青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

夫誕生日2021

2021-08-27 09:12:52 | 日記

25日が夫の誕生日だったので、お家でお祝いしました。
今回のメニューは、ステーキ、クラムチャウダー、カボチャとサツマイモのサラダ、マンゴーラッシー、パン、苺のチーズケーキです。


苺のチーズケーキ。


苺を砂糖とレモン汁で煮詰めて、緩めのジャムにします。


ジャムをレアチーズの生地に混ぜて、砕いたクッキーを敷き詰めた型に流し込みます。


170度のオーブンで焼き上げた直後。


例によって、料理を作りすぎたので、ケーキは翌日のおやつの時間に食べました。


ステーキ。
キャロットグラッセと、ジャガイモと椎茸の素揚げを添えて。


具だくさんのクラムチャウダー。


カボチャとサツマイモのサラダ。


マンゴーラッシー。




夫へのプレゼントは、薄手のジャケットです。
私の好みで選ぶと、夫的には少し派手に感じるそうなので、今回はなるべく落ち着いたデザインのものを選びました。いつもよりも喜んでもらえたので、嬉しいやら申し訳ないやら。




お安くなっていたので、ワンピースも買っちゃいました。
娘と私との共用です。シンプルなデザインなので、ベルトやアクセサリー、ストールなどで色んなコーデを楽しみたいです。


キャップは母娘でお揃い。
夫にも色違いのキャップを買いたかったのですが、「こういうのは似合わないから」と、断られてしまいました。
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くだもの くだもの

2021-08-24 08:58:07 | 日記

今年も下妻から梨を贈ってもらえました。


掌がいっぱいになるくらいの大玉です。ソフトボールサイズでしょうか。
爽やかな甘みとたっぷりの汁気でとても美味しい梨です。コロナが落ち着いたら茨城の方にドライブに行きたいなぁ。


桃も箱でド~ン。


ほかには、たまにスイカとかオレンジを食べました。スイカは果物ではないですけど。
夏のおやつはさっぱりしたものが良いです。自分で作るおやつもプリンとゼリーの繰り返しでした。

最近は少し過ごしやすくなってきたので、またオーブンを使ったおやつも作るようになりましたよ。
思い立ったら作る感じなので、その日、自宅にある材料で作れるものばかりになってしまいますが。


ココアとコーヒーの生地に粗目に砕いたアーモンドをたっぷり入れたパウンドケーキです。


マーマレードとカスタードクリームのパイ。


蜜柑ケーキ。


メレンゲ。


オートミールのカップケーキ。


マーマレードとチョコチップのカップケーキ。


マーマレードの蒸しパン。


大学芋。
業務スーパーで売っている、スティックタイプの冷凍サツマイモを使うと簡単に作れます。


平山和子『くだもの』
娘が小さなころに愛読していた絵本です。リアルな作画と、「さあ どうぞ」というセリフが娘のお気に入りの様子でした。
私と弟も小さなころに同じ本を読んでいました。親子姉弟で同じ本で育ったということで、思い出深い作品です。
うちは文庫本は折を見て整理・処分していますが、絵本はだいたい残してありますよ。


今年で二年目になる糠床です。
刻んだ昆布、鷹の爪、鰹節その他色々混ぜこんでいます。


キュウリ。


茄子。


ニンジン。

糠漬けは、その時期に安く出回っている野菜を使うので、夏場はキュウリが多くなります。冬になると大根が増えますね。
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アンブローズ蒐集家

2021-08-19 09:17:14 | 日記
『アンブローズ蒐集家』は、フレドリック・ブラウンの、エド&アム・ハンターシリーズの4作目にあたる。

実はこのシリーズを読むのは、本作が初めてなのだ。
私は普段から推理小説をあまり読まない。本作を手に取ったのは、ただただタイトルに惹かれたためだった。
アンブローズという名の人間を蒐集するコレクターが暗躍するサイコ小説と思ってページを繰り出したのだが、実際にはそんな事はまったく起こらず。
なんせ作中で失踪するのは、アム伯父さんことアンブローズ・ハンターただ一人。事件に関係して殺害される人物もただ一人。それも、わりと現実的な殺害方法で、派手なトリックは一切仕込まれていない。
若い主人公が伯父の救出のために頑張りながら、苦い喪失も味わう成長物語的なテイストで、私が想像したような猟奇性は皆無の堅実な推理小説なのだった。

〈スターロック探偵社〉に勤める新米探偵のエド・ハンターと、ベテラン探偵のアム伯父さんことアンブローズ・ハンターは、シカゴのとあるアパートで同居している。

ある日、依頼人との面談のために〈グレシャム・ホテル〉に出向いたアム伯父さんが、そのまま失踪してしまった。
アム伯父さんを電話で呼び出した依頼人は、「アンブローズ・コレクター」と名乗っていた。〈スターロック探偵社〉の社長ベン・スターロックは、社に所属する探偵全員を使ってアム伯父さんの捜索にあたる。しかし、手がかりが掴めない。

そんな中で、エドは移動カーニバル時代からの友人で、同じアパートの住人でもあるエステルから、「もしかしたら、アンブローズ・コレクターにコレクションされちゃったかも」という不可解な言葉を聞かされる。言葉の意味と誰に聞かされたかを問うても、エステルには答えられない。誰かとの雑談中に出てきた他愛の無い話らしい。
エドは「アンブローズ・コレクター」がアム伯父さん失踪のキーワードと考え、エステルにいつ・誰からそれを聞かされたのかを思い出すよう頼む。

エド達の捜査で、「アンブローズ・コレクター」を名乗る男が面会場所として告げた〈グレシャム・ホテル〉の418号室には、リチャード・バーグマンという人物が宿泊中であることが分かる。
この人物が「アンブローズ・コレクター」なのだろうか?

その後、エステルは、同じアパートの住人カール・デルと映画を観に行った時に、映画の感想の延長で、「アンブローズ・コレクター」の話をしたことを思い出した。
カール・デルは保険会社勤めで、占星術マニアだ。
エドは、カールから、「アンブローズ・コレクター」とは、チャールズ・フォートの著作に出てくる言葉であることを教えられる。

『悪魔の辞典』の著者アンブローズ・ビアスは、その生涯を失踪という形で終えた。
しかし、実はビアス失踪の6年後にも、アンブローズ・スモールなる人物が、百万ドルを超える資産を残して失踪したらしいのだ。
チャールズ・フォートは著作の中で、これらの失踪事件を「アンブローズ・コレクター」の仕業ではないかと述べている。

チャールズ・フォートは、実在のジャーナリストだ。
フォートの経歴については、作中でカール・デルの口から説明されているが、訳者あとがきでも、更に詳しく捕捉されている。
チャールズ・フォートは、アメリカの超常現象研究家の草分け的存在らしい。
日本では、フォートの著作は何度か翻訳刊行が計画されながら、未だ実現を見ていない。
が、アメリカ本国では、いまなおその道の古典として読み継がれており、ラヴクラフトやE・F・ラッセルなど、フォートの影響を受けた書き手は少なくないという。
いかにも、占星術マニアのカール・デルが好みそうな人物だ。

このチャールズ・フォートをはじめ、『アンブローズ蒐集家』には、オカルトやスピリチュアル的な要素がいくつも散りばめられている。それらが、アム伯父さん失踪の謎へと繋がって行くのか行かないのか――。
たとえば、カール・デルの占いによって導きだされた「420」という数字。
アム伯父さん失踪事件の裏には、数当て賭博の関係者がちらついているが、「420」はそちらに結びつくのか。

この他にも、本書では数字遊び・言葉遊びの描写が目につく。
エドは捜査の過程で、ナイトクラブ〈ブルー・クロコダイル〉の経営者にして、数当て賭博の元締めオーギー・グレーンという人物に行き着く。
そのオーギーの片腕が、トビー・デイゴンというのだが、このデイゴンという姓は、ダゴンとも読める。

