青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

塩の像

2019-01-31 07:43:52 | 日記
ルゴーネス著『塩の像』には、ボルヘスによる序文と、「イスール」「火の雨」「塩の像」「アブデラの馬」「説明し難い現象」「フランチェスカ」「ジュリエット祖母さん」の7編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の18巻目にあたる。私にとっては7冊目の“バベルの図書館の作品”である。

ルゴーネスは、アルゼンチンを代表する詩人・散文作家だ。
ボルヘスは、“もしアルゼンチン文学の全過程をひとりの人物で象徴させなければならないとしたら(略)、その人物は紛れもなくルゴーネスであろう。彼の作品にはわれわれの昨日があり、今日があり、そしてたぶん、明日がある。”と評価している。
ルゴーネスはアルゼンチン国民の精神の礎といってもよいのではないか。それほど偉大な文学者が、政治的な選択ミスから自殺に追い込まれたのは何ともやりきれない。個人的には必ずしも自殺自体を不幸とは思わないのだが、文学者が創作以外の理由で自殺するのは大変な不幸だと思う。

序文によれば、軍人の家系に生まれたルゴーネスは、“一八九〇年ごろはアナーキストであり、一九一四年に連合国の賛同者になりながら、三〇年代にはファシストであったということは、同一の問題に関心を持ちつづけながら、時間の経過につれて相矛盾する解決に行きあたるひとりの人間の、多様な誠実さに相応している”そうだ。が、政治方面に暗い私には、一人の人間の政治的信条がそうコロコロ変わる理由が理解できない。この点については、これ以上触れないでおいた方が無難な気がする。

ルゴーネスの作品の特徴は、序文から抜粋すると、“言語遊戯として、辞書の語彙全部を使ってする遊戯”であり、“ほとんど読み人知らずとでも言うほど素朴な『乾いた川のロマンセ』を除くと、すべて辞書からひろったフランス語かスペイン語をもとに考えられたもの”である。私自身がよく適当に辞書から選んだ単語を組み合わせて俳句を作っていたので、ルゴーネスの言語遊戯には一方的に親しみを感じていたりする。
また、ルゴーネスの作風は、本書の収録作だけでも多岐にわたる。
スペイン語によるサイエンスフィクションの嚆矢「イスール」、旧約聖書が典拠の「火の雨」「塩の像」、ギリシャ神話を思わせる「アブデラの馬」、不気味な心理小説「説明し難い現象」、『地獄篇』第五歌の向こうを張る「フランチェスカ」、愛のアイロニー「ジュリエット祖母さん」、何れも器用貧乏には陥らない完成度の高さで、まるで映像作品を鑑賞しているかのような臨場感だった。機会があれば、『乾いた川のロマンセ』も読んでみたい。


「火の雨」は、陽光が美しく映えるある日、燃える銅の雨に襲われ、崩壊していく町の姿を、時間を細かく刻んで克明に描いている。時間と共に移ろっていく主人公の心理描写もリアルだ。町が、人々が、獣たちが、突然吹き荒れた神の怒りに、成す術もなく燃え尽きていく。絶対的な強者によって齎される終末の光景とは、何と静謐で美しいのだろう。

最初は十一時頃。
火の粒が何の前触れもなく、パチパチと音をたてながら落ちてきた。それは燃える銅の粒子だった。この時点では、街の様子に変わりはなかった。ただ鳥籠の小鳥が囀りをやめた。
主人公の私は、近眼故の見間違いかと思った。が、それが幻視ではないことを確認した時、漠たる恐れを覚えた。あの銅の粒はどこから降ってくるのだろう。

今度はテラスに火の粒が落ちてきた。
それは疑いもなく銅の粒で、断続的に降り続けたが、私の昼食を妨げるには至らなかった。
人付き合いを厭う独身者の私にとって、食事と読書は欠くことのできない娯楽で、それ以外には飼っている魚と小鳥の世話にしか関心がない。この日も、私は召使に本を音読させながら、自慢の食卓を楽しんでいた。
庭を渡っていた召使が、突然、悲鳴をあげた。見ると、彼の背中には小さな穴が開いており、その傷の中で火の粒がまだブスブスと音をたてているのだった。私は使用人の手当てをしたが、さすがに食欲は削がれてしまった。

午後三時頃に再びテラスに上がってみると、地面には銅の粒が散らばっていたが、雨脚が強くなる気配はなかった。しかし、辺り一帯は突然の変事に静まり返り、小鳥たちは怯え、鳥籠の中で身を寄せ合っている。天変地異という観念が私を震え上がらせた。

“銅の雨だなんて!天空には銅の鉱脈などない。しかも、空はあんなに晴れわたっているのだから、何処から降って来るのか説明がつかないのだ。この現象の脅威はまさにこの点にあった。(略)とにかく、その恐ろしい銅は確かに空から落ちてくるのだけども、空は相も変わらず穏やかな青さを保っている。徐々に私は、名状し難い悲嘆の念にとらわれてしまった。”

