青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

インド人のカレー屋さん

2017-01-30 07:12:31 | 日記
巣鴨在住の人から、うちの近所に美味しいカレー屋さんがあると教えられたので、日曜に行ってきました。うちの地元は藤沢市辻堂です。東京の人に藤沢のことを教えられるって…。

お店の名前は、〈アバンティ〉と言います。
藤沢市遠藤642-1 やまかスーパーの2階
0466-88-8935

車で来店しましたが、裏の道にあるスーパーの駐車場を利用させてもらえました。
因みにこのスーパー、帰りに買い物したのですが結構安かったです。


私が頼んだレディースセット。飲み物はアイスチャイです。飲み物代込みで1050円。
ルーの種類と辛さは、お好みで選べます。今回、種類はバターチキンとシーフード、辛さは辛口を頼んだのですが、私の舌には少し辛過ぎました。次回は中辛にしようと思います。
ナンはうちの猫が丸まったぐらいの大きさで、お腹いっぱいになりましたよ。


主人のランチ。飲み物はラッシーです。1080円。飲み物代は別で150円。
主人も辛口を頼みました。ほうれん草とバターチキンです。彼の舌にはちょうど良かったそうですよ。
ナンはうちの猫のお布団より大きいです。


娘はお子様ランチ。甘口でバターチキン。飲み物代込みで680円。
子供には少々多すぎる量でした。成人女性のランチにちょうど良い量ではないでしょうか。
食後のデザートにマンゴーソースのかかったバニラアイスが出てきました。

お店にはインド人の店員さんしかいませんでしたが、注文を受けに来た方の日本語が流暢だったので問題はなかったです。
外国人のお店というと、中華街の雑な接客のイメージが強いですが、このお店の店員さんは愛想が良く、丁寧な接客をしてくれました。グラスのお冷が3分の2くらいまで減ると、こちらが頼まなくてもつぎ足しに来てくれましたよ。お会計の時には、厨房の方も挨拶に出てきてくれて感じが良かったです。肝心のカレーも美味しかったので、また行きたいと思いました。
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魔猫

2017-01-26 07:13:45 | 日記
エレン・ダトロウ編『魔猫』は、十七名の欧米作家による、猫に関わる短編を集めたアンソロジーである。

収録作は、
「天国の条件」……A・R・モーラン
「マリゴールド・アウトレット」……ナンシー・クレス
「白のルークと黒のポーン」……スーザン・ウェイド
「親友」……ゲイアン・ウィルソン
「スキン・デープ」……ニコラス・ロイス
「習慣への回帰」キャシー・コージャ&バリー・N・マルツバーグ
「五匹」……ダグラス・クレッグ
「露助」……ウィリアム・バロウズ
「ぺちゃんこの動物相 詩 第37:猫」……ジェイソン・ヨーレン
「ある猫の肖像」……ストーム・コンスタンティン
「壁のなかで」……ルーシー・テイラー
「猫と殺し屋」……スティーヴン・キング
「動物愛護について」……スティーブン・スプルーイル
「セーラ」……ジョエル・レイン
「誰もおれの名前を知らない」……ジョイス・キャロル・オーツ
「猫からの贈り物」……ハーヴィ・ジェイコブズ
「顔には花、足には刺」……タニス・リー

収録作のうち再録は、スティーヴン・キングとウィリアム・バロウズの作品のみで、残りは本書のために書き下ろされた作品である。
解説に〈猫=魔性の生き物をテーマにしたホラー&ダーク・サスペンスのアンソロジー〉と記してあるが、全体的にホラー色もサスペンス色も薄めだった。おまけに、猫アンソロジーなのに猫が添え物扱いの作品もいくつか見られて、猫好きとしては食い足りない内容だった。猫好き猫嫌い双方が納得の傑作「黒猫」を生み出したポーはやはり偉大だと再認識。
とは言え、全くの不作だったという訳でもなく、何作かはしっかりと猫×ホラー(或いはサスペンス)の良作もあった。

十七名の作家のうち、私が知っているのはスティーヴン・キングとウィリアム・バロウズ、それから、ジョイス・キャロル・オーツの三名のみで、後は初めての作家ばかりだった。
私がアンソロジーを読む最大の理由は、未知の作家と出会いたいからだ。しかし、残念ながら本書収録作で文句なしに面白かった四作のうちの三作が既知の三名のもの。初めての作家の作品は、ハーヴィ・ジェイコブズの「猫からの贈り物」のみ。
あとの作品が全部気に入らなかった訳ではないけど、薄ら寒くて湿っぽい作品が多かった。猫ってもっと粋な生き物なんじゃないかと不満が残る。特に“猫と暮らす可哀想なおバカさん”系の話には全く共感できない。
倉橋由美子がエッセイかなんかで「馬鹿は幸せになれない」と言っていたけど、そういう人が主人公のお話は退屈で通俗的で、まったく猫らしくない。飼っていたのが偶々猫というだけで、亀でも兎でも一緒なんじゃないだろうか。私自身は共感力に欠ける性質なので、ベソベソした作品を読んでもイライラするだけだが、優しい人が読んだら全く違う感想を持つのだろうか。

以下、気に入った作品について感想を述べてみる。

「露助」
本書収録作の中で抜群に面白かった。他と全然違う。一行目から好奇心を鷲掴みにされる。
ロシアは、アジアでもなければヨーロッパでもない、独特の魅力と不気味さを放つ国であるが、本作は猫の神秘性にロシアの神秘性をうまく掛け合わせて、怪異に説得力を持たせている。

“グレート・ギャツビー”と呼ばれた男の元にいた、誰もから死を望まれた猫の物語。
猫の名前はルスキ。ロシアン・ブルー、だから、ルスキ(露助)。

“グレート・ギャツビー”は、ルスキのことをKGBの大佐だと言う。
パーティの客たちは、それを冗談だと愉快がっていた。“グレート・ギャツビー”の通訳を介して、客たちからの質問にルスキが答える。ルスキは、客たちの性的趣向から、医療ミス、財政上・法律上の問題まで何でも言い当てた。皆、ルスキが死ねば良いのに、と思った。

そんなルスキが殺された。
CIAの男が肉片に毒を仕込んだことを暴いた途端、射殺されたのだ。その場に居合わせた客たちは、CIAの男を非難した。皆、ルスキの死を願ってはいたが、そこに係り合いたくはなかったのだ。

それから一年後、“わたし”はタンジールのパレード・バーでそのCIAの男に偶然出くわしたのだが…。

CIAの男は何故落ちぶれてしまったのか?彼は本当にルスキの幽霊の存在を信じているのか?彼が正気を保っているのかも疑わしいところだが、それらについての説明は一切ない。ただ、悲惨な末路だけが予見される。
僅か4ページの掌編は、唐突に始まり唐突に終わる。ひどく無慈悲でスタイリッシュ。そして、気まぐれ。猫の特性を的確に捉えた傑作だ。

「猫と殺し屋」
たぶん、本書収録作の中で最も悲惨な主人公。
でも、本人の性格が醒めているので、悲壮感はない。あまりに酷過ぎて笑ってしまうが、本人も同情されるくらいなら笑って欲しいと思っているはず。

ベテランの殺し屋ホルストンは、世界屈指の製薬メーカーの経営者ドロガンから、三人の人間を殺したという猫の殺害を6000ドルで依頼される。
ホルストンは猫好きだった。敬意を払ってさえいる。だけど、それ以上に彼はプロなので、相手が猫でも全力だ。というより、プロの感が「この猫は侮ってはいけない」と警告を発しているのだ。

想像力に欠き、迷信などてんから信じない殺し屋が、初見で奇妙な感覚に襲われるほど印象的な猫。確かに今回が初対面のはずだ。それなのに、“おれたちは知りあいだよな”と心が囁くのはなぜなのか?

この後、仕事に取り掛かったホルストンは猫と凄まじい死闘を演じ、語り草になるような死に方をする。第一発見者の農夫の間抜けな印象と相まって、このシーンはかなり笑えた。

農夫の証言によると、猫は急いでいるようだった。まるでやり残したビジネスでもあるみたいに…。ドロガンは逃れられないだろう。
猫が本気を出したら、大実業家も、ベテランの殺し屋も叶わないという話。

「誰もおれの名前を知らない」
本作は、オーツの短編集『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』にも、「私の名を知る者はいない」というタイトルで収録されている。
猫が子供の息を吸い取り殺してしまうという迷信に、生まれたばかりの妹に周囲の大人たちの愛情と関心をすべて持っていかれてしまった長女の千々に乱れる心模様が巧くミックスされている。
このブログでも、2016-12-15に感想を載せているので、今回は深くは触れない。
ただ、『魔猫』収録作には、猫と子供の組み合わせの作品が、他に二作あるのだけど(「マリゴールド・アウトレット」、「セーラ」)、それらとは猫モノとしての面白さが格段に違うということは言っておきたい。冷めた語り口、突き放したようなラストシーン、主人公の早熟さ(というか他の二作の主人公が馬鹿すぎ)、何よりも猫の特性を存分に生かしたテーマ。猫好きが読んでも猫嫌いが読んでも、猫ってこんな感じだろうなぁと満足できるクオリティだ。

「猫からの贈り物」
ブラックな猫あるある。

ダーリーンは、毎日のように飼い猫のジュバルから贈り物を受け取っていた。
ジュバルは、木の葉や小枝、ときには太った虫やナメクジといったものをダーリーンの足元に置く。ダーリーンは、ジュバルの戦利品に大げさに喜び、取っておくふりをして、猫がその贈り物を忘れるのを待ってからごみ袋に放り込むのが常だった。

成猫になるにつれて、ジュバルの贈り物は、ネズミに、小鳥にと、だんだん厄介になっていく。
相変わらず、ジュバル自身は渡すだけ渡すと贈り物のことなど忘れてしまう。だから、ダーリーンもこれまで通りに、ジュバルの目につかないようにごみ袋いっぱいに詰まった小鳥の死骸をごみ収集に出す。収集人の目はあまり気にしていない。

“まあすてき、ありがとう
気のいい優しい、わたしの猫ちゃん“

さらに、ジュバルの贈り物は進化を遂げて、何処の誰かもわからないバラバラ死体のパーツを拾ってくるようになるが、ダーリーンの対処法は相変わらずなのだった。だって、ジュバルの責任ではないのだから。

猫につられて、ダーリーンの行動がさりげなく常軌を逸していく過程が、愛猫家あるあるだ。
猫を飼っていると、猫に媚びたり諂ったりで、とんでもなく間抜けな口調になってしまう。猫飼いは猫の天然自由なところが好きなので、猫から与えられる贈り物が人目を憚る物であったとしても、心の底から “気のいい優しい、わたしの猫ちゃん“と思うのだ。猫の愛くるしさの前では、法律も倫理も霞んでしまう。
猫に憑かれるって、こんな風に密やかに幸せに狂っていくことなのだろう。
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今冬のハイビスカスと柴犬

2017-01-23 07:13:40 | 日記
晩秋にいったん花を終えたハイビスカスが、部屋に取り込んでおよそ二ヶ月半でまた花を咲かせるようになりました。夏に比べると一回りほど小さな花です。




ハイビスカスを見上げる凜。下顎から写した画像が魚っぽいです。


この鉢は二年前の母の日に娘から贈られたものです。
出来るだけ長生きしてもらえるように大切に育てていますよ。


桜は自分の体より小さな箱に無理矢理お尻をはめています。
四角い箱が好きです。丸い箱には入りません。
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アサイラム・ピース

2017-01-19 07:08:27 | 日記
『アサイラム・ピース』は、アンナ・カヴァンがアンナ・カヴァン名義で発表した最初の作品集。「母斑」、「上の世界へ」、「敵」、「変容する家」、「鳥」、「不満の表明」、「いまひとつの失敗」、「召喚」、「夜に」、「不愉快な警告」、「頭の中の機械」、「アサイラム・ピース」、「終わりはもうそこに」、「終わりはない」の14篇が収録されている。

『アサイラム・ピース』というタイトル通り、古城の牢獄や精神病院の隔離病棟を舞台に、解放されることを望みながらも、鉄格子に守られる安寧を受け入れてしまってもいる主人公の二律背反が描かれている。

どの作品もほぼ主人公の視点のみ進行する。
一人視点とは、それだけで公平性を欠く不安定な手法だが、本作の主人公は精神に失調をきたしているので、猶更信用にならない。
その上、主人公が苦境に置かれた経緯の説明はなく、主人公が管理されている理由が法的なものなのか医学的なものなのかもわからない。主人公が何をやらかし、誰に罰せられているのかも不明だ。読者は何が出てくるか分からない暗闇の中を手探りで読み進めるしかない、精神衛生的に宜しくない作品なのだ。

“地獄が我が床をしつらえても、見よ、そこには汝がいる”

14編はそれぞれ独立した作品としても読めるし、同じ人物の妄想集としても読むことも可能だ。殆どの作品では、主人公に名前が与えられておらず、一人称の〈私〉で表現されているので、この感想でもこれ以降、主人公を〈私〉呼びで統一することにする。

〈私〉は常に〈私〉を破滅に追いやる誰かと強い磁力で結ばれている。逃れることはできない。
〈私〉は、パトロンに惨めな現状の改善を乞い、正体不明の敵と戦い、理由の不明な罪状で告発され、信頼の出来ないアドバイザーに振り回されながら、何とか不当な抑圧から解放されようと奮闘している。

しかし、〈私〉がどれだけ足搔こうが、結局のところ兄弟のように近い存在であるらしい敵の勝利に終わるのだ。この関係は、カヴァンの最後の長編『氷』の主人公と長官の関係に酷似している。
美しい自然描写もまた。
斯様に優しさも労りもない非人間的な世界を描きつつも、自然の描写だけは奇妙なほど美しいのだ。これがカヴァン自身の心象風景なのだろう。殊に鳥の描写は、そこだけ読むと、まるで世界には希望が満ち溢れているような錯覚を覚える。
シジュウカラ、アオガラ、ヒガラ、ハシブトガラ、エナガ、アオカワラヒワ、ズアオアトリ、コマドリ、ホシムクドリ、クロウタドリ、ツグミ、スズメ、ハト…これらの鳥たちは希望の象徴として描かれている。

しかし、本書において、希望は絶望の呼び水に過ぎない。
〈私〉は、温情ある判決が下されることや、たまに見舞いに来る夫が〈私〉を連れ出してくれることを期待するが、それらはことごとく裏切られ、無情な手によって惨めな場所に送り返される。僅かの間、気まぐれに差す光源が〈私〉の置かれている状況の希望の無さと〈私〉の精神の荒廃をくっきりと浮かび上がらせる効果を発揮しているのだ。

“私には友人が、恋人がいた。それは夢だった。”

〈私〉は、端から愛情も美しい自然も知らなかった方が幸せだったかもしれない。
確かに経験したことのあるそれらの記憶を消すことが出来ないのなら、冷たい鉄格子の中で見た儚い夢幻だったと思って諦めた方が良いのかもしれない。
それでも、最初の作品「母斑」の光の方向を探っているかのように差し伸べられた痩せ細った腕から、最後の作品「終わりはない」の常緑樹の庭を見つめる目まで、〈私〉は少しでも明るく暖かな“上の世界”に触れることを諦めない。それが苦痛を長引かせるだけだとわかっていても。

弱っている人に、「諦めたらお終いだ」と励ます人もいるが、「諦めてお終いにした方が良い」と促すことが優しさになる場合もあるだろう。自分で終わらせることが出来ないのなら、誰かが終わらせてあげれば良いのに。終われないことが罰なのだろうか。

独房に始まり独房に終わるこの作品集は、生涯を敗北者として過ごすことになることを悟ってしまった者が、それでも誘蛾灯に惹かれる羽虫のように弱弱しく足搔く様が胸を抉る。
主人公が謎の権威によって追い詰められ敗北するというスタイルから、カフカとの類似点を指摘されることの多いカヴァンであるが、社会不適合者ぶりではカフカどこか、他のいかなる作家にも席を譲ることはないだろう。徹底的に非人間的な世界を描くことで、人間らしさの神髄に触れる稀有な作家だと思う。
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掌の小説

2017-01-16 07:22:19 | 日記
川端康成の『掌の小説』には122編の短編が収録されている。青年時代から40余年にわたって書き綴られたものだ。2~10頁ほどの掌編ばかりで、隙間の時間に少しずつ読むのに最適。短いと言っても122編すべての完成度は高く、掌サイズの宇宙といった趣だ。

自伝的作品、恋愛事件を扱った作品、伊豆に取材した作品などいくつかの系統に分かれているが、「火に行く彼女」「金糸雀」「蛇」など男女関係のなれの果てを描いた作品が私好み。それらには川端の性癖がよく表れていると思う。男性から見た女性の禍々しさを描いた「化粧」も興味深かった。

夢やパーツ愛をふんだんに盛り込んだ幻想的な作品を書きつつも、その根底には冷めたリアリズムが横たわっている。かなり残酷なことを書いていても、そこにお涙頂戴的な卑しさがないのが清々しい。ベタベタとした情緒に煩わされずに、ひんやりとした詩情を愛でていれば良い本書は、突飛で怪奇で美しいものに目がない浪漫趣味者にとっては御馳走の詰め合わせの様な傑作集である。

122編すべてについて語るととんでもない文字数になるので、特に気に入った作品についてのみ短い感想を書いてみる。

「火に行く彼女」
坂の下の下町一帯は火の海だ。彼女は人群をすいすい分けて坂を下る。坂を下りて行くのは彼女唯一人である。
たまらない気持ちになった私が、言葉でなしに彼女の心持に直接語り掛ける。

“「どうしてお前だけ坂を下りていくのだ。火で死ぬためか。」
「死にたくはございません。でも、西の方にはあなたのお家がございます。ですから、私は東へまいります。」“

そこで目が覚めた。眼尻に涙が流れていた。
私の方は、彼女の私に対する感情が冷え切ったものと諦めたポーズをとりつつも、心底では彼女の感情のどこかに私のための一滴が残っていると思っていたかったのだ。
だけど、こんな夢を見るということは、彼女の中に私への好意が微塵も残っていないことを、私は信じ切っているということなのだろうか。

夢は私の感情だ。だから、夢の中の彼女が私を厭うのも、私がこしらえた感情のはずなのだ。
焔の広がる町を彼女が背を向けて走り去っていく。あなたのそばに行くくらいなら焔にまかれた方がましだと言わんばかりに。それが、私の信じる私と彼女のラストシーンなのだ。

「金糸雀」
男には妻がいて、奥さんには夫がいる。
別れた後、男は約束を破って奥さんに手紙を書いた。どうしても伝えなければならないことがあったのだ。
別れの記念に奥さんから貰った金糸雀を、もう飼えなくなったのだ。

“この鳥で私を思い出してくださいまし。生き物を記念品に差上げるなんて可笑しいかもしれません。でも、私達の思い出も生きているのです。金糸雀はいつか死ぬでしょう。私達お互いの中のお互いの思い出も、死なねばならない時が来れば死なせましょうよ――”

その金糸雀が死にそうなのだ。
ずぼらな男は金糸雀の世話を妻に任せていた。その妻が死んだのだ。

空に離すのは嫌だ。
奥さんに返すのも嫌だ。
鳥屋に売るのも嫌だ。

妻が飼っていたから今日まで生きていた鳥だ。奥さんの思い出として。
妻の死んだ時が、男と奥さんの思い出が死なねばならない時だったのだ。
だから、この金糸雀を妻に殉死させたいと思う。
男は思うのだ。妻がいてくれたからこそ、奥さんのような女と恋が出来た。妻が男には生活の苦しみを見せないようにしてくれていたのだ、と。

それはきっと正解だと思う。
男と、妻と、奥さん。一番酷いのは誰なのか?
男が金糸雀とともに妻の墓に埋めたのは、奥さんとの思い出だけではないだろう。

「化粧」
私の家の厠の窓は、谷中の斎場の厠の窓と向かい合っている。私はそこに女たちの姿を見る。
厠で化粧をする喪服の女たち。
屍を舐める血の唇の様な口紅。彼女たちは皆落ち着きはらっている。私の目にはそれが誰にも見られていないと信じながら、隠れて悪いことをしているという罪の思いを表しているように見える。

人目のある所では、死者のためにさめざめと涙を流しておきながら、誰もいない厠でシレーッと化粧直しに耽っている姿は、奇怪と言えば奇怪かもしれない。
しかし、女の立場から言わせてもらえば、化粧は成人女性の嗜みであり、改まった席に素顔で出るなど有り得ないことなのだ。そして、人前で化粧直しをするのはマナー違反である。礼儀を守っているだけで、深い意味など無いのだから、落ち着き払っているのは当たり前だ。

この話は一見女をこき下ろしている態を装っているが、実は冷笑されているのは男の方だ。
女たちの化粧姿を見て心の中に女への不信を募らせておきながら、私は少女の涙にあっさり騙される。少女の謎の笑いに戦慄する私は、滑稽な感傷家だ。どれだけ女という存在に囚われているのかと思う。
私は、本当は女を信じたいのだろう。だけど、私が信じたい女などこの世にはいないのだ。

「蛇」
44歳の稲子が見た夢である。
誰の家だかわからないその屋敷に神田夫人が主人顔をしている。
はじめ小鳥を見ていた時は、夫もその座敷にいたようである。小鳥は二羽、蜂鳥の様に小さく、柄長の様に尾が長い。その尾は宝石のようにきらきら光った。
「ああ、きれいだ。」と稲子は思った。

いつの間にか夫の姿が消えていて、代わりに神田夫人が座敷に座っていた。
座敷に蛇が五匹這っていた。五匹の蛇はそれぞれ色が違っていた。
その一は黒い蛇。その二は縞の蛇。その三は山かがしのように赤い蛇。その四はまむしのような模様があるが、まむしよりも鮮やかな色の蛇。その五はメキシコ・オパアルが光って焔の見えるような色の蛇。
「ああ、きれいだ。」と稲子は思った。

篠田の前の細君が、座敷に座っていた。
神田夫人と稲子は現在の年齢のようだが、篠田の前の細君は、稲子が彼女を知っていた25年前よりも若かった。髪ははやりの結い方で、きらきら光る飾りがついていた。いろんな宝石で出来た大きい輪櫛が小さい宝冠の様な飾りである。
「ああ、きれいだ。」と思って稲子が見ていると、篠田の前の細君は、「これを買って頂戴よ。」という。端から少しずつ動くその飾りはやはり蛇なのだった。
庭にも蛇がいっぱいいた。

目が覚めてから、「うじゃうじゃいたのか。」と夫に尋ねられれば、稲子は「20匹くらい。」とはっきり答えることが出来た。

篠田の前の細君とはもう25年もあっていない。篠田は離婚してすぐ再婚した。
前の細君は離婚と同時に、稲子たちの前からも姿を消した。篠田は20年前に亡くなった。
篠田と稲子の夫は大学の同級で、同じ会社に勤めた。彼らの就職を、篠田の前の細君が先輩の神田に頼んでくれたのだった。
篠田の前の細君は、結婚する前に神田が好きだった。そのことを神田夫人は知らない。

小鳥と、蛇と、篠田の前の細君。
稲子は夢を判じようとはしなかったけど、もし判じてみたら、もっとゾッとするような綺麗なものを見ることが出来たかもしれない。

小鳥の尾が動くにつれて美しい色や光が変化するのは、宝石が角度を変えるにつれて違う輝きを放つのに似ている。蛇の鱗もヌラヌラした動きに合わせて様々な光彩を放つ。人の心もまた、環境の変化によって異なる色彩を帯びる妖美なものなのかもしれない。
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