青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

キップをなくして

2018-06-28 07:03:49 | 日記
池澤夏樹著『キップをなくして』

娘の夏休みの読書感想文にどうかと思って読んでみたが思ったよりも大人向けだった。

ある初夏の朝、主人公のイタルは電車の中でキップをなくしてしまう。
フタバコさんという年上の女の子に連れられて東京駅に降り立ったイタルは、暗い通路を進んだ先にある教室のような部屋に辿り着く。
そこにいる子供たちは皆、キップをなくして連れられてきたステーション・キッズだ。
キップをなくしたら駅から出られない。出ていいよと言われるまで駅の子として駅の中で暮らすのだ。
ラッチを超えることは出来る。でも、そうしたら一生汽車にも電車にも乗れなくなる。神聖なラッチを許可なく越えた者は、これから先ずっと、日本の鉄道全部の乗車を拒否される。
フタバコさんにそう聞かされたイタルは、その日からステーション・キッズになった。

駅での暮らしにはお金は要らない。駅ナカの店・食堂はステーション・キッズなら何でもタダだ。
食堂での夕食後、イタルはミンちゃんという女の子が何も食べていなかったことに気が付いた。年長のキミタケさんに理由を聞いても質問をかわされてしまう。
ミンちゃんは何者なのか?

電車や駅の構内で危険な目にあう通学児童を人知れず護るのが、ステーション・キッズの役割だ。
ステーション・キッズを認識できるのは一部の駅員と清掃員、店員だけである。
ステーション・キッズという制度を作り上げたのは駅長と呼ばれる人物だが、実際にどこかの駅の駅長を務めているわけでは無い。ミンちゃんしか会ったことがない謎の人物だ。

ステーション・キッズの出入りはけっこう早い。
キミタケさんがステーション・キッズをやめた翌日、中学生の男の子が入ってきた。キップをなくしたのではなく、自分でキップを捨てて。
フクシマケンというその少年は、いじめで登校拒否になり山手線をグルグル回りながら読書をしていたところ、イタルとタカギタミオと知り合いになったのだ。
自らキップを捨ててイタル達についてきたフクシマケンを、フタバコさんは歓迎しなかった。
ダメなら帰りますというフクシマケンに、フタバコさんはキップのない者はラッチを通れないと告げる。
それに対してフクシマケンは通れますと反論する。

「駅の清算所に行って、キップをなくしたって言って、もう一度買えばいいんです。今だったら、この駅の清算所に行って、たとえば有楽町駅から乗ってなくしましたって言えば、百二十円の清算券を売ってくれます。それで改札口は通れます。時刻表の『きっぷをなくした場合』というところに書いてあります」

衝撃の事実である。
イタル達ステーション・キッズもショックだっただろうが、一読者である私も夢を破られた気分になった。退屈な日常から離れ、子供たちだけで電車という異動空間の中を冒険する。そんなキラキラしたファンタジーにいきなり土足で踏み込まれたようだった。

フクシマケンの出現によって物語は大きく方向転換する。
フタバコさんがじゃあ、そうやって今から駅を出ていくかと皆に訊く。フタバコさんは出て行かない。ステーション・キッズの仕事があるからだ。他の子供たちも皆自分の頭で考えて残留を決めた。年長者に言われたことを疑問も持たずに受け入れていた子供たちが、自分の意志で判断したのだ。フクシマケンは来るべくしてここに来た人物だったのだろう。
いつが終わりかなんてよく分からなかったけど、ステーション・キッズの仕事が通学中の生徒の保護である以上、今すぐに帰らなくても夏休みになれば今のグループは解散、終わりなのだ。
ただ、ミンちゃんだけは帰ることが出来ない……。
ミンちゃんが寂しくないようにするには、どうすればよいのか。その回答を求めてステーション・キッズは駅長さんに会うことになる。

ミンちゃんの正体、駅長さんの正体、そして、ステーション・キッズが作られた理由。謎が一つ一つ明らかにされていくにつれて、この物語が単なる冒険ファンタジーでは無い事に気が付く。
最後、ミンちゃんのグランマのお墓がある函館に辿り着いたステーション・キッズは、そこでグランマと対面する。その場面の為にすべてがあったのだ。
人が向こう側に行くとどうなるか、人が死ぬとどうなるか。
人の心は小さな心の集まりでできている。
たくさんの小さな心(コロッコ)が集まって、一人の人の心を作っている。だから、人が何かを決める時は、コロッコたちが会議を開いて相談したり議論したりする。亡くなった人が向こう側に行くのを決断するのも、コロッコたちが納得してからなのだ。
人が死を恐れるのも、この世界で一つの個体として生きているコロッコたちが出来る限りその個体を長く楽しく生きることを望んでいるからだ。
それを知って、今期のステーション・キッズは解散する。
それぞれが上野から自宅のある駅までのキップをもらって帰っていく。

現在ではICカードやスマートフォンで改札を通過出来るようになっているが、十数年ほど前まではキップを改札機に通すのが普通だった。もっと古い世代なら駅員さんにキップを切ってもらっていただろう。イタルの趣味が切手収集というのも時代を感じさせる。そんな懐かしい時代の空気の中で、命の尊さを教えてくれる優しいファンタジーだった。
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梅ジュースと浴衣と授業参観

2018-06-25 07:00:18 | 日記

去年までは梅酒を漬けていたのですが、ここ1~2年あまりお酒が飲めなくたって来たので、今年は梅ジュースを漬けました。
材料はヘタを取って冷凍庫で凍らせた梅と氷砂糖、リンゴ酢だけ。毎日瓶を振り、梅が浮いてきたら完成です。
らっきょうも漬けましたよ。


週末は雨でやることがなかったので、娘コメガネの浴衣を買いに行きました。
今年は水色に金魚柄です。コメガネは黒が好きなので今回も最初は黒地の浴衣を選んでいたのですが、私が「たまには違う色にしてみたら?」と言いましたところ、この浴衣を選びました。
お祭りの時には髪をアップにするか毛先をカールさせてみようかと思っています。


先週は二度目の授業参観でした。
この日は午前中にPTA活動に参加して、いったん帰宅してから午後の授業参観に行きました。
廊下に展示されている子供たちの作品を見学するのも楽しみの一つです。
今回は俳句の短冊と勾玉とお習字でした。
上の画像がコメガネの俳句です。
他の子たちが紫陽花が綺麗とか蝸牛が可愛いとかの句を詠んでいるなかで、コメガネは扇風機。コメガネらしくて半笑い。
扇風機も夏の季語なのですが、他にこの季語を使っている子がいなかったので人目を引きました。しかも内容が俳句というより日記風。一応五七五にはなっていますし、そばで見ていたママから「でもちゃんと俳句になっているよね」と言っていただけたのでまぁ良いか…。
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星に降る雪/修道院

2018-06-21 07:02:05 | 日記
池澤夏樹著『星に降る雪/修道院』

二作とも大切な人と別れた男が、そのいなくなった人に語り掛ける話だ。

「星に降る雪」は、山奥の観測施設で星からのメッセージを待つ男が主人公の短編。
主人公の田村は、登山中に雪崩に巻き込まれ二十年来の親友新庄を失った。その後、田村は東京の職場を辞め、野辺山の電波天文台に行き、そこも一年半で辞めて神岡のニュートリノ研究施設で働いている。そこから降りることはなく、東京にも行かない。

星の近くに居たかった。
田村はそこで星のメッセージを待っているのだ。だから、東京から野辺山に移り、そこからさらに山奥の神岡に移った。
雪崩で亡くなる五年前に、パラグライダーの事故で死にかけた新庄が乱気流の中で受け取ったメッセージ。星空から降る雪に先導された新庄が、そのメッセージを携えて「向こう側」から降りてくるのを迎えたいのだ。

田村の元に、新庄の恋人だった亜矢子が訪ねてくる。
亜矢子は田村に疑問をぶつける。あの雪崩について、新庄について。田村にとっての新庄と亜矢子にとっての新庄は、まるで違う人間のようだ。

どうして空ばかり見ているのと亜矢子は問う。
それは彼女には分からないことだと田村は思う。
“空を見ないで、来もしないものを待たないで、地面の上に立って、同じように地面の上にいる男を愛する”のが亜矢子にとっての生きるということなのだから。
三日前に来た短期滞在のドイツ人研究者なら分かるだろう。それは男とか女とかではなく、人間の種類の違いだ。

メッセージは神岡には来ないかもしれない。
チリのアタカマ高原に大きなミリ波の観測施設を作る話が進んでいる。組織内に配信された職員募集のメールを見て以来、田村はその南米の、乾燥した、寒い山の上に思いをはせている。枯れて、冷え切って、強風が吹いていて、まるで別の星の上みたいなところ。風がふっと止んだ時に、空気は軽い乾いた粉雪で満たされる。そこに行けば、新庄を迎えることが出来るのではないだろうか。

亜矢子にとっての新庄より田村にとっての新庄の方が魅力的だが、多分どちらも新庄そのものではない。二人ともそれぞれの新庄を胸に抱いて生きるよすがとするのだろう。死者とは生者のためにそのかたちを造られるのだ。
田村がいっそ潔いくらい厭世的なのに対して、亜矢子の堅実アピールはどこか無理が感じられた。彼女が田村に対して言い募れば募るほど、ナチュラルにそう信じているのではなく、自分に言い聞かせているような印象を受けたのだ。途中で語られるマテオとの思い出からも、亜矢子という人は本質的には地に足のつかないタイプだと思う。
彼女はきっとまだ苦しい。それでも田村は、“彼女は大丈夫だろう。しっかり生きていくだろう。”と独白する。“新庄、あれでよかったのかな?よかったんだよな。”と。そして、また自分の想いに還るのだ。田村にとっては、亜矢子など所詮は赤の他人、親友と二ヶ月だけ恋仲だった人に過ぎないのだから。
無限に広がる星空と対照的に、うちへうちへと閉じていく田村の心の在り方が面白かった。


「修道院」は、「星に降る雪」の二倍ほどの長さの中編小説。三人の人物によって物語が紡がれていく。
クレタ島を旅行中の私から始まり、私が偶然滞在することになった村で宿を営むエレニへ、更にアレクサンドリアからエレニの村に流れて来たミノスへとバトンタッチ式に視点が変わる。視点が変わるたびに物語は過去へと遡っていくのだが、引継ぎが自然でぎこちなさがない。
大変業の深い物語なのにドロドロしていないのは、瑞々しい文章とエレニの堅実な人柄のおかげだろう。この話、ミノスの視点のみで描かれていたら読めたものではなかったと思う。

その年の夏をクレタ島で過ごすことにした私は、宿を探している途中で「旧修道院」の案内を見つける。
山道を五分ほど降りたところにあったそれは、上の修道院が様々な色彩で飾られていたのに対して、すべての色が落剝していた。

廃墟を散策していた私は、敷地の中に小さな礼拝堂を見つけた。
その礼拝堂は荒れてはいたが、他の建物に比べると損壊の程度が違った。汚れているが壁はしっかりと立ち、屋根も健在。何よりも扉があった。そう遠くない昔に誰かの手で修復されたらしい。
人の膝くらいの高さの壁に黒い石の銘板が埋め込んであった。それには〈ミルトスのために〉とのみ刻まれていて、あとは年代も何もない。
壁沿いに少し進むと、今度は窓を見つけた。窓の縁に手をかけて中を覗くと闇の中にイコンが見えた。聖母マリアらしき像だが、赤ん坊は抱いていない。目が闇に慣れてくるとその像が泣いているように見えた。これは嘆きの聖母だろうか?
もう一度よく見ようと首を伸ばした私は、手が滑ったはずみで地面に落ち、足を挫いてしまった。

足を引き摺りながら本道に出た私は、農夫のトラックに拾われて一軒の宿に運び込まれた。
その宿で、私はエレニという老婆の触診を受けた。幸い骨は折れていなかったが、当分痛みが治まりそうにない。私は暫くこの宿に滞在することに決めた。

翌日、私はエレニに旧修道院に行った話をした。
すると、彼女は真剣な表情で、礼拝堂の中は見えたかを問うてきた。私が見たものを話すと、エレニは日付を確かめた。昨日は八月二十二日だった。
あの人が行ってしまったのは五十年前のその日だった。あの人も足を引き摺っていた。聖母がお泣きになったのはわたしへのお伝えかもしれないーー。しばらく考え込んだのち、エレニは五十年前の出来事を話し出した。

エレニの言うあの人とは、ミノスという名のほっそりとした都会風の男だった。
小さな鞄一つで村にやって来たミノスを、はじめは村を通り過ぎていく旅人だとみんな思った。彼はエレニの父親が営む宿に泊まった。そのまま居続けたのだから旅の途中ではなかったのだろう。誰とも打ち解けようとしないが、金払いが良く村の娘にちょっかいを掛けないので、害のない男だということは分かった。

そのうち、ミノスは朽ち果てた下の旧修道院を見つけると、無償で修復を始めた。
彼は、大工、石工、指物師など、礼拝堂の修復に必要なあらゆる技術に長けていた。おまけに風采が良く、無口でミステリアスな大人の男だ。当時十六歳だったエレニと一つ下の弟のアレクシスは、忽ち彼に夢中になった。
とはいえ、エレニたちはミノスとの距離を詰めることは出来なかった。二人は最後まで彼を見ているだけだった。

ミノスには贖罪の必要があったのだ。
ミノスにとって旧修道院の修復は、ある男に約束した「百回のおミサ」に相当するものだった。だから基本的には一人で作業し、どうしても必要な時にだけアレクシスに手伝わせた。

アレクサンドリアから美しく驕慢な女がやって来たのは、八月十五日のキミシスのお祭りの後だった。アダという名のその女は、ミノスを追いかけてきたのだ。
アダはエレニたちにミノスの修復した旧修道院の案内をさせ、ミノス自身との面会も求めた。その夜、アダはミノスの部屋に泊まったが、翌朝には姿を消していた。ミノスも部屋からいなくなっていた。

ミノスの身を案じて旧修道院に向かったエレニとアレクシスは、そこでミノスが狂気を孕んだ口調で神に訴えているのを目撃した。ミノスにとって、アダとの再会は「百回のおミサ」を無にするものだったのだ。

ミノスとアダ。ミノスが「百回のおミサ」を約束した幼馴染のミルトス。アダの召使だったシェイダ。
エレニとアレクシスは、ミノスから四人に起きた忌まわしい出来事の一部始終を聞かされる。

「五十年だね。あんたが見たとおり聖母がお泣きになったんだから、やはりミノスとアダのためにおミサを挙げてもらおうかね。ミルトスのためには百一回目のおミサになる訳だからね」

ミノス達の身に起きたことは、十代の子どもに聞かせるにはあまりにも罪深い話だった。
ミノスは語り終えたその足で村を出ていったけど、エレニは彼の後始末をすべて引き受けた。そして、五十年間それらを心のうちにしまい込んで生きて来たのだ。
ミノスが去り、アレクシスが出て行っても、村に留まり、結婚し、子供を産み、親から受け継いだ宿を守り続けた。アダやシェイダの華やかな都会の暮らしを聞いても、そんなものには心を動かされなかったし、ミノスを追いかけて村を捨てることもなかった。大した女性だと思う。

ミノスの物語のだと思って読み進めていたが、終盤になって実はエレニの物語だったことに気づいた。
「星に降る雪」が「向こう側」に行ってしまった人を慕い、自分も「向こう側」に行こうとしている男が主人公の物語であるのに対し、「修道院」はそのような男を一つ所に根を張って見つめて来た女が主人公の物語だ。
亜矢子がさっぱり理解できなかった「向こう側」志向の人物を、エレニは正反対の生き方をしているからこそ受け入れ、送り出すことが出来た。そんな彼女のもとに、五十年前のあの日と同じ日に足を引き摺った旅人が現れたのは、彼女が言うように聖母のお伝えかもしれない。苦労して歩くことにはいつだって意味があるのだ。
世間が狭いと言えばそれまでだが、彼女の堅実でさっぱりとした人柄のおかげで、死者の御霊も物語そのものも明るい方へと解放されたのだろう。
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父の日2018

2018-06-18 07:01:17 | 日記

今年の父の日はパエリアと抹茶クリーム大福です。


お菓子は、抹茶ロールケーキと抹茶クリーム大福のどちらが良いか家族にアンケを取った結果、抹茶クリーム大福になりました。


おひな祭りの時https://blog.goo.ne.jp/mahomiki/d/20180305はお餅に抹茶パウダーを入れましたが、今回は白餡にいれましたよ。
実家には抹茶のケーキを送りました。


牡蠣と海老のパエリアです。


夫へのプレゼントは半袖シャツです。夏らしく明るい色で。
夫は二週間前の頭から先週末まで仕事で三宅島に行っていたので、こんな柄のシャツが似合う日焼け顔になっています。
夫は一か月に3~4回くらい出張に行きますが、そのうちの半分は離島です。島出張は長めになるので、時々我が家の犬猫の写メを送りつけていますよ。








寝ている写真が多いのは、起きている時はだいたい大運動会だからです。特に蓬と柏。
gooブログはサービスで一年前に自分が書いた記事をメールで送ってくれるのですが、それを見ると一年前の今頃の蓬と柏の小ささに驚きますね。うちに来てもう一年ですが…月日の経つのは早いものです。
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鎌倉社会科見学

2018-06-14 07:02:41 | 日記

水曜日は娘の学校の社会科見学でした。場所は鎌倉。
今回のお弁当は、おかずは鶏の唐揚げ、牛蒡サラダ。それから、おかかと海苔を敷いたご飯に鮭を乗せました。デザートはクランベリーのパウンドケーキです。練乳も混ぜて甘めに焼き上げました。

見学の目的は
・歴史と観光の都市「鎌倉」を自ら計画を立ててめぐり、鎌倉の文化や史跡に触れる。
・自覚と責任を持ち、協力して場面に応じた集団行動をとれるようにする。

子供たちだけのグループでバスと電車を使って移動し、先生やボランティアはチェックポイントで見守る程度。自分たちで計画を立てたコースをめぐり、史跡見学やお買い物を楽しんだそうですよ。
娘のグループは高徳院・源実朝・北条政子墓(寿福寺)・源氏山・銭洗い弁天・化粧坂切通し・鶴岡八幡宮・源頼朝墓を巡り、小町通りでお買い物をしてから帰路に就きました。

見学そのものはとても楽しかったそうですが、帰りに藤沢駅構内で嫌な目に遭ったそうです。
娘たち女の子が三人で歩いていたら、後ろから中年男性に次々に肘で首を押されたそうで…。その後、その男性は娘たちの少し前を歩いていた男の子二人組も突き飛ばして悪態をついて去っていったそうです。構内には大人も何人かいたそうですが、子供ばかりを狙っての嫌がらせに恐怖を覚えました。


何はともあれ、無事に帰って来てくれてホッとしました。
娘はよほど疲れたのか、帰って来てすぐに何故か私の部屋で寝こけていましたよ。この日は天気に恵まれ、数日前から体調を崩していた娘も熱が下がって、帰路に受けた嫌がらせを除けば良い思い出ばかりが残ったようでした。近いうちにまた鎌倉に行きたいと言っていましたよ。
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