至るまで先送りされ続けた。
そして、石巻市の行政も、遺族たちから寄せられる疑問の声に真剣に向き合おうとせず、事実の解明に向けて指導力を発揮することはなかった。
結局、国が乗り出して、このような検証委員会を設置せざるを得なかったところに、教育委員会という組織の抱える深い闇がある。
アンケートでも遺族が要望した
「市教委の事後対応」の検証
事務局では、「委員会の検証に対するご意見について」のアンケート結果も公開した。
調査は、今年2月27日から3月8日にかけて、児童・教職員合わせて64遺族に配布。うち、21遺族から回収した(3月18日現在)。回収率は、32.8%と低かった。
その中で「調査・検証してほしい事項」を聞いたところ、「市教委の事後対応」が6件で、もっとも多く、当日の避難行動の「約50分間、なぜ避難しなかったのか」が4件と続いた。
その後の議論で注目されたのは、遺族からの要望の多い「事後対応」の問題だ。
数見委員は、「事後対応を、実際に起こった被災対応と、市の教育委員会が遺族と検証しようとやってきた対応と切り離すのはどうでしょうか」と提案した。
また、美谷島委員から「市の教育委員会などから、いちばん真実を知りたいという気持ちでいる遺族に対して、きちんとした説明が行われず、2次被害のようになったことはきちんと取り上げていきたい」との意見が出され、2年間の教育委員会の説明責任のあり方を問題視していく意向を示した。
震災2年が過ぎても「検証」は何も始まっていない
これを受けて、室崎委員長は「まさに検証のあり方も問われていることは事実」と明言。「次回に、事後対応の調査項目や課題を議論としてまとめたい」との方針を明らかにした。
その一方で、東北大学名誉教授の首藤伸夫委員は、只野さんに「生き残られたご長男は何年生でしょうか?」と質問しただけで終わるなど、「たった4人しかいない生存児童の基本的な資料さえ目を通していないのか?」と、傍聴席の遺族たちを失望させる場面もあった。
こうした状況から、委員会後の記者会見では、記者から「委員は、すでに提供されている情報を、どの程度読み込んで議論に参加されているのか?予断を持たないために、あえてゼロベースの“知らない”という前提でご遺族に質問されたりしているのか、それとも、あまり読まれておらずに、この場で気づいて初めて聞いているのか」との質問が出された。
室崎委員長は「基本的には個人差がある。資料の中で重要な部分はすべて提供を受けており、かなりの委員は読んでいると思う」と述べるにとどめた。
震災2年が過ぎても
「検証」は何も始まっていない
今年2月、文科省主導の検証委員会がスタートし、3月11日は3回忌を開催。その前日の10日、大川小の校庭跡地には裏山に向かって、亡くなった大川小児童や地域の住民たちの石碑が、全国から寄せられた募金で建立された。
2年が過ぎて、このように少しずつ、復興が進んでいるようにも見える。
しかし、学校の先の長面地区では、3月10日、児童4人を含む行方不明者38人の遺体捜索が行われていた。
そして、2回目の検証委員会を終えた段階でわかったことは、実際には見てきたように、まだ検証が何も始まっていないということである。
しかも、第3回検証委員会は、7月7日(日)の午後1時から行うと発表された。3ヵ月以上もの期間を開けたうえ、中間報告を出すというものの、2回が終わった段階でも、検証の行方は見えてこない。
事務局では「その時点で判明し、委員会が認定した事実についてとりまとめたい」と説明する。しかし、中間報告に至るまでの委員たちの議論の過程は見えない。
これでは、公開の検証とは名ばかりの、実質“非公開”の審議と同じことだといえる。
(池上正樹)
◆第1回大川小検証委員会のレポート
【第20回】なぜ記者会見に出席したのは委員長だけだったのか 大川小検証委・初会合で抱いた真相解明への懸念

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