goo

the sleeping beauty, natalia osipova 2019



Natalia Osipovaがロイヤル・バレエのオーロラ姫に扮する写真が一枚も見つからないので
上の写真はコヴェント・ガーデンにできているロイヤル・バレエのポップアップショップのウインドウ



昨夜はロイヤル・バレエ The Sleeping Beauty『眠れる森の美女』、Natalia Osipovaがオーロラ姫の回だった。

『眠れる森の美女』は今年はクリスマスから新年にかけてのロングランで、オーロラ姫役にはかなりの人数(8、9人?)がいる。
ナタリアが今季オーロラ姫を踊るのは昨夜が1回目。彼女が主演する回は2回とも見に行くつもりだ。


大ファンとしては認めることにしよう。小さい声で。

よくなかったです。昨夜の公演...ああ、初めて書いた(笑)。
今まではそう思うことがあっても、Natalia Osipovaだもの、彼女が悪いのではなく、わたしに見る目がないのだ、と強く思い込もうとしていたのだ。

例えば昨夜のローズ・アダージョの後のオーロラ姫のヴァリエーションその他で、音楽がかなり余るという彼女にしては体裁が悪いハプニングがあった。センターで終わらせるためには音楽の方を余らすしかなかったようだった。

ローズ・アダージョも、「16歳の誕生日の希望と喜びに輝く光のようなオーロラ」の瑞々しいキレ、弾むような軽さがない。
前回のシーズンでは、彼女が登場するとともに空に本物のオーロラが現れたかのように舞台の雰囲気ががらっと変わり、「青春」が舞台から観客席にあふれてくるようなまぶしい幸福感を味わったものだ。

2幕目の幻想シーンはよかったが、3幕目の結婚式のパ・ド・ドゥでも判断の誤りで音楽が余り、指揮者が指揮棒を素早くふって短縮させたほどだった。

また、王子役のDavid Hallbergとの間に何か感情があるようには伝わって来なかった。

とにかく空間認識能力にも音楽性にも長けている彼女のはずなのに変な間が多く、見ている方がとまどってしまった。


正直言って、Natalia Osipovaに確信を持てない時期が何度かあったのだが、次に見に行くと彼女は他のどのダンサーをも圧倒的に引き離して最高に素晴らしかったりする。
それで、「あれ、やはりわたしの見る目のなさのせいか?」と思うことになる。

あの『ジゼル』はいわずもがな、最近の『マノン』も、前シーズンの『ドン・キホーテ』も素晴らしかった。
ジゼルを踊る彼女は「生の喜びの絶頂に輝きながら、悲嘆のあまり死ぬ運命が近づいている若い女」の矛盾をひとつにして演じているのだ。


たぶん、彼女は出来不出来が激しい。いい時はありえないほどすばらしく、一方でそうでもない時もある。
今までもそうだったのか、最近よくそうなるのか、わたしに目がないから分からない。しかも大ファンという色眼鏡まであるので...

いつ見ても100点のダンサーと、今日は60点だが、次は150点、というダンサーとどちらがいいのだろうか。どっちもいいけど...好みかな...

ああ、だからか、わたしがNatalia Osipovaの回のチケットを全部買うのは!

......


オーロラ姫は16歳で呪われて眠りにつく。長い間その土地は死んだようになり、彼女が復活すると世界は再び光に満たされる。

オーロラ姫が眠りにつく時が冬の訪れで、長い冬の後に目覚める時が春の訪れなのだ。

彼女は死んだのではなく、単に眠りについた。つまり春は厳しい冬の後に必ず巡ってくるのだ。

このサイクルは人間が地球上で生を営む上での死活問題だった。
古代の人たちは冬枯れの後に必ず春が戻ってくるようにできるだけの細工(呪術、儀式、神話、絵画など)をしたのである。

われわれの生活から切り離せない神話。

さらに詳しく説明すると、オーロラ姫は大地の女神デメテルの娘にして春の女神ペルセポネだ。
ペルセポネが完全に死んでしまうと、地上には二度と生命が戻ってこないのでそれは困る。
彼女は冬の間眠る(地下の母の元で過ごす)だけなのだ。その後、彼女の目覚め(地上に戻る)とともに必ず春は巡ってくる、その魔法をかけるのが、生と死を司る神であるハデスなのである。
わたしがリラの精とカラボスが同一人物だと思うのはこの理由からである。


ロイヤル・バレエの『眠れる森の美女』は、現行のヴァージョンは2006年のもので、そろそろ野暮ったい衣装や舞台装置を洗練してはどうかと思っている。
しかし話の筋、舞台衣装のギミック(西洋服飾史的に、きっちり時間の経過を反映してある)を変えて欲しくないのは、これが人間になくてはならない「神話」だからだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )