青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

アポロンの眼

2018-12-28 08:58:43 | 日記
チェスタトン著『アポロンの眼』には、ボルヘスの序文と、「三人の黙示録の騎士」「奇妙な足音」「イズレイル・ガウの名誉」「アポロンの眼」「イルシュ博士の決闘」の五編が収録されている。


本書は、ボルヘス編集“バベルの図書館”の1巻であるが、私にとっては3冊目の“バベルの図書館”の作品である。
タイトルに惹かれて3冊目はこれにしようと決めたのだが、チェスタトンと言う作家名には覚えがなかった。チェスタトンが私にとって未知の作家ではないことを思い出したのは、ボルヘスの序文を読んでからだ。

ブラウン神父…私はこの名を知っている。
そこに気が付くと、記憶が蘇るのは早かった。小学3年生の頃である。クラスに江戸川乱歩好きの子がいて、彼女と一緒に図書館の児童向け探偵小説を競うように読んでいた時期があったのだ。
児童向け探偵小説と言えばポプラ社で、彼女がポプラ社の乱歩全集を好んで読んでいたのを覚えている。あの、一度見たら忘れられない独特の表紙のシリーズである。
私の方は、ポプラ社の乱歩から入りつつも、すぐに海外の探偵小説の方に興味が移った。そして、同社の世界名探偵シリーズをはじめ、各出版社から刊行されている児童向けに平易に訳された海外の探偵小説を乱読するようになった。その中に、チェスタトンのブラウン神父シリーズがあったのだ。
その後、五年生の終わりに転校し同好の士と離れたことで、私の名探偵ブームはあっさり終わってしまった。そうして、気に入った作家以外は、探偵の名ごと忘れた。チェスタトンのブラウン神父シリーズも、そんな作品の一つである。当時の私は、この貧しく小柄な老神父があまり趣味ではなかった。作風そのものも地味で心躍らないと感じていたように記憶している。

ボルヘスは序文で、“G・K・チェスタトンのように温良で気立てのやさしい人が、同時にまた、事物にひそむ恐怖を感じ取っていた端倪すべからざる人物でもあった”と述べているが、当時の私はチェスタトンの作品から前者のみを感じ取っていたのだと思う。“その気になればカフカにもポーにもなり得たであろうに、彼は雄々しくも幸福であることを選んだ、というか、幸福を見出したかのように振る舞ったのである”というチェスタトンの独創性には気がつかず、“カトリックは彼によれば常識に根拠を置いている”というチェスタトンの健全なカトリシズムをうっすらと退屈に感じていたのかもしれない。当時の私は、珍奇なもの、非常識なもの、刺激の強いものを求めて探偵小説を読んでいたので。

ボルヘスは、チェスタトンの批評家としての仕事や神秘的だったり幻想的だったりする小説類には、あまり高い評価を与えていないようだ。チェスタトンの“実際の名声は、なによりもブラウン神父の手柄と呼べるものに依っている”と言い切っているし、“チェスタトンの代表作と私が感じているもの”として本作に収録した五編のうち、「三人の黙示録の騎士」を除く四篇がブラウン神父シリーズだ。

小説は顔面の戯れであり、探偵小説は仮面の戯れである、とはチェスタトンの言葉だ。
一人の人間が仮面のように自在に人格をつけ替える「イルシュ博士の決闘」が、その典型である。一人の人間が発する二種類の足音が事件の肝である「奇妙な足音」もまた、仮面性を強く感じさせる作品だ。「奇妙な足音」は、ブラウン神父の懇切丁寧な謎解きに読んでいてワクワクさせられたが、子供時分の私はこの論理的秩序を地味と感じていたと思われる。
子供時代に僅か二年ほど探偵小説に夢中になっていた時期があるだけの私が言うのもおこがましいのだが、ブラウン神父シリーズの良さは、雰囲気や反則技で誤魔化さない手堅さにあると思う。オカルトに流れそうで流れない「イズレイル・ガウの名誉」からは、邪道に対する批判精神すら感じた。


「イズレイル・ガウの名誉」は、代々、神秘的悲哀に包まれた城館に住むスコットランド貴族の末裔の消息を探る物語。

ブラウン神父は一日だけ暇をとって、グレンガイル一族の城に滞在中の友人フランボウを訪ねた。素人探偵フランボウは、故グレンガイル伯爵の生死を調査中なのだ。ブラウン神父は、フラウボウとクレイヴン警部に協力して、城内を調査する。
この度亡くなったとされる伯爵は、勇猛、狂気、狡猾によって恐れられた一族の末裔であった。
この土地で唄われる韻文が、グレンガイル一族の策謀の動機と結果を明示している。

“夏の樹の緑の液のよう
オーグルヴィーの赤い金は“

何世紀もの間、奇人変人ばかりを産出してきた一族の最後の代表者は、一族の狂気の総仕上げのように謎の失踪を遂げた。
長年隠遁生活を続け、陽光のもとで伯爵の姿を見た者は誰もいない。城館の使用人は、聾啞で愚鈍なイズレイル・ガウただ一人。この男が、伯爵の死を見届け、自分の主人を棺に納めて釘を打ち、丘の上の小さな墓地に埋葬したと供述している。と言うことは、伯爵は何らかの理由で己の死を偽って、未だ城館に潜んでいるのかもしれない。

ブラウン神父たちが城内で見つけた様々な珍品…嵌め込み台から外された大量の宝石類、箱から出された嗅ぎ煙草、ケースから外された鉛筆の芯、文字盤のない時計、握りの外された杖、飾り文字の削られた祈祷書等々。それから、墓地に埋葬されていた、伯爵のものと思われる首のない遺体。何やらオドロオドロしい小道具たちである。
ブラウン神父はそれらを繋ぎ合わせて、「見当違いのことを言う十人の哲学者の説も宇宙の秘密を解き明かすことだってある。十のいい加減な説もグレンガイル城の秘密を説明することが出来るのです」と嘯き、つらつらと珍説を挙げては自ら否定するという、悪ふざけみたいなことを繰り返す。その心は?

“これは犯罪の物語ではないのです。むしろ、一風変わった、偏屈な正直者の物語でしょう。わたしたちが相手にしているのは、自分の分け前しか受け取らなかったおそらくは地上でただ一人の男なのです。”

グレンガイル一族について唄った古い詩は、比喩的なだけではなく、字義通りでもあった。
イズレイル・ガウは見かけほど愚鈍ではなかった。彼は、一種独特な良心の持ち主だったのだ。私は、この奇妙な守銭奴が丘の墓を掘り起こしている姿から、やっていることに反して、ひどく神聖な印象を受けたのだった。


「アポロンの眼」では、ブラウン神父はフランボウと再びコンビを組み、太陽を崇拝する新興宗教の祭司長と彼の信者の墜落死の謎に迫る。

ブラウン神父らが対峙した事件は、一つの犯罪のように見えて、実は同一人物になされた二つの犯罪だったのだ。
アポロンの祭司長を名乗るのにふさわしい美男子カロンと貧相な小男のブラウン神父の対比の繰り返しと、その後に導き出される事件の真相に、皮肉を通り越して心が痛む作品だった。
冒頭で、カロンの主宰する新興宗教団体の看板を見上げた時の、「本当に健康な人間ならば」「わざわざ太陽をじっと見つめたりなんかしないでしょう」というブラウン神父の言葉には、真相を知った後に思い返すとなんともやりきれない気持ちになるのだった。


私が三十数年ぶりに再会したブラウン神父は、風貌こそ地味だがなかなか攻めている探偵だった。
作中でその貧相な風貌を小さな黒いシミのようだと評されながらも、ブルジョアの集団や新興宗教の祭司といった押し出しの強い連中を相手に、岩のように微動だにしない態度からは、彼の胆力とその源であるカトリシズムが伺えた。
この健全であること、正道であることを一歩も譲らないブラウン神父の姿勢が、そのままチェスタトンの姿勢であるとするなら、下のボルヘスの言葉もなるほどと肯けるのだ。

“文学は幸福というものの数ある多様な形態のうちの一つである。たぶんいかなる作家も、チェスタトンほど私に多くの幸福な時をあてがってくれはしなかった。私は彼の神学を共有するわけでもなく、『神曲』に霊感を与えた神学とも無縁の徒だが、この二つが作品の構想にとって不可欠であったことは知っている。”
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クリスマス2018

2018-12-25 08:50:14 | 日記

今年もクリスマスパーティを開きました。


去年に引き続き、サンタいっぱいケーキ。
今年は苺が大きかったので、去年よりサンタさんの数が少ないです。


去年は花型のケーキ型で焼きましたが、今年は普通の丸型にしました。

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ピザ二種。トマト缶と玉葱と大蒜を炒めて作ったソースがベースです。
予行演習では同じ量の材料で21㎝の生地にしましたが、少し薄すぎたので、今回は18㎝にしました。
上は、カマンベールチーズとピザ用チーズ、ミニトマト、ピーマン。
下は、ピザ用チーズ、サラミ、ピーマン、コーン。


娘コメガネもお手伝い。


エビマヨは夫が作りました。


鶏の唐揚げ。


カボチャとクリームチーズのサラダ。


野菜たっぷりミネストローネ。


コメガネのプレゼントはブーティです。
今日から塾の冬期講習なのですが、さっそく履いて行くそうです。
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真冬の修学旅行

2018-12-20 07:41:33 | 日記
18・19日は娘コメガネの学校の修学旅行でした。行き先は日光。
本当は10月だったのですが、台風で延期になってしまい今月になったのでした。真冬なのに日光だなんて、コメガネの体調が心配になりましたが、元気に帰って来てくれてホッとしましたよ。


今回のお弁当は、チーズハンバーグ&唐揚げ弁当でした。
チーズ乗せハンバーグと鶏の唐揚げがメインで、他には、アスパラガスのベーコン巻き、ミニトマト、レタス、おにぎり、デザートの洋ナシです。容器は使い捨てを使用しました。

これが小学校で作る最後のお弁当になります。
と言っても、あんまり感慨はないですね。藤沢市は中学から給食が無くなるので、毎日お弁当になりますから。作ること自体は良いのですが、詰め方が下手でどうしても隙間が出来てしまうのが気になっています。コメガネは気にならないと言ってくれますけど。


日光のお土産。なんか妙な物も買って来ていますね。
コメガネさんは自由行動の時間を満喫出来たようで、寒さは全然感じなかったそうです。見学したものの中では鳴き龍と華厳の滝が良かったそうです。何よりお泊りタイムが一番楽しかったそうですよ。


修学旅行一日目は夫が珍しく定時に帰って来たので、二人でぶらぶら街歩きをしてから外食しました。
大きな穴子の天麩羅が美味しかったです。家ではこんなに綺麗に揚げられません。
コメガネが大きくなったので、夫婦で出歩く機会も少しずつ増えてきましたが、まだ夜は家を空けられませんね。前回二人で夜に出歩いたのも、コメガネが林間学校で不在だった日でした。もう少しすれば、また夫婦でお酒を飲みに行ったりも出来るようになると思います。


我が家の地域も寒さが増し、エアコンでは辛くなってきたので、ヒーターを出しました。
運転が始まった途端に温風の前に集うシッポ隊です。
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ミクロメガス

2018-12-17 07:34:56 | 日記
ヴォルテール著『ミクロメガス』には、ボルヘスによる序文と、「メムノン」「慰められた二人」「スカルマンタドの旅行譚」「ミクロメガス」「白と黒」「バビロンの女王」の6編が収められている。


本書はボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の7巻目にあたる。思惑があっての並びであろうから、本来なら1巻から読むのが正しいのだろう。
が、私が“バベルの図書館”を知ったのが、ボルヘスの『夢の本』に収録されていたパピーニの「病める騎士の最後の訪問」が気に入ったことからなので、 “バベルの図書館”は、当然の如くパピーニの『逃げてゆく鏡』から読み始めた。この『逃げてゆく鏡』は、“バベルの図書館”の最終巻にあたる。端から順番が違っているので、今後も好きな巻から読んでいけばいいと開き直った。

実のところ、『ミクロメガス』は、なるべく後回しにするつもりだったのだ。
なんせ私は、四半世紀ほど前に祖父の本棚から借りパクしたキルケゴールの『死に至る病』を未だ読了できていないくらいの哲学オンチで(その間に祖父が鬼籍に入ったので永遠に返せなくなってしまった)、ヴォルテールなど絶対理解できない、苦行のような読書は御免蒙りたいという気持ちが強かった。それにも関わらず、パピーニに続いて、ヴォルテールを手に取ったのは、『ミクロメガス』と言うタイトルの、神話的でもあり宇宙的でもある響きに強く心惹かれたからなのである。

ヴォルテールの物語には、『千夜一夜物語』と『ガリヴァー旅行記』の二つの典拠がある。
本書にはその両方が収められているが、私が読みやすいと感じたのは、『ガリヴァー旅行記』典拠の作品だった。
中でも、表題作の「ミクロメガス」は、期待以上の面白さで、他には「メムノン」「スカルマンタドの旅行譚」も所々笑いをかみ殺しながら読み進めたものである。
読んでみて思ったのだが、ヴォルテールは読者からの理解をさほど期待していなかったのではあるまいか。自身の作品の中で、持ち前の批評精神をもって、理屈屋や無謀な大望を抱く者を皮肉るヴォルテールは、むしろ熱心な追従者を倦んでいたのかもしれない。

ボルヘスは序文で、“おそらくヴォルテールは人間をそれ以上複雑な分析には値しないものと考えたのであろう。たぶん彼は間違ってはいないであろう”と述べている。我々が自身の心中に複雑怪奇な深淵を抱えていると感じるのは、錯覚なのだろうか。何だかそんな気がしてきた。
また、“ライプニッツは、この地球はありとある可能な世界のうちで最良の世界であると言いつづけていた。ヴォルテールはそのようなありそうもない理論を愚弄するために、「オプティミスム」という言葉を考え出した。(略)破局と災難の実例を積み上げでみせることは彼にはむつかしいことではなかったが、彼はそれを、得られた結果が人心を荒涼たらしめる悲しみではなく、それとは正反対のものとなるほどの椀飯振舞と、じつに気の利いた文致とをもって行ったのである。ヴォルテールのような人間を産み出した宇宙がどうして邪悪なものであり得ようか。彼は自分をペシミストと信じていたが、彼の気質はその愁うべき可能性を彼に禁じた”、というボルヘスの見解も、ヴォルテールの作品を読んでいく上で大きな手掛かりになった。そして、最後まで読んだ後に、もう一度序文を読み返し、なるほどそういうことかと感じ入ったのである。


「ミクロメガス」は、宇宙を股に掛けた巨人たちの冒険譚だ。
宇宙版ガリヴァー旅行記とでも言ったらよいのか、出てくる数字がいちいち壮大なのが笑いを誘う。

「ミクロメガス」は、

第一章―――シリウス星系の一住人が土星へ旅すること
第二章―――シリウス星の住民と土星の住民が話を交わすこと
第三章―――シリウス星の住民と土星の住民とが二人して旅に出ること
第四章―――地球上で彼らの身に起ったこと
第五章―――二人の旅人が実験と推論を重ねること
第六章―――異星人と人間の間に生じたこと
第七章―――人間との会話

の七つの章から構成されている。

シリウス星に、ミクロメガスと言う名の若き才人が住んでいた。
我々の住む地球に比べるとシリウス星は途轍もなく巨大な星であり、そこの住民もまた、我々地球人に比べると大変な巨人である。

“ミクロメガス氏は、頭の天辺から爪先まで二万四千歩、即ち王尺で云えば十二万尺の身の丈があり、他方、地球の市民たる我々の身の丈は、たかだか五尺余りに過ぎず、かつまた我々の天球は周囲九千里であるから、(略)即ちミクロメガス氏を産出せしめた天球は、是非ともわれらの小さな地球の、正味二千百六十万倍の円周を有していなければならない”

桁が違い過ぎて上手く想像できないが、シリウス星人にとって地球などちっぽけな蟻塚に過ぎないことはわかる。
では、なぜ偉大なるシリウス星人ミクロメガスが、辺境の蟻塚まで旅することとなったのか。
事の発端は、ミクロメガスが四百五十歳頃の子供時代が終わろうとする時期(シリウス星人は大変な長寿なのだ)に、知的好奇心の赴くままに行った実験の結果をまとめた著書にある。著書中から胡乱なにおいを嗅ぎ付けた律法博士から告発を受け、裁判沙汰となったのだ。二百二十年も続いた裁判の結果、ミクロメガスは、八百年間宮廷の出入りを禁ずるという有罪判決を受けた。
それを切掛けにミクロメガスは、己が《知性と心情》の修行の仕上げをせんがため、惑星から惑星へと旅を始めたのだった。

ミクロメガスは、土星に立ち寄った際に、土星アカデミーの才気ある人物と意気投合した。
意気投合と言っても、土星は地球のほぼ九百倍の大きさしかない矮小な星であり、そこの住人も身の丈がたかだか千トワーズ(1949メートル)の矮人に過ぎない。ミクロメガスは相手に理解を示しつつも、

“如何に身の丈が六千尺しかなくとも、いやしくもものを考える存在である以上、決して莫迦にしたものではないかも知れぬ”

と、ナチュラルに上から目線である。
この土星の矮人の知力は、恐らくシリウス星人と地球人との中間くらいなのだろう。ミクロメガスのうっすらと皮肉な物言いせいで、彼に対して若干マヌケな印象を抱いてしまうが、馬鹿にしたものではないはずだ。
土星人の感覚が七十二種類であるのに対し、シリウス星人の感覚は千種類もある。また土星人の寿命は約一万五千年だが、シリウス星人は土星人の七百倍も生きる。生涯に受け取る情報量が異なるので、哲学論を交わすのにも対等な雰囲気にはならないのは致し方ない。
それでも、議論の末、二人は連れ立って哲学的小旅行を試みることにしたのである。

木星、火星を経由した二人は、遂に地球に到達する。
しかし、三十六時間で地球を一周できてしまう巨人たちには、地球上の生物を裸眼で捉えることが出来ない。せっかちな土星の矮人は、地球上には生物は存在しないと決めてかかるのだが、偉大なるミクロメガスは、見えないからと言って存在しないとは限らないと諭す。その後、身に着けていたダイヤモンドを顕微鏡代わりに、まずは鯨を見つけ、それから鯨と同じ大きさの船を見つけるのだった。

ここから、漸く巨人と地球人との対話が始まる。
土星の矮人は、その小ささ故に地球人をかなり侮っている(ちょうどミクロメガスが土星の矮人を侮っているように)。一方のミクロメガスは、

“目に見えぬ昆虫諸君、畏くも創造主の御手に依り、無限小世界の深淵中に生れた皆さん。私はまず測り難く思われる大自然の秘密を示し給うた神に対し、厚く感謝を捧げるものであります。おそらくわが宮廷で諸君に目見えることまでは許されないでしょうが、しかし私は何びとをも侮る気はありませんから、諸君を保護して差し上げましょう”

とこれまた安定の上から目線なのだった。
その後、地球の物理学者が巨人たちの身長を正確に測定したとことから、ミクロメガスは地球の賢人たちと対話を始める。
これを脇で聞いている土星の矮人の反応が可愛い。
彼は地球人の返事に驚愕した余り、つい十五分ほど前には彼らに魂などあるはずはないと言っていた癖に、今度は、こいつらは魔法使いではあるまいか、と感嘆するのである。しかし、物語はそのまま地球人礼賛とはならない。ミクロメガスは、

“いや本当に、かつてないほどよく解りました、如何なるものに対しても、見かけの大きさなんかで判断を下すべきではないと云うことが!おお神よ!あなたはこれほどとるに足らぬように見える存在にさえ、一個の知性を与え給うた”

と彼が巨人でなければ、そろそろぶん殴りたくなるような言い草だ。
ミクロメガスは、この無限小世界に住むダニどもが、物理や歴史など目に見えるものに対してそれなりの見解を述べることが出来ると知ると、霊魂とはなんであるか、また人は如何にして自分の思想を形成するのか、その点を聞かせてもらいたいと願い出るのだった。
答える哲学者たちの学派は様々であり、その主張もまた様々だった。が、数が多いだけで全員碌なことを言わない。
ミクロメガスは、「神は私が手を下すことなしに一切をなし給うのであります」と唱えるマルブランシュ派の学者には、「むしろ君はいないほうがいいんじゃないの」と答え、その他の哲学する微生物どもにも、相応と思われる対応をした。最後に、聖トマスの『神学大全』を信奉する者の「すべてが、ただひたすら人間のために造られた」という主張を聞くに至って、巨人たちは、抑えきれない爆笑に息を詰まらせながら、互いに折り重なって笑い転げるのだった。この無限小のダニどもの、無限大とも云うべき傲慢さはどうであろう。
ともあれ、ミクロメガスは、地球人たちに彼らのサイズにふさわしい哲学書を作ってやると約束し、出発前に手渡した。受け取った地球人がその書を開いてみると、そこには真っ白な頁以外何も書かれていなかったという締めである。
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逃げてゆく鏡

2018-12-13 07:30:09 | 日記
G・パピーニ著『逃げてゆく鏡』には、ボルヘスの序文と「泉水のなかの二つの顔」「完全に馬鹿げた話」、「精神の死」「〈病める紳士〉の最後の訪問」「もはやいまのままのわたしでいたくない」「きみは誰なのか?」「魂を乞う者」「身代わりの自殺」「逃げてゆく鏡」「返済されなかった一日」の10の短編が収録されている。


“すべての現在は自分たちの手によって未来のための犠牲にされ、その未来はやがて現在となるが、またもや別の未来のための犠牲にされ、そのようにして最後の現在まで、すなわち死まで、引き延ばされてゆくであろう。”「逃げてゆく鏡」

浅学な私はボルヘスの『夢の本』を読むまで、このパピーニという20世紀初頭のイタリア人作家の存在をまったく知らなかった。
『夢の本』の中で最もアタリだと思ったのが、パピーニの「病める騎士の最後の訪問」で、この短篇は、本書では「〈病める紳士〉の最後の訪問」というタイトルになっている。騎士が紳士に変わっているせいか受ける印象も少し変わる。訳者が異なるから、というのもあるだろうが。
それは兎も角、何とも奇妙な吸引力のある作品だったので、これはこの人の他の作品も読んでみるしかあるまい、ということで本書を手に取ってみた。

この『逃げてゆく鏡』は、ボルヘスの編集した“バベルの図書館”の最終巻(全30巻)に当たる作品で、日本では国書刊行会から出版されている。
ボルヘス×国書刊行会、これでハズレなはずはないだろうという期待通り、10編すべてが大アタリの良書。装丁装画も美しい。

序文によると、ボルヘスがパピーニの作品に出会ったのは、僅か11か12歳の頃のことだそうだ。何と早熟な…。
パピーニはイタリア人でありながら、その作風はドイツ・ロマン派の伝統にあり、体調の良くない時に見る悪夢のような、曰く言い難い不安に支配されている。

登場人物はたいてい二人。
その二人というのも主人公と彼の分身と思われる人物で、小説らしいドラマチックな展開は起きず、長いモノローグを聞いているような鬱々とした気分になる。
主人公たちもその分身たちも等しくパピーニの自我の投影であり、ひたすらに主我と客我を摩擦させることで、己とは何者なのかを突き詰めていく。こう書くと随分としんどい印象になってしまうが、人物の内面の詩的な描写と場景の写実的な描写とのバランスが良く、言い回しも適度に洒落ているので息苦しさはあまり感じない。寧ろ読みやすいとさえ感じる。淡い憂鬱に彩られた不思議な作風だ。
ボルヘスの、 “パピーニのすべての作品がそうであるように、郷愁と苦悩にみちた戯れである” “この作家が度し難いほど徹底的に詩人だった”という評が、パピーニの作風を端的に表しているだろう。
パピーニが活動していたのは、人類(より正確には先進国)が繁栄の輝きから哀感漂う黄昏へと針を傾けつつある時期だ。このうっすらとした絶望の予感は、パピーニの作品を覆う病葉の色調と同系統のものである。これほどまでに極端に他者の存在しない作家でも、時代の空気には無反応ではいられなかったのだろうか。寧ろ余人より感度の良いアンテナを持っているために、少し先の未来を幻視できていたのかもしれない。


一作目の「泉水のなかの二つの顔」は、古典的な分身伝説に新しいエッセンスを加えたもの。
ポーの「ウイリアム・ウイルソン」のように主人公の破滅が明確に描写されているのではないが、だからこそ余計に怖い。魂の深い部分が死滅したまま、残りの人生を生きていくというのはどんな悪夢なのだろう。

主人公の男は、科学の分野での見習修道士を勤めていたころ住んでいた地方の小都市を再訪する。七年の歳月を経ていたが、街並みは昔と変わらなかった。男は当時一人の時間を楽しんでいた廃園を訪れた。そこにはあの泉水が、男が後にした日と同じ姿を留めていた。

“あの泉水の胸元から、久しく水の迸り出た例はなかった。水は澱んで動かなくなり、太古の昔のような相貌をとった。落葉は一面に泉水を覆い、水の底に積もった病葉は遠い神話の時代の秋を物語っているかに思われた。”

あの頃の男は、泉水をのぞき込んでは、水中にある己の顔に見入ったものだった。長い間見つめていると、それが己の肉体の一部というよりは、水底に嵌め込まれた一つの影のように思われたのだった。
かつてのように男が己の顔を水鏡に映し込むと、その隣には、もう一つ別の顔が映っていた。その顔立ちは七年前にいつも映し出されていた男の顔と完全に一致していた。振り返ると、隣にはもう一人の男が腰を下ろしていて、泉水の中を覗き込んでいるのだった。男が手を伸ばすと、彼の方も男の手を握り返してきた。きみはわたしだね、と語りかける男に、彼は躊躇いながらこう答えた。

“(略)ぼくにはわかっていた、きみが必ず帰ってくるであろうと。おのれの魂の深い部分をきみはこの泉水の底へ残していった。そしてその魂を、今日まで、ぼくは生きてきたのだ。けれどもいまは、ふたたびきみとひとつになりたい。きみに寄り添っていたい。きみと一緒に暮らして、過ぎ去った歳月のあいだにきみが生きてきた物語を、きみの口から聞きたい。ぼくは、あのころのきみと、まったく同じなのだ。あのころきみが知っていた以上には、きみのことを何も知らない。きみにはわかるはずだ。ぼくが知りたい、聞きたいと願っている、この気持が、どういうものか。どうかぼくを、ふたたびきみの道連れにしてくれないか(略)”

男は承知した。二人は兄弟の様に手に手を組んで廃園を後にした。
暫くは歓びの日々が続いた。
二つの個我は、飽くことなく語り合っては、懐かしい回想に浸った。なんせ彼はかつての自分なのだ。彼のすべてが理解できる。
しかし、回想の日々が過ぎると、男は彼との生活に倦怠を覚えるようになった。
彼が絶え間なく露わにするある種の純粋さと無知が、男には不快だった。彼の頭の中を占めている思想や理論が、男には滑稽で時代遅れに思え、同情にも似た侮蔑の念が芽生え、やがてそれは嫌悪にまで募った。

“いま、こうやってわたしが嘲笑っているこの男は、滑稽で無知なこの若者は、かつて、わたし自身であったのだ。そればかりか、若干の点においては、依然として、わたし自身でもあるのだ”

果たして人は過去の己を丸ごと愛し、受容することが出来るのだろうか。
この物語の二人の間には七年の年月が横たわっている。
七年もの年月があれば、若い人ならそれなりの経験値を積むことが出来る。それに伴って価値観も変わる。七年前の己が真善美と崇めていたものが悉く陳腐に思えてしまっても仕方がない。
そんな羞恥に赤面してしまうような過去の己が実体化し、現在の己にとっては既に色褪せてしまった詩や音楽をうっとりと賛美し、薄ら寒い理論や哲学を得意げに語りだしたらどうか。どうにかして無かったことにしたいと願うのではないか。

男はついに彼に対して憎しみの情を堪え切れなくなる。
男は彼と決別するために小都市からの出発を試みるが、その度に彼に阻まれ、憎悪と絶望感が募っていく。彼の監視を振りほどけないと知るや、男はもはや残された手段は一つしかないと思い詰めるのだった。

その日、男と彼はあの廃園へ連れ立って出かけた。
二人は泉水へと近づくと、水鏡に映る自分たちの姿をのぞき込もうとした。

“そして、わたしたちの二つの顔が寄り添いつつ、暗い水鏡の上へ浮かび上がってきたとき、やにわに、振り返って、わたしは過去のわたしの両肩をつかみ、彼の顔が浮かび上がってきた水面めがけて、その中を覗きこんでいた顔もろともに、彼の身体を押しこんだ。そして水のなかへ彼の頭を押さえつづけ、煮えたぎる憎悪をこめて、力を緩めようとしなかった。(略)やがて、彼の身体が力を失い、ぐったりとなるのを感じた。押さえつづけていた手を、わたしは放した。すると彼の身体は、水の底へ、ゆっくりと沈んでいった。憎むべき過去のわたしは、過ぎ去った歳月の、愚かしくも滑稽なわたしは、こうして、永遠に死んだのである。”

過去を殺すことで、男は現在とやがて訪れる未来だけになった。男は晴れやかな心で小都市を後にした。

“わたしこそは、おのれを殺して、そのあとになおも生きつづけている、唯一の人間である”

しかし、本当にこれで解決したのだろうか。
男は今、ある大都会で暮らしながらも、我が身のうちの何かが欠けたようなもどかしさを感じている。
何より恐ろしいのは、時間が経てば、現在の男は過去の男になり、未来の男が現在の男になるということだ。その時、現在の男はかつて自分が過去の男を軽蔑したように、未来の男に軽蔑されるだろう。延々とその繰り返しだ。
これらの軽蔑する者と軽蔑される者はすべて、同じ名前を持ち、同じ肉体に宿る、同じ人物なのだから、おそらくは何度でも同じ破局を迎える。一直線に流れる時間の中で、人生が続く限り、数年おきに現在の男が過去の男を殺し続ける、という絶望的な展開が予想される。

ボルヘスは、 “パピーニという人は不当に忘れられているのではないかと私は思う”と述べている。
これほどの傑作を生みだした作家が忘れられるのには、それなりの理由があるはずだ。近年になってボルヘスによって発掘され、多くの読者から好評を受けている理由もまた。
それらについての回答は、ボルヘス自身の “私はパピーニを読み、そして忘れてしまった。そしてそのことは、それと気づかないうちに、かえっていっそう鋭敏に作用した。忘却はしばしば記憶の深い形式にもなりうる”というのが、正鵠を得ているのだろう。
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