しかし、私には逃げ出すという考えは思い浮かばなかった。
本、食堂、小鳥、魚、庭、私の現在の幸せのすべてを放り出して逃げ出すだなんて。私は漠たる恐怖を感じていたにも関わらず、習慣となっている食後の眠気によって現実を直視する目を曇らせてしまった。
それに、銅の雨が止んだことで街は活気を取り戻したのだ。否、取り戻すに留まらず、カーニバルのような乱痴気騒ぎが巻き起こっていた。抜けるような青空の下を、キラキラ光る胸当てをつけた娼婦達や卑猥な幟を掲げた女衒、孔雀の羽根を纏った乙女らが練り歩く。仮面をつけた若者たちを引き連れた粋な黒人が、リズムに合わせて色の付いた粉末を撒き散らす。人々はお互いの家を訪問しあいながら、酒を飲む必要を感じていた。

夜半になって、銅の雨は再び振り出した。
しかも、今度はまばらではない。降りしきる灼熱の雨に、街中が臭気に満たされていく。私が気付いた頃には既に使用人たちは逃げ出しており、馬もまた姿を消していた。
幸い、まだ食堂には食料がいっぱいある。地下室にはワインがぎっしり詰まっている。何より心強いのは、毒入りワインを備えているということだ。これで、いつでも自死を選べるという事実に安堵した私は、街の様子を確認しに表に出た。

町は火の海と化していて、ありとあらゆる種類の阿鼻叫喚が上がっている。
夥しい焼死体のせいで、天変地異に更に悪臭が加わる。コールタールのような熱風が吹き始め、まさに地獄の如き様相なのだった。

“ああ、燃えさかる町の巨大な火でもってしても焼き尽くすことのできないこの暗闇の恐怖!血反吐をさえ吐かせる乾いた空気のなかに浸透した、襤褸や硫黄や屍体の焼けるあの悪臭!そして、なぜかいつまでも途絶えることのないあの悲鳴や叫び声!火事の音をも圧倒し、ハリケーンよりも大きく拡散するあの叫び声、あるいはまた、あらゆる獣が、本能的に永劫の破滅を感じ、恐慌をきたして唸り、吠え、うめいているあの声……”

地獄の雨が再び止む頃には、街はもう存在していなかった。
不変の無関心を示す青空の下、かつて町であった平地には銅砂漠が広がっていた。湖から発した蒸気が嵐のように濃密に立ち込めていた。世界はカタストロフの静寂に包まれていた。
その静寂を破るように、砂漠の中で生き残ったライオンの群れが、無残に焼け爛れた姿で街に押し寄せ、渇きに猛り立ち、逆上した目つきで咆哮した。

“ああ!……何ものも、戦慄的な天変地異も、死に瀕した町の焦熱地獄も、廃墟に響く猛獣の泣き声ほど恐ろしくはなかった。彼らの咆哮は言葉に劣らず明瞭だった。つまり、神のいわれなき仕打ちに対する、本能的な、名状し難い痛みに泣いていたのだ。(略)ああ!……その吠え声だけが、今では委縮してしまったあの猛獣たちの保っている唯一の勇壮なところであった――彼らはその破局がひしめいている恐ろしい秘密に関して何と言っていたのだろう。救いがたい苦痛のなかで、永遠の孤独、永遠の静寂、永遠の乾きをどのように考えていたのであろう……”

しかし、天変地異はこれでは終わらなかった。
またしても燃える銅の雨が降り始めたのだ。今までよりもいっそう激しいその雨は、今度こそ世界を完全に終わらせようとしているのだった。私は港で見つけた唯一の生き残りの男と共に逃げ惑い、火の粒を浴びながら自宅の酒蔵に逃げ込んだ。
仲間となった男が人生で最後の饗宴に夢中になっている間に、私は死の風呂に入ることを決意した。その時、私の心を浸していたのは、今崩壊したばかりの奢侈安楽な生活の官能性だった。外では降りしきる火の音が聞こえた。沐浴によって平静を取り戻した私は、毒入りワインを口に運んだ…


炎にまかれる人々の阿鼻叫喚。ライオンの群れの咆哮。灰塵と化した町を包む静寂。真っ赤に燃える銅の雨。峻厳と表現すべき空の青さ。それらを目撃する主人公の心の動き。すべてが鮮烈で読者の記憶に映像のように焼き付く。ソドムとゴモラの人々が終末の日に見た光景は、きっとこんな感じだったのだろう。それは、人間が決して見てはならない光景なのだった。


「塩の像」もまた、ソドムとゴモラの終末を目撃した人物の物語だ。

修行僧ソシストラートは、旅人に化けた悪魔に唆されて、ソドムとゴモラの町が滅んだ日に塩の像と化したロトの妻を救い出してしまう。エホバの逆鱗に触れた女は、ソシストラートの祈りと聖水によって、数世紀の眠りから目覚めた。その出現には、悪魔を見ても動ずることの無かった修行僧も恐怖を感じた。

“この老女が体現していたのは、神に見捨てられた町の住民だったのである。その両の眼は、二つの恥知らずな罪業の都市の上に神の怒りが降らせた、燃えさかる硫黄の雨を見たのだ!その襤褸は、ロトの駱駝の毛で織られていたのだ!そして、その両足は、神によって引き起こされた火事の灰を踏みしめたのだ!”