ダゴンは旧約聖書にペリシテ人の神として現れる。
だが、ミルトンの『失楽園』には、かつてサタンの率いる「悪魔の軍勢」の一員であった者が、後に異教の神となったと記されている。
この「悪魔の軍勢」は、原文ではArmy of Fiends、そして、本書の原題はCompliments of a Fiendだ。ダゴンとは悪魔をあらわす言葉でもあったのだ。

エドは5年前、印刷工だった頃のミスを思い出すのだ。
教会報の広告で、「友人より感謝をこめて」という活字を組んだとき、うっかりFriendからrの文字を抜かしてしまったのだ。
そのために、Friend(友人)がFiend(悪魔)になってしまった。「友人より感謝をこめて」が、「悪魔より感謝をこめて」になってしまった……。
フレドリック・ブラウンが本作のタイトルに、一般的な「Devil」や「Demon」ではなく、「Fiend」を使ったのは、この言葉遊びがしたかったからだろう。

因みにエドとアム伯父さんは、シリーズ第一作目から本書に至るまで、以下の変遷を辿っている。
先に述べたように、私はこのシリーズを本作しか読んでいないのだが、推理小説として読む分には、特に差し障りはなかった。

『シカゴ・ブルース』The Fabulous Clipjoint
エドは、18歳の見習い印刷工。
アム伯父さんは、移動カーニバルに所属している。アム伯父さんは、カーニバルに関係する前は、私立探偵をしていた。
二人は力を合わせて事件の謎を追う。

『三人のこびと』The Dead Ringer
エドは、アム伯父さんが働いている移動カーニバルに残る。
アム伯父さんと寝起きを共にして、カーニバルで起こる連続殺人事件の捜査をする。
事件を解決した後、二人はシカゴに戻る。

『月夜の狼』The Bloody moonlight
シカゴに戻ったアム伯父さんは、旧知のベン・スターロックが経営する〈スターロック探偵社〉に雇われ、探偵業に復帰する。
21歳になったエドも〈スターロック探偵社〉の探偵見習いとして働き始める。

4作目にあたるのが本書だ。このシリーズには、あと3作続きがある。
エド&アム・ハンターシリーズは、エドとアムの甥伯父コンビが二人三脚で事件を追うスタイルを取っているようだが、本書は初っ端からアム伯父さんが失踪していて、終盤まで出て来ない。
言葉遊び・数遊びの要素が強く、思わせ振りな描写が多い割には、事件の謎解きはあっさり目なので、推理小説としてよりも青春小説として読んだ方がいいかもしれない。
その意味では、一作目から読んだ方が登場人物への理解が深まり、シリーズへの愛着が増すだろう。

エドは、大家のブレイディ夫人から、エステルが彼にぞっこんだと断言されるまで、その可能性について考えたことはなかった。
エステルは移動カーニバル時代の同僚で、その頃から肉体関係にあった。でも、当時のエドが愛していたのはリタだったし、ああいうことは彼には意味の無いことだった。そして、エステルにとってもそれほどは意味の無いことだと思っていた。

けれども、今は。
エステルがカーニバルを辞めたのは、別にエドが辞めたからではない。エステルがエドの住むシカゴに移ってきたのだって――そう思ってきたけど、ブレイディ夫人の発言がどこも間違っていないことも分かってしまったのだ。

エドは自分の人生を変えてしまうような大き過ぎるものが怖い。
そして、今はアム伯父さんのことで頭が一杯だ。今に限らず、これまで一度だって、エステルを他の誰かより優先したことなんて無かったけど。
だから、アム伯父さんの捜索に協力してくれたエステルが、その過程でオーギー・グレーンと親密になったのを知ってもそれほど深刻には受け止めなかったし、オーギーからプロポーズを受けたと聞かされた時も冗談だと思っていた。
オーギーは魅力的な男だけど、生業を考えると気の良いだけの男ではないだろう。そう思っていた。
だけど、事件が解決して、エドにエステルのことを考える余裕が出来た時、エドはエステルとオーギーとのことが冗談ではなかったことを知った。二人は本当に結婚するのだ。

エステルが引っ越すことを伝え聞いたエドは、彼女と電話で話す。
この時、エドは自分がエステルを愛していることを自覚したけど、同時に愛の量が充分では無いことも思い知らされた。
エドはエステルの気持ちに気づいた上で、それを無視できるほど不誠実ではなかったし、彼女について真剣に考えた結果、愛しいとも大切とも思った。だけど、彼女の気持ちと釣り合うほどの熱意は終ぞ持ち得なかった。

受話器を置く音と共に二人の関係は終わった。
エステルはどうしようもなく正しかった。そして、オーギーはいい男だ。そう思っても、気が晴れる訳ではなかった。どうしようもなく辛い。
でも、エドには夢が残っている。
アム伯父さんと二人で探偵社を立ち上げるのだ。占星術はエドに何も教えてくれなかったけど、夜空の星に〈ハンター&ハンター探偵社〉の文字を重ね合わせると、エドの心からは悲しみが忽ち消え失せていくのだった。
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理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ

2021-08-13 09:36:00 | 日記
吉川浩満著『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』

我々は、なぜ日常的に進化論を誤用してしまうのか?
進化論が「お守り」として濫用されるに至った背景を、生物史に留まらず、哲学、心理学、社会学なども用いて読み解く。
科学的な学術書というより、人文寄りのエッセイと捉えた方がいい内容だった。
ページ左隅に引用元の書籍が数多く記載されているので、この中から次に読みたい本を探すという楽しみ方もできる。

“進化論は、まずなによりも生物の世界を説明する科学理論である。でも、私たちはそうした枠をはるかに飛び越えて、あらゆる物事を進化論の言葉で語る。実際、身のまわりは進化論の言葉であふれている。「進化」という言葉を見たり聞いたりしない日はないし、「適応」「遺伝子」「DNA」といった言葉もおなじみのものだ。”

日常に言葉が溢れているせいで、なんとなく知っている気になっているが、いざ「進化論とは?」と問われると案外答えられないものだ。
本書では、ダーウィンの進化論を絶滅生物側に視点を置いて考察したり、「適応主義」論争に敗れたグールドの主張を読み解くことで、なぜ我々が自然科学とは異なる方法論で進化論を語りがちなのかについての推論も述べている。

“世間に流布している進化論のイメージにいかなる不備があろうとも、進化論的なものの見方やその言葉が喚起するイメージが、物事を「生存か死滅か」という究極的な尺度で測るリアルなものとして私たちに受容されているということだ。”

“究極的なだけではない。それは包括的でもある。つまり進化論はなんにでも適用でき、すべてを含みこむことが出来るのだ。ここでもっとも包括的な学問はなにか、ちょっと考えてみよう。定義上もっともスケールがデカそうに思える物理学的宇宙論さえ、進化論の包括性にはかなわない。進化論にかかれば、宇宙も宇宙論も「進化」する事物の一員という、数あるレパートリーのひとつにすぎないのである。”

“この究極性と包括性という点において、進化論は史上最強の科学思想だ。だからこそ私たちは進化論のアイデアに魅力を感じ、その言葉で語りつづけるのである。”

我々門外漢が、誤用乱用を重ねつつ、進化論を用いて何かを語れている気になってしまう理由は、多分この辺りなのだろう。冷静に考えてみると、「○○の社会学」的な胡散臭さだが、進化論を用いると、なんとなく説得力が増してしまうのだ。

“アメリカの哲学者ダニエル・デネットは、進化論を「万能酸」と呼んだ。万能酸とは、どんなものでも侵食してしまうという空想上の液体のことだ。この思想をいったん受け取ったら、もう後戻りはできない。進化論という万能酸は、私たちの物の見方をそのすみずみにわたって侵食し尽くすまで、その作用を止めることがない。それは従来の理論や概念を侵食し尽くした後に、ひとつの革新的な世界像――進化論的世界像――を残していくのである。”

通常、我々は生物の進化の過程を現存する生物の観点から見ているので、進化論を生存競争を勝ち抜いた優良種のサクセスストーリーとして捉えがちだ。
「ダメなものは淘汰される」、「ビジネス環境への適応」、「企業のDNA」、「世界経済のなかでの日本の生存戦略」……ビジネス書や自己啓発本の帯でお馴染みなこれらの文言に胡散臭さを感じておきながら、自分自身も当たり前のように「進化」という言葉を「発展」とか「成長」とかに結び付けて捉えている。いつからそう考えるようになったのか?なぜそこに疑問を持たないのか?

これまでに地球上に出現した生物種のうち、99.9パーセント以上はすでに絶滅しているという。彼らはどうして絶滅してしまったのか?
この疑問をビジネス進化論で語ると、「ライバルとの競争に負けたから」とか「変化に適応できなかったから」とかいう単純明快な解答に行きつく。そこからの「だから、絶えず競争し、適応し、進化を続けよ」だ。
どうやら、我々は「進化」だけでなく「適応」という言葉も、科学者とは異なる使い方をしているらしい。そして、その誤用を本来の進化論を語る時に逆輸入してしまっている。
このある種のロマンチシズムが、グールドが「適応主義」論争に敗れた原因の一つと重なるのだ。

“進化論は、昔から激しい論争を巻き起こす学問として知られている。(略)そして、専門家同士の論争も私たち素人の混乱も、あらわれ方は異なれど、どちらも同じ根っこから生じてくるのではないか、これが私の考えである。
どうも進化論というものは、透徹した思考と厳密な検証による堅固な普遍性を要求するものであると同時に、個人的な信念やアイデンティティといった私たちのなかにある弱くて脆くて柔らかな部分を針でつつくような刺激を与えるものであるようだ。”

生物種の絶滅率が99.9パーセントだとすれば、これまで地球上に出現した生物種の総計はどのくらいになるだろう。
デイヴィッド・ラウプは、現在地球上に生息している生物種は400万種は下らないだろうと推測する。それに対して、これまで地球上に出現した生物種の総数は、おそらく50億から500億ではないかと推測している。
すると、いま生きている種は、これまで地球上に出現した生物種の総数の1000分の1以下ということになる。驚異的な生存率の低さではないか。

“私たちヒトを含む現存種は過酷な生存レースを勝ち抜いたエリート中のエリートなのだろうか。私たちが漠然と抱いている進化のイメージに照らせば、そういうことになるだろう。常識的な進化のイメージでは、優れた者たちは生き残るべくして生き残り、劣った者たちは滅び去るべくして滅び去っていくのだし、生き物たちはそのようにしてより優秀に、より完全な存在へと近づいていくのだから。”

シンプルかつポジティブな解釈である。
しかし、ラウプの主張はそれより複雑だ。ラウプは、通常は生き残りと適応の観点からとらえる生物進化を絶滅の条件下という観点から解釈する。
その種が絶滅したのは、適応面で劣っていた(遺伝子が悪かった)せいか、それとも間違った時期に間違った場所にいた(運が悪かった)せいか。
「遺伝子か運か」を「実力か運か」と言い換えれば、そのまま進化論風ビジネス書の論調になる。そして、それらの本では、まず「運」とは言わない。「運」が成功の唯一の決め手になってしまっては、「才能」、「実力」、「努力」等という本人の資質がどうでもよくなってしまうからだ。
しかし、生物の絶滅は、生物間競争を通じて、優れたものが選ばれ、劣ったものが滅びた、という本人の資質に左右されるような単純なものではない。
ラウプの答えはこれだ。

“ほとんