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失われた失われた時を求めてを求めて




「失われた時を求めて」のマンガが出版されて、世界中で翻訳され始めていると聞いたのはいつであったか。

プルーストの愛読者としてはぜひ見てみたい。


「失われて...」がバレエや映画になったものは今までにも見たことがある。
無為徒食で何の能もないわたしにでも、この小説をぜひとも題材にしたいという気持ちは分かる。
が、すでに20世紀を代表する芸術の一つとして栄光を確立している作品を、他の芸術媒体に置き換えたり焼き直したりすることの難しさを感じた。

優れた芸術作品には、作品そのもの以上のものが存在しているからだろうか(分かりにくい...つまり小説ならば、ページに書かれている単語と文章の集まり、それ以上のものが存在しているということ)。


で、今回はマンガ。

わたしはマンガは読まないが、世間には優れたマンガがあることくらいは知っていて、例えば「失われて...」を萩尾望都あたりに描かせたらどうなるだろうという好奇心はある。

だからやっぱり買ってみたのだ。



...日本の誇るマンガ文化のマンガとは似て非なるものであった。
形態としては欧米のマンガ(あたりまえか)。タンタンとかバットマンとかああいう類いである。わたしには今ひとつよさが分からない。


それにしても。
例えば豪華な食卓の描写をするのに、オードブルからデザートまでの絵を描き、横にそれらがどんな料理であるかという文章をつけることにどんな意味があるのか? プルーストの文章を絵に入魂できないなら初めからマンガになんかするなよ。
この本は最初から最後までこの調子なのである。
やたらとプルーストまんまの「説明文」が多い、と言うか説明文だけで成り立っている。

昔読んだ哲学入門書のプロタゴラスの章で、人間の形をしたモノサシの横に『人間は万物の尺度である』と書いてある挿絵に出くわし、その浅はかさにあきれたことをありありと思い出した。

ここまで絵で意味を限定してしまってはいかん。文学作品が古典として残るのは、本文中の言葉ひとつひとつの意味が限定されていず、広く深い意味を持っているからじゃないのか?


これならば原作に比較して奥行きと厚みに欠けても、オマージュか超訳くらいにはなっているバレエや映画の方がましである。と、思った。


これはぜひ萩尾さんに描いてもらいたい。



写真は有名なマドレーヌと紅茶の場面。「失われた...」の主人公は作者自身であると解釈されているためか、マンガの主人公はそのまんまプルーストの『顔』をしている。ほんまにヒネリないなあ。そういうところも気に入らない(笑)。
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