青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

長かった梅雨

2016-07-29 07:38:31 | 日記
関東地方は、昨日になって漸く梅雨明け宣言が出ました。
昨年よりも18日遅い梅雨明けです。梅雨の日数は53日間でした。平年の梅雨の日数は43日間で、梅雨の日数が平年よりも10日以上長くなったのは、2003年以来13年ぶりのこと。長い長いと感じていたのは、気のせいでは無かったのですね。横浜の降水量は、平年比141%ですってよ。

梅雨が長かったせいか、我が家の植物たちはヘタリ気味です。恵みの雨も度が過ぎれば、根腐れの元になってしまいますね。


雨にも負けず、ヒオウギが花を咲かせ始めました。
ヒオウギは、丈夫で発芽率も高いので、ビギナーにも親しみやすい植物です。


夏の定番、日日草。長雨で花弁がやや痛み気味…。
日日草は、丈夫で花期が長いので重宝しています。夏季の日日草と冬季のビオラは、お手頃園芸の強い味方です。


ランタナは水切れに弱い花ですが、雨量が多すぎるのも、それはそれで良くないみたいです。

他にも寄せ植えとか色々作ってみたのですが、長雨にやられたためか、おしなべて花の色が良くないです。雨が降るたびに鉢を庇の下に移動させれば良いのですが、面倒なのでそのままにしていたのが敗因かと。解っているのにやらない私は、ズボラ主婦。
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朝顔2016

2016-07-25 10:53:05 | 日記

先週から我が庭の朝顔が咲き始めました。
今年は種を蒔くのが二週間くらい遅れたのですが、思ったより開花は遅れませんでした。ある程度は自己調整が出来るのでしょうか?植物すごい!


今年の神奈川は雨量が多いです。未だに梅雨が明けません。
そのため、アリストロメリアは根が傷んだらしくて、花の付きが悪いです。


メダカを飼っている睡蓮蜂。
鉢から雨水が溢れないように、時々柄杓で掬っています。
睡蓮は花が一つもつかず、葉ばかりで残念。でも、夏が来たら、メダカの日よけになりますね。
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夏休み2016

2016-07-22 10:12:03 | 日記
二十日に終業式をむかえ、小学校は夏休みに入りました。しかし、神奈川県は、未だ梅雨が明けません。
それでも、天気に関係なく、娘は全力で遊び呆けています。お勉強が嫌いなのはよく解ったから、もう好きに生きれば良いよ…。

長期休暇の度に思うのですが、最近の小学校は宿題が少ないですねぇ。
今回も、理科の研究を除けば、三~四日で終わるくらいの量しか出ていません。もうゆとり教育は終わったのだから、あと三倍くらい増やしてくれても良いのですが…。それでも娘のクラスは、四年生の中では一番宿題の量が多いのです。
宿題が少ない分、家庭で学習プログラムをしっかり立てないといけませんね。好きに生きれば良いよと言いつつ、やっぱり諦めきれない親心。

今日が午後から、実家の母が来ます。
週末に東京の句会に出るために我が家に泊まるのです。娘は久しぶりにおばあちゃんに会えるのを楽しみにしていますが、おばあちゃんがあんまり遊んでくれないのは不満みたいです(笑)。母は、昔から子供の相手が苦手なのですよねぇ。私も遊んでもらった記憶がありません。

今夏は、国立東京博物館の古代ギリシャ展と小田原の生命の星・地球博物館、それから、映画館と釣りに行く予定。余力があれば、江戸東京博物館にも行きたいなぁ。今、大妖怪展が催されているんですよね。妖怪大好き。
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モーパッサン怪奇傑作集

2016-07-20 07:09:54 | 日記
『モーパッサン怪奇傑作集』

モーパッサンの怪奇幻想作品は30数編あるが、この『モーパッサン怪奇傑作集』には、そのうち、『手』『水の上』『山の宿』『恐怖 その一』『恐怖 その二』『オルラ』『髪の毛』『幽霊』『だれが知ろう?』『墓』『痙攣』の11作が収録されている。
これらの物語は、ファンタスティックなモチーフではなく、モーパッサン自身が精神に異常を来していたという個人的な経験を反映している。

モーパッサンは『脂肪の塊』『女の一生』などで知られるフランス自然主義文学の代表的な作家だが、晩年に狂気の世界に踏み込み、精神病院に収容され、激しい痙攣の中で息を引き取ったこともよく知られている。
実質的な創作期間は30から40歳までのわずか10年。芸術家としてはリアリストからシュールレアリストへ、人間や事物の外面的現実を描くことから、人間の魂や事物の核を描くことへ、唯物的世界から唯心的世界へと移行していき、ついには狂気錯乱の世界に陥っていったということが出来る、らしい。
自然主義・写実主義を徹底的に追求していく過程でそれらの限界に行き当たり、観念主義・幻想主義の立場から外面的な観察や描写を突き抜けたところに人間や事物の本質を求めようとしたわけである。

怪奇幻想作家の代表としてすぐに名が浮かぶのは、ポーとホフマンであるが、彼等の作品は、あくまで想像力で書いたものといってよいだろう。
それに対して、モーパッサンの怪奇幻想小説は、正気と狂気の狭間でもがく精神異常者の見る出口の無い悪夢だ。それらは、読者にとっては見えないものだが、モーパッサン自身にとっては見えるものなので、我々の世界と彼の世界の間に横たわる断絶に絶望的な気持ちになる。
生への倦怠、死を望みながらも死を恐怖する懊悩、発狂への恐れ、老いへの不安…彼が身悶えするほど苦しんでいることがわかるのに、それを共有することが出来ないもどかしさで胸が苦しくなる。

収録作のうち、最も完成度が高いのは『手』だろうか。
語り手のベルミュティエ氏が、コルシカ島のアジャクシオという町で予審判事をしていた時に関わり合った手に纏わる復讐事件。いったい何事か?と興味を惹かれる導入部から、読者を突き放すような鮮やかな結末まで、短編小説のお手本のような手堅い仕上がりである。

『恐怖 その一』『恐怖 その二』は、“わたし”やそのほかの登場人物に恐怖体験を語らせながら、読み進めていくうちにモーパッサンにとっての恐怖の定義が理解できる仕組みになっている。
本書では四番目と五番目に収録されているが、モーパッサン的怪奇幻想世界のガイドとして最初に読んでおいても良いかもしれない。

そして、何と言ってもこの傑作集の白眉は、『オルラ』だろう。
この短編は、セーヌ川の流れる街・ルーアンに住む“ぼく”が、精神に変調を来し、妄想に呑み込まれ、自我が崩壊していく過程を日付入りで描いている。
発熱、不眠、と日を追って体調が崩れていく。そして、体調不良と連動するように情緒不安定な状態に陥っていく。自分は気が狂ったのではないのかという不安が高まり、徐々に自分のすぐ傍に何者かの実在を明確に感知するようになる。それを“あいつ”と呼び、“あいつ”が“オルラ”と名乗り、その“オルラ”なる存在が“ぼく”に憑り付き、妄想を抱かせていると考えるに至る。最後に、“オルラ”を殺すために自宅に放火するが、それでも“オルラ”から逃れられないと悟り、自殺を決意するところで物語は終わる。

想像力や思考の際限の無い連鎖が恐怖を育てる。
“オルラ”は、“ぼく”に対して強烈な危害を加えてくるわけではない。“オルラ”の悪戯は、子供じみた他愛無いものばかりだ。
それなのに、何故、“ぼく”は、 “オルラ”を恐れるのか?
自分のすぐ傍に、いるはずのない存在をリアルに感じる。ただし、明確に規定できるものではなく、どこまでも未知のベールに包まれたままである。
本当に恐ろしいのは、どうしても理解できないものだけだ。未知の世界からやって来た、曰く言い難い恐るべきもの。それだけが本当の恐怖だ。
悪意の有無に関わらず、“ぼく”は、圧倒的な他者であり、もう一人の自分でもある“オルラ”の存在自体が我慢できない。自然主義文学で鳴らしたモーパッサンの鬼気迫るリアルな文章は、“ぼく”の精神が荒廃していく過程を息苦しいほど克明に伝えている。
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金髪のエックベルト

2016-07-18 08:41:40 | 日記
ティーク作・林昭訳『金髪のエックベルト』は、表題作のほか、『妖精』と『美しいマゲローネとペーター伯爵との恋物語』が収録されている。

「童話は文学の規範である。すべての詩的なものは童話的でなければならぬ」(ノヴァーリス)

ドイツ・ロマン派といっても、ホフマン、ノヴァーリス、ジャン・パウル、そして、このティークくらいしか知らないのだけど、夜のメルヘンという雰囲気が好き。満天に瞬く星々の輝きとか、森に漂う霧の匂いとか、角笛と葦笛の音色が混じり合う響きとかに身も心も浸されそうな、そんな感じ。冷たく、静謐で、孤独で、清浄。人肌の温もりが連想させる腐敗臭とは無縁なところが好き。

メルヘンこそが、ドイツ・ロマン派全体の世界観の最高の表現形式だ。
中世を舞台に咲いた孤独と恐怖、夢と現実のない交わった童話小説『エックベルト』は、ドイツ・ロマン派の童話小説の典型となっている。
中世民衆童話の形を借りたティークの創作童話の中では、人間の意識の深淵にひそむ不安・恐怖・記憶・憧れ・予感などが戦慄的な自然の描写と結びつき、人間存在の根源を揺るがすものが暗示される。
『金髪のエックベルト』の中で鳥が歌う“森のしずけさ”はドイツ・ロマン派を象徴する語となった。

『金髪のエックベルト』は、騎士エックベルトと妻ベルタの罪と罰の話。
ハールツのある地方に、金髪のエックベルトという通称で呼ばれている一人の騎士が住んでいた。40がらみの背は低からず高からずといったところの男で、蒼ざめた頬のこけた顔にかかる明るい金髪は、濃く滑らかであった。彼と妻ベルタとの間には子供はなかったが、夫婦は心から愛し合い、近所付き合いもせず、小さな居城でひっそりと暮らしていた。

ある日、エックベルトは親友のヴァルターに、ベルタの秘密を本人の口から聞いてくれるよう持ち掛けた。
これまでも随分と注意を払って隠しおおせてきた秘密。それを洗いざらい打ち明け、友人に胸の奥の奥まで開いて見せることで、一層友情を深めたい。そんな衝動に駆られたのだ。

ベルタの奇妙な身の上話―――。
貧しい羊飼いの娘として育ったベルタは、8歳のころ、父親の虐待から逃れるために家を出て森を彷徨った。そこで不思議なお婆さんに出会い、世話になることになった。

お婆さんは身内のようにベルタを可愛がってくれた。
森の自然に魅了され、お婆さんの下で家事をし、犬と宝石を生む鳥の世話をする穏やかな生活が続いた。
鳥は歌った。

“森のしずけさ
わが喜びぞ、
今日も明日もとこしえに、
ああげに楽しきは
森のしずけさ“

幸せであった。しかし、少し退屈だったのかもしれない。ベルタは世の中に憧れ、美しい騎士との出会いを夢想するようになった。

人間、分別が付いてくると、いつか無垢な魂を失っていくということは不幸なことだ。
14歳になったベルタは、お婆さんの留守中に鳥と宝石とを盗って、所謂世の中なるものを探しに出かけることにした。

帰郷した時には、すでに両親は亡くなっていた。
天涯孤独になってしまったベルタだが、盗んだ宝石を元にお金持ちになることが出来た。とある感じのいい街で、庭付きの家を借りて、女中を雇った。世の中は想像していたほどには素晴らしいと思えなかったが、まあまあ満足した生活が送れるようになった。
しかし、その頃から、鳥の歌の文句が変わったのだった。

“森のしずけさ
遠く逃れぬ!
おお悔ゆるべし汝
いつの日か、――
ああ類なき喜び
森のしずけさ“

ベルタは不安と後悔の念に苛まされ、夜も眠れなくなった。鳥の姿を見るのが嫌になった。そして、鳥を縊り殺してしまった。
すると、今度は女中が恐ろしくなった。女中がベルタの秘密を嗅ぎ当て、ベルタのものを奪っていくかもしれない。ひょっとしたら、殺すかもしれない……。
ベルタは、少し前に知り合った騎士エックベルトに求婚され、これを受けることにした。

以上が、ベルタの話だった。
このあと、ヴァルターが口にしたある言葉が、夫婦を不安に陥れる。
人間はいったん猜疑心に駆られると、どんな些細なことにもそれを裏書きするものを見ようとするものである。エックベルトは、誠実な友に卑しい邪推をしたことに心がとがめたが、どうしてもその気持ちを振り払うことが出来なくなってしまった。

“森のしずけさ
還りし喜び、
悩み消えはて
妬みもあらず、
喜び新た
森のしずけさ“

ベルタの罪は、盗みどころではなかった。
ベルタが世間を見たいなどと思いついたことで、彼女だけでなく、エックベルトまでもがとんでもない禁忌を犯していたのだ。それを知らないまま死んだベルタよりも、すべてを聞かされて発狂したエックベルトが哀れである。彼は、何という恐ろしい孤独の中で生涯を送ってきたのだろう。

不安が不安を呼び、自縄自縛に陥り、狂気に至る。
運命が空転していく息の詰まるような描写のところどころに、愚かな人間を皮肉るかの如く、自然の描写が差し挟まれている。森のしずけさ、森のしずけさ、と繰り返される鳥の歌声が美しい悪夢を際立たせ、読者を酩酊させる。

『妖精』は、お転婆な少女マリーが鈍くさい幼馴染とはぐれて、妖精に出会う話。
人間、分別が付いてくると碌なことをしない、という点は『金髪のエックベルト』と同じ。本人以上に、周囲の人々(妖精も)の方が酷い目にあっているところも同じ。実に不条理だ。

『美しいマゲローネとペーター伯爵との恋物語』は、騎士ペーターが身分を偽り、諸国を行脚中(自分探しの旅か?)に美しいマゲローネと出会い、恋に落ちる話。
先の2作があんな感じなので、読む前には破滅の予感しかしなかったが、案外笑える話だった。古今東西、思春期の男女ってこんなものかもしれない。
しなくてもいいことばかりして、ピンチに陥る。そして、歌う。歌っている場合かと思うが、歌の力でハッピーエンドになるので、結果オーライ。作品を占める歌の分量がすごい。読むミュージカルといった感じだった。
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