復活した神罰を眼前にして、ソシストラートは数世紀の記憶を取り戻した。自分はあの悲劇の中心的人物だったのだ。そして、自分はこの女を知っている…。

“お前が振り返ったとき何を見たのか、それを教えて欲しいんだ。”

ソシストラートの問いに、ロトの妻が何と答えたのか。
答えを聞いた瞬間、彼は死んでしまったので、真相は永遠に闇の中である。
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金柑2019

2019-01-28 07:33:50 | 日記

私たちの住む町も先週末に初雪が降りました。
ヒーターの前で寄り添う猫たち。室内の一番いい場所は三匹のものです。




今冬も我が家の金柑がたくさん実をつけてくれました。
今期は実の糖度が高く、市販のお蜜柑より甘いくらいです。なので、甘露煮やマーマレードにはせず、気が向いた時に採取して生のままパクパク食べています。
火を通さないからビタミンが壊れなくて、風邪予防に効果的かも?
でも、まだまだ沢山生っていますし、焼き菓子の材料にしたくもあるので、小鍋いっぱい分くらいはマーマレードを作ろうかな。
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アーサー・サヴィル卿の犯罪

2019-01-25 07:57:11 | 日記
オスカー・ワイルド著『アーサー・サヴィル卿の犯罪』には、ボルヘスによる序文と、「アーサー・サヴィル卿の犯罪」「カンタヴィルの幽霊」「幸せの王子」「ナイチンゲールと薔薇」「わがままな大男」の5編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館“(全30巻)の6巻目にあたる。私にとっても6冊目の”バベルの図書館“の作品である。

ワイルドと言えば、本書にも収録されている「幸せの王子」の他には、「ドリアン・グレイの肖像」と「サロメ」の二作しか読んだことがなくて、デカダンスな作家というイメージが強かった。それも的外れではないのだろうが、本書を読んでみるとワイルドとは案外軽妙な作風の作家でもあったのだなと、認識を改めたのだった。
ボルヘスは序文で、“他の著作家たちが深淵そうに見せようと努力するのとは違ってワイルドは、ハイネと同様、本質的に浮薄であったし、またそう見せようと努力していた。その浮薄に見えるというところがいまでは彼の名声を損なっている。”と述べているが、私は寧ろ、本書によってワイルドの浮薄さを知り、彼の著作に興味を持ったのだった。言われてみれば、彼の作品からは、悲劇に終わる作品からでさえ、生みの苦しみといった重さは感じられない。

ワイルドは親族にこんなことを言ったのだそうだ。

“なるほどぼくはオスカー・フィンガル・オウフレアティ・ウィルズ・ワイルドさ。でも飛行船が、高く上がるために重荷をつぎつぎに投げ落として行くように、ぼくもいまやすでにオスカー・ワイルドになるに至った。いずれ未来の世代に対しては、ぼくはワイルドかオスカーだけになるだろう。”

人々に忘れられ貧窮の中で死亡したワイルドは、生涯かけて浮薄を貫いた。本書の中で、ワイルドの浮薄精神が特に生きているのが、「アーサー・サヴィル卿の犯罪」と「カンタヴィルの幽霊」の二作である。


「アーサー・サヴィル卿の犯罪」は、主人公のアーサー・サヴィル卿が、美貌と無軌道ぶりで評判のウィンダミア夫人の夜会で、手相術師ポジャーズ氏が客人たちを占っているのを見かける場面から始まる。

アーサー卿はたいそう裕福な青年で、シビル・マートンという婚約者を持つ身だった。彼はポジャーズ氏に興味を持ち、ウィンダミア夫人の仲介で占って貰うことにした。
その場で、アーサー卿は、彼が三ヶ月以内に船旅に出ることと、遠縁の身内を一人亡くすことを告げられる。鑑定はそれで終了したが、アーサー卿は、ポジャーズ氏が一瞬浮かべた恐怖の表情を見逃さなかった。ポジャーズ氏はきっと、アーサー卿の掌から今告げたこと以上の運命を見たに違いない。

“それは何と気ちがいじみた理不尽なことか!恐ろしい罪の秘密、血塗られた犯罪のしるしが、自分の手に記されている、それも自分には読めないが他人には見分けのつく文字で記されている、というようなことがあってよいものか?逃れるみちはないのか?”

凶事の予感に怯えたアーサー卿は、ポジャーズ氏と二人きりになる機会を捉えると、先ほど述べた以外に何が見えたのか教えて欲しいと頼み込み、ポジャーズ氏の事務所で占ってもらう予約を取り付けたのだった。

果たして、鑑定を受けたアーサー卿は、真っ青になってポジャーズ氏の事務所を出ることになった。アーサー卿の掌には、彼が殺人を犯すという狂相が現れていたのだ。
彼は茫然となった。そして、何故か、殺人の宿命から逃れる方法を考えるのではなく、誰かを殺さないうちはシビルとの婚礼は挙げられない、殺人を遂行してしまうまでは結婚する資格はないと思い込んだのだった。

その時から、アーサー卿は滑稽なまでの気真面目さで、殺人の遂行のために奔走する。
彼は、便箋に自分の友人・親戚の名前を書きだして、熟考の末に、母方のまたいとこクレメンティーナ・ビーチャム夫人をターゲットに選んだ。そして、殺害方法を毒殺と決めると、持ち前の行動力をもって、目当ての品を手に入れ、夫人のもとを訪ねるのだった。
アーサー卿は、夫人との歓談の中で、胸やけに苦しむ彼女に、アメリカ製の特効薬と偽って、銀のボンボン入れに致死量のアコニチンのカプセルを入れて渡すと、飲み忘れることの無いよう念を押して辞去した。そして、その晩のうちに、理由も言わずに(当然である)シビルに結婚の延期を告げると、泣き崩れる彼女を宥めて、翌朝にはヴェネツィアに旅立ったのだった。

アーサー卿は、ヴェネツィアでクレメンティーナ夫人の訃報をじりじりしながら待ち続けた。そして、22日目にして漸く夫人の死亡通知を受け取ると、足取りも軽くロンドンに舞い戻ったのだった。
ところが、アーサー卿は夫人の遺品の整理中に、例のボンボン入れの中にまだカプセルが入っているのを見つけて驚愕する。夫人の死は単なる病死だったのだ。これでは、シビルと結婚できない。彼は呻きを漏らし、ソファーに沈み込んだ。

再度の婚礼の延期に、シビルの両親は心を痛め、破談にさせようと娘の説得に努め始めた。
アーサー卿は数日で絶望から立ち直ると、友人・親戚のリストを再検討し、今度はチチェスターの司祭長をしている叔父の爆殺計画を立て、速やかに準備を進めた。
彼は、ウィンダミア夫人の邸宅で知り合った革命家気質のルヴァロフ伯爵のことを思い出すと、伯爵からテロリストのヴィンケルコップ氏を紹介してもらう。ヴィンケルコップ氏に面会してみると、この人物もまた、ウィンダミア夫人の屋敷で会ったことのある人物だった。ウィンダミア夫人の顔が広いのか、アーサー卿の行動範囲が狭いのか、ちょっとよく分からない。ともあれ、時限爆弾を製造してもらうと、彼はさっそく叔父のもとに仕掛けに行った。
その日から、アーサー卿は、各種の新聞に目を通し、叔父の死を告げる記事を探し続けた。しかし、待てど暮らせど、どの新聞もチチェスターの司祭長については一言も触れない。爆弾装置は何と三ヶ月も経ったから爆発したが、当の司祭長はその六週間前に町を去っていたのだった。

アーサー卿は、激しく絶望した。
彼は殺人を犯すために誠心誠意尽くしたのだ。しかし、運命の女神は二度も彼を裏切った。善意の不毛さに打ちひしがれた彼は、もう結婚を破談にしてしまおうかと考えた。
そんなアーサー卿が、深夜クレオパトラズ・ニードルの近くを歩いていると、一人の男が川べりの欄干に凭れかかっているのが見えた。
ポジャーズ氏だった!
その時、アーサー卿の頭に名案が閃いた。彼は後ろから忍び寄ると、ポジャーズ氏の両足を抱えて、テムズ河に放り込んだ。
続く数日間、彼は絶望と不安の間を行き来していた。が、ついに待ち焦がれたそれが訪れた。給仕が届けた夕刊に、手相術師ポジャーズ氏の自殺を報じる記事が載っていたのだ。アーサー卿は新聞を手にしたまま外に飛び出すと、マートン家に向かい、シビルに明日結婚しようと告げたのだった。

数年後、彼らは男女二人の子供の親になっていた。
ウィンダミア夫人がオールトン・プライオリに一家を訪ねてきた。相変わらず浮名を流すことと珍しい人物を贔屓することに忙しいウィンダミア夫人は、とっくの昔に手相術には飽きていた。しかし、アーサー卿は、自分達夫婦の幸せが手相術に拠るものと信じて疑わない。
「ぼくの生涯の幸福はすべてそのおかげなんですから」と言うアーサー卿に、ウィンダミア夫人は、「そんなばからしい話って、生まれてこの方聞いたことありませんよ」と答えたのだった。


なんとも滑稽で皮肉な物語だった。ウィンダミア夫人の最後の台詞には、多くの読者が頷くのではないだろうか。
怨恨や金銭目的から殺人を犯す話はよくあるが、幸せな結婚のためとは、殺人の動機としてかなり個性的である。手相術師の鑑定を信じたアーサー卿は、気違いじみた思い込みの激しさと有り余る行動力で、愛するシビルと結ばれるため殺人の成就に奔走する。しかも、犠牲者として選んだ二人の親族は、アーサー卿が好いている人物なのだ。
アーサー卿は二度に渡って殺人に失敗する。これはもう、占いが外れたということではないのか。彼は殺人者になる運命ではなかったのだ。良かった、良かった。普通だったらそう思うのではないか。そもそも普通だったら、端から殺人を犯すなんて鑑定は信じないか…。
しかし、普通でない真面目さと誠実な魂の持ち主であるアーサー卿は、占いに沿うように、己の人生を矯正するのである。その結果、アーサー卿の運命を鑑定したポジャーズ氏が、アーサー卿の殺人の犠牲者となる。ポジャーズ氏は、アーサー卿が三ヶ月以内に船旅に出ること、親戚を一人亡くすこと、殺人を犯すことを当てたが、自分が彼に殺されることは予見できなかった。何という皮肉であろう。
アーサー卿がたかだか手相術師の鑑定を信じ込んでしまった理由も希薄なら、殺人を成功させなければ幸せな結婚が出来ないと思い詰めた理由もよく分からない。彼の心理が何一つ理解出来ないながらも、必死に奔走する様が異様に面白くてスイスイ読み進めることが出来た。当の手相術師を殺害しておきながら、手相術のおかげで幸せになれたと感謝しているのにもクスッとなる。
おまけにアーサー卿夫妻の結婚式を執り行ったのは、アーサー卿が爆殺しようとしたチチェスターの司祭長なのだ。信じられないくらい馬鹿げた展開だが、アーサー卿自身は、己を罪深いとも滑稽とも思っていない。喜劇とは、演者が真剣でないと笑えないものだ。

「カンタヴィルの幽霊」もまた、本人が真剣になればなるほど、読者には滑稽に見える物語だった。
カタンヴィル卿の屋敷に憑りついているサー・サイモンの幽霊は、その禍々しい容貌で、長年カタンヴィル家の人々や使用人達を驚かし、時には死に至らしめることもあった。
ところが、屋敷がアメリカ人のオーティス一家に買い取られたことで、彼の人生(?)が大きく変わってしまう。オーティス一家は幽霊など恐れないドライな現代っ子だった。
かくてサー・サイモンは、オーティス家の大人たちからは、顔色が悪いわよと薬を勧められたり、ぶら下げている鎖が錆びているよと油を渡されたりするはめになる。子供たちからは罠に嵌められ、ずぶ濡れになったり、煤まみれになったりする。何とか復讐を誓い、挑戦を繰り返すが、罰当たりなアメリカ人どもには一向に通じず、連敗記録を更新するばかり。それでも、サー・サイモンもオーティス一家も幸せになって物語が終わるのである。この展開の鮮やかさに、ワイルドという人は、苦しむことなく物語を紡ぎだすことが出来る真の天才なのだなと思い知らされたのだった。
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『ボヘミアン・ラプソディー』を観ました

2019-01-22 07:57:28 | 日記

昨日、『ボヘミアン・ラプソディー』を観に行って来ました。
封切り前から気になっていた作品なのですけど、クイーンをよく知らない私が観て、果たして理解できるものか不安だったので、モダモダしているうちに年を跨いでしまって。
クイーンについては、好きか嫌いかと言われれば好きな方かなぁ?メンバーの名前は一応知っているよってくらいで、別にファンでも何でもなかったのです。
映画を観る前に知っていた曲は、映画のタイトルにもなっているボヘミアン・ラプソディー、キラー・クイーン、ウィー・ウィル・ロック・ユー、ドント・ストップ・ミー・ナウ、フラッシュくらいだったかと。クイーンの曲の中で、おそらく日本で一番人気のウィー・ウィル・ロック・ユーより、キラー・クイーンのようなメロウな曲の方が私の好みです。フレディの語りかけるような歌い方と、ふわりと重なるコーラスが心地好い。
で、まぁどうしようかなって逡巡している間に、身近で、ボヘミアン・ラプソディー良かった!クイーン苦手だったのに好きになった!最近はクイーンばかり聴いてる!三回見に行ったけど、もう一回観に行くつもり!毎回同じシーンで泣く!……等々熱い感想を聞くようになり、その殆どが元々クイーンのファンでは無かった人達なので、何だか背中を押されている気分になって、遅ればせながら映画館に足を運んだのでした。


で、まんまとハマってCD買ってしまっている訳ですよ。一本の映画で開く扉もあるものですね。
あと、劇中に流れた曲の殆どに聞き覚えがあったのにも驚きました。クイーンはいつの間にか日本の大衆文化に浸透していたようです。
CDと一緒に写っているのは、映画のパンフレットです。表紙はラメでキラキラ。

私は絵に描いたような俄なので、クイーンのメンバーについても楽曲についても批評は出来ません。
ただ、映画を見た感想としては、友情と家族愛に溢れた素晴らしい青春映画だなと。クイーンについて何も知らない状態で見ても何ら問題はありませんでした。

映画は、アフリカ救済のためのライブ・エイドの開幕シーンから始まり、そこから遡って、空港で肉体労働に勤しむ若き日のフレディの姿を映す。
フレディの両親はペルシャ系インド人でゾロアスター教徒。フレディ自身はザンジバル保護国の生まれだった。本名はファルーク・バルサラ。厳格な父親とはそりが合わなかったようだ。
ライブハウスに通い詰めていたフレディは、ボーカル兼ベースが抜けたばかりの大学生バンド・スマイルに売り込みをかけて、メンバーとして加入する。この頃、最初の恋人で後に妻になるメアリーとも出会う。

フレディ、ブライアン、ロジャー、ジョンの四人で最初に立ったステージでは、演奏前にはフレディをパキ野郎(パキスタン野郎という蔑称)と罵るなどのヤジが飛ぶが、演奏が始まると客席の空気は一転する。
フレディの卓越した歌唱力と特異な衣装、ライブパフォーマンスは、観客たちを魅了し、レコード会社との契約が決まる。バンド名はクイーンに改める。フレディはフレディ・マーキュリーに改名する。クイーンは優秀なスタッフにも恵まれ、全米ツアー、世界ツアーへと、栄光の階段を上っていく。クイーンにジャンルはない、メンバーは家族、それが彼らの信条だった。

しかし、私生活では、フレディは、セクシャリティの問題から妻メアリーと別居に至ってしまう。孤独を紛らわせるために乱痴気騒ぎを繰り返し、酒とドラッグに溺れ、メンバーとの間に隙間風が吹くようになった。
それらのトラブルは、バンドの活動にも暗い影を落とした。
フレディは、取り巻きのポールに付け込まれ、メンバーやスタッフたちに対して傲慢な振舞いが増えていった。ポール以外に自分を理解してくれる者はいない。そう思い込んだフレディは、無断でスタッフをクビにし、更には無断でソロ契約を結び、バンドを活動停止に追い込んでしまう。
ポールに囲い込まれるようにして始まったソロ活動は、フレディにとって納得のいく形にはならなかった。フレディが見つけてきたミュージシャンたちは、彼の顔色ばかり窺い、自分の意見を言わないのだ。
友人として交際を続けていたメアリーや代理人のジムから度々電話がかかって来ていたが、すべてポールが出てしまい、フレディ自身に取り次がれることはなかった。心ある人々から遮断され、公私ともに彼を食い物にする人々に取り巻かれる環境で、フレディの心はますます荒み、行動は無軌道になり、遂にはエイズを発症してしまうのだった。

不安を募らせたメアリーがアポ無しで訪ねてきた。
久しぶりにメアリーと対面したフレディは、ポールが自分をいいように操り、ライブ・エイドの出演依頼までお金にならないからと、勝手に流されていたことを知る。ここに至って漸く目が醒めたフレディはポールと絶縁する。そして、ジムに連絡を取り、ブライアン、ロジャー、ジョンとの話し合いの場を設けてもらうことにしたのだった。

三人は、フレディの誠心誠意の謝罪を受け入れた。
四人は、クイーンとしてライブ・エイドに参加するために練習を開始する。医者から正式にエイズの診断を受けたフレディは、まず最初にメンバーにそれを告白する。四人は抱き合って涙を流すのだった。
ライブ・エイド当日、久しぶりに実家に戻ったフレディは、父親と和解の抱擁を交わす。傍らでは、母と妹、そして、恋人のジムが見守っていた。
フレディたちはワゴン車で現地入りする。
そうして、ステージの袖からメアリーとジム、テレビの前で両親と妹が見守る中、クイーンの演奏が始まるのだった…。

ざっと、こんな流れの物語です。
前半の四人がスターダムにのし上がっていく過程は、たまに喧嘩しつつも和気藹々とした雰囲気で、彼等のやり取りに時々笑いが零れました。ところが、中盤から雰囲気が徐々に暗転していきます。ボヘミアン・ラプソディーのシングルカットを巡るレコード会社との対立、フレディの私生活面のトラブル、メンバーとの軋轢、その裏でのポールの暗躍、つるし上げのような記者会見など、緊迫したシーンが続き、その中で心のバランスを失っていくフレディの姿はとても痛々しかったです。漸くブライアンたちと和解した時には、フレディはエイズを発症し、血を吐く状態でした。
だからこそ、ブライアンたちとの和解のシーン、父親との抱擁のシーンは胸に迫りましたね。荒れていた時期に一度だけ話をしたことがあり、再会を熱望していたジムを見つけ出すことも出来ました。この人は、友人として恋人として、フレディが亡くなるまで寄り添っていたそうです。元妻メアリーとの友情も生涯続いたとか。

こうして、フレディが本当の家族と呼べる人々を取り戻していく過程が畳みかけるように続いてから、映画はライブ・エイドのシーンに繋がります。この時、ステージで歌うフレディは自分の死を悟っているのですよね。ブライアン、ロジャー、ジョンも。彼を見守る家族たちも。そう思いながらライブのシーンを見ると、ここに至るまでの色んなシーンが心によぎって、どうしても目頭が熱くなってしまうのでした。私、人前で泣くの嫌いなんですけどね。でも、連れも涙ぐんでいたから、まぁ良いか。
昨日の今日なので、とりとめのない感想になってしまいましたが、最後に『ボヘミアン・ラプソディ』は良い映画なので、ぜひ観に行って欲しいと言っておきます。きっと作中で使用されたすべての楽曲とフレディ、ブライアン、ロジャー、ジョンが大好きになると思います。実際のクイーンとは異なる部分は所々あるようですが、一つの作品として楽しめれば良いのでは。




私たちは朝一番の回に観に行ったのですが、劇場にはお客さんが結構いました。封切から二か月経つのに、まだまだ人気は衰えていないようです。
劇場を出たらちょうどお昼ご飯時だったので、カフェに入りました。
フレンチトースト二種。
上がアボカドとソーセージのセット。下がスモークサーモンとチーズのセット。
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悪魔の恋

2019-01-18 07:40:01 | 日記
カゾット著『悪魔の恋』には、ボルヘスによる序文と表題作が収録されている。

本書はボルヘス編集の“バベルの図書館”(全30巻)の19巻目にあたる。私にとっては、5冊目の“バベルの図書館”の作品だ。

カゾットの経歴については、序文に詳しく記されている。
1720年頃ディジョンに生まれたカゾットは、ジェズイット会の教育を受けながらも、キリスト教への信仰は捨てなかった。また、彼は、フランス革命で命を奪われた多くの人物の一人でもあった。『悪魔の恋』の成功で存命中から高名だったカゾットであるが、革命の犠牲者となったことが、更に彼を伝説の人にしたのだと思う。
彼の最期は以下のものであった。

“熱烈な君主制主義者であった彼はルイ十六世支持をけっして隠さない。一七九二年八月、当局は、陰謀を企んでいると考えられる文面の数通の手紙を押収する。カゾットは逮捕され、娘のエリザベートも自分からすすんで下獄する。運命は彼に素晴らしい最期を授ける。七十歳をゆうに越えてから、彼は絞首台へ上ってこう言うことができるのだから。「私はこれまでと同じように、神とわが国王に対して忠実に死んでいく」”

カゾットの処刑は、ルイ16世の処刑より四ヶ月ほど早かった。
斯様に劇的な生涯を送ったカゾットの作品は、フランス語の散文で書かれているが、その内容は幻想的だ。
彼は20歳でパリに出たころにはこのように書いていた。

“ぼくは孤独の、内省の、漠としたとりとめのない黙想の、愛好家でした……ぼくは、たとえ外面的人生のどんなに日常的な相の発現するところにいようとも、ほとんど全世界から、自分を完全に孤立させることを決意しました。”

1772年に『悪魔の恋』が出版され大当たりすると、彼は所属していた秘密結社から、重大な奥義を暴露したと告発される。それに対してカゾット自身はこのように言明している。

“ぼくらは父祖の霊たちの間に生きている。目に見えない世界がぼくらを取り巻いている……ぼくらが思いをはせる友人たちが、絶えず親しげにぼくらに近寄ってくる。ぼくは見る、善を、悪を、善人たちを、悪人たちを。往々にして、それらの生存者たちは、ぼくが彼らを見ているうちに、入り乱れてごっちゃになり、肉体を装って生きている者と、そんな粗野な外見など脱ぎ捨ててしまった者とを、そもそも最初から識別することなど、ぼくには必ずしもできないほどである…”

“今朝、全能者の眼差しのもとに、われらを一つに結び合わせていた祈りの間、堂内はあらゆる時代、あらゆる国の生者と死者とでみちあふれ、ぼくには生と死とを見分けることが出来なかった。それは奇妙な混乱だったが、また壮麗な光景でもあった。”


『悪魔の恋』の主人公アルヴァーレは、当時25歳の大尉だった。
彼は当世の若者らしく、財布の続く限り女遊びや賭博に耽る生活を送っていたが、ある時、仲間の一人からカバラ(降霊術)の話を聞かされる。

それはソベラーノという名の冷ややかな印象の男だった。
彼はアルヴァーレと二人きりになると、カルデロンなる精霊を呼び出し、パイプに火をつけさせた。好奇心でいっぱいになったアルヴァーレは、自分も精霊と交流したいと頼み込む。ソベラーノは、悪魔に付け入られる危険があるので、精霊との交流を可能にするには試練の期間が二年はかかると渋る。が、向こう見ずなアルヴァーレは、悪魔が出てきたら耳を引っ張ってやると食い下がる。そして、次の金曜日にカバラを行う約束を取り付けるのだった。

当日、パンタクルの円の中に一人取り残されたアルヴァーレは、悪魔ベエルゼビュートと交信することになった。
ベエルゼビュートは並外れた大きな耳の付いた駱駝の姿をしており、その身の毛のよだつような姿にふさわしい不気味な口調で、「何ぞ御用(ケ・ヴオイ)?」と答えた。
慄きつつも、どうにか気絶せずに済んだアルヴァーレは、ソベラーノへの見栄もあって、悪魔に対し、御主人様の呼び出しにそんな見苦しい姿で現れるとはどういうことだ、それ相応な姿になり、神妙な口をきけ、と尊大な態度を取った。
そんな彼に対して、どういう訳か悪魔は従順だった。最初はスパニエル犬に、次には四季施を着た可愛らしい小姓になって、命じられるままに、美しい調度品と葡萄酒、御馳走を出して宴会を開き、ソベラーノとその友人達をもてなすのだった。
ビヨンデットと名乗る小姓の美しさと巧みなもてなしは客人たちの羨望の的になり、中でもベルナディルロという男は熱心にアルヴァーレの成功の秘密を知りたがった。

ソベラーノ達を馬車で各々自宅に送り届けると、アルヴァーレは自分の館に戻り、ビヨンデットと二人きりになった。すると、ビヨンデットは美女の姿になり、アルヴァーレに対して熱心に求愛を始め、追い出さないで欲しいと懇願し、まめまめしく尽すようになった。
この女――今度はビヨンデッタと名乗った――の正体が悪魔であることを知っているアルヴァーレは、当然、彼女の求愛をはねつける。そして、必要以上に彼女を邪険に扱うのだが、避ければ避けるほど意識してしまい、

“お前があの醜悪な駱駝でなかったらなあ……(略)ああも心を撃ち、ああも優しい、あいつの眼差の輝きは、残酷な毒物なんだ。あんなに形の美しい、色鮮やかな、瑞々しい、そして、見たところああもあどけないあの唇も、佯りを言うためにしか開かないのだ。あの心も、仮に心があるものなら、それは裏切るためにしか熱しはしないのだろう”

と、彼女に溺れないように己に言い聞かせるのだった。

しかし、気を紛らわせるためにのめり込んだ賭博で大きな借財を作ってしまい、ビヨンデッタの助けを借りることになってしまう。
更にはビヨンデッタを避けるために贔屓にしていた娼婦オランピヤが、嫉妬からビヨンデッタを刺し瀕死の重傷を負わせたことで、アルヴァーレの心は、

“この女は、僕と同じように命を持っていたのだ。僕がこの女の言葉を聞き入れようとせず、ことさらに危険な目に遭わせたために、今その命を落とそうとしている。おれは獣だ、人でなしだ。
お前は、世にも愛すべき人間なのに、僕はお前の数々の好意を全く見当違いな受け取り方をしてきたが、もしお前が死んだら、僕は生き残ろうとは思わない。“

とはっきりと矢印を傾けてしまうのだった。
その後、アルヴァーレは回復したビヨンデッタを伴い、ヴェネツィアの母の元まで結婚の承諾を貰いに向かうのだったが…。


ボルヘスによれば、『悪魔の恋』は、ル・サージュの『跛の悪魔』の意図的なアンチテーゼなのだそうだ。
ベエルゼビュートは、アルヴァーレを我が物にするために美女の姿を装い、姦計を用いるが、自分が仕掛けた罠に嵌って、アルヴァーレに本気で恋してしまう。真正面から愛を乞い、懸命に尽し、すすり泣くビヨンデッタの純情可憐な姿に、彼女の正体を見ているアルヴァーレでさえ幻惑され、醜悪な元の姿を失念してしまう。それは、ベエルゼビュート自身も同じだったのだろう。悪魔は、心まで恋する女になりきってしまった。まるで仮初の姿が、本来の姿を乗っ取ってしまったかのように。
ところが、ここまで上手くアルヴァーレの心を引き付けておきながら、彼が永遠の愛を誓う寸前になって、ベエルゼビュート=ビヨンデッタは、本来の姿を現し、彼のもとを去ってしまう。

いったい、悪魔の心の内で何が起きたのか。
アルヴァーレは、悪魔に愛を誓う時、彼=彼女から、それは本当の名ではないと言われても、頑なにビヨンデッタと呼び続けた。そして、自分は悪魔なのだと繰り返す彼=彼女に、「よしてくれ、可愛いビヨンデッタ、君が誰であろうと、その不吉な名前を口に出してくれるな」と、ビヨンデッタがベエルゼビュートであることをけっして認めようとはしなかった。
何故、アルヴァーレは心底ビヨンデッタを愛していながら、彼女がベエルゼビュートであるという事実を受け入れなかったのだろうか。悪魔と結ばれるなんてことはあってはならないという、18世紀の良識が愛よりも勝ったのだろうか。彼は、終にベエルゼビュートの名を呼ぶことはなかった。
悪魔自身もまた、18世紀的な良識を乗り越えられなかったのかもしれない。
悪魔は、そのままアルヴァーレを騙し続けることが可能だったのだ。
それにも関わらず、悪魔はアルヴァーレに悟らせるかの如く、醜悪な駱駝の頭とぬるぬると光る大きな蝸牛の姿になり、アルヴァーレの元から消え去ってしまった。その時、悪魔の心にあったのは、ありのままの姿を受け入れられなかったことに対する悲しみだろうか。結ばれるのなら、別に仮初の姿でも構わないだろうとは思わなかったらしい。18世紀の悪魔は、現代人の私よりよほど純粋で誠実だったようだ。両想いのように見えて、絶望的に噛み合わない二人の悲恋であった。
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