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厄年




厄年などの民間信仰は、そのストーリーの中で生きている人にだけ有効である。


厄年だけでなく、占い、オカルト、スピリチャル系などの疑似科学、そして宗教などもそのストーリの中で生きている人にだけ有効な知恵を授けてくれるのであり、例えば「今日の蠍座の運勢」「大○界」「オーラ○ーマ」「ユ○ヤ陰謀説」などとといったものは、そのストーリーの外の住人には意味をなさない。

もちろん、そういうものにまるっきり根拠がないと思っているわけではない。


人間は生まれ、再生産し、死ぬ。
幼児期、思春期、出産の年齢、身体にガタが来る年齢、老い、その間に病気をし、肉親を亡くし、そして最終的に死を迎える年齢は、どの人種や環境でもだいたい決まっていて、誰もそれを免れることができない。

だからこの年齢になったら無茶をしない方がいいとか、こういう時期は慎んだ方がいいなどという指針はあってもおかしくないと思う。
同様に、個人個人が守らなければ共同体が崩壊するような最低限のマナーもあるだろうから、例えば墓石は綺麗に(しなければ障りがあると言って脅す)などといった人類の知恵的目安、というのもあると思う。


風水について考えてみる。風水にしたって、わざわざ風水という名前を付けてシステム化しなくても結構常識的なことを言っている。
水回りは清潔にしておかなければ災いの元になるとか(水回りが不潔だと病を招く可能性があるのは今でも常識だ)、わが家はT字路の突き当たりにあり、風水ではそういう地形を嫌うらしいが、それは昔、中国に騎馬の敵が攻めて来る場合、通りの突き当たりにある家というのは動線的に破壊されやすかった、という経験則に根拠がある。


そういえば神戸には「拝みやさん」という風俗があった。
わたしの実家はそういうお商売の人とは全く縁はなかったが、30年以上も前の心療内科やカウンセリングなどの発達していない時代、新興住宅地の外国帰りの奥さんが、隠れて「拝みやさん」へ行った、とうウワサ話を聴いたことがある。
大人になってから拝みやさんのアドヴァイスの方法を知ったとき、うまいこと言いはるなあ、と感心したものだ。「毎朝5時に玄関を掃除して花を飾るのを30日続けなさい」とか「毎日仏壇に線香をあげてからお姑さんの話を黙って聞いてあげなさい」とか、そんな合理的な内容。



閑話休題。

わたし自身は、実家にいる時から「厄年」とは無縁だったために(こういう知恵は家で授かるものだ)、正確な厄年の年齢を知らないし、気にもならない。
正直に言えば、単なるバーナム効果だと思っている。     

でも、ふと思ったのは、「厄年」というのは、人を戒めるばかりでなく、決して楽ばかりではない人生に一筋の光をあてる効果もあるのかも、ということだ。

例えばある人の人生に連続して不幸が起こったとして、それが厄年に当たるならば「厄年だから」と諦観することができ、それでも自棄にならず、「この年が明けたらきっと好転するに違いない」と思わせることができる、つまり「春の来ない冬はない」や「夜明けの来ない夜はない」などと同じことを言っているような気がする。

人間、時に、「春の来ない冬はない」と言ってもらえることほど心強いことはないのである。


というわけで、わたしは厄年や占いなどということは無縁で生きているが、人類の知恵はそれがシステム化して人間を搾取しない限り(ビジネスにしない限り)、敬愛したいものだなと、そういうことが言いたかったのです。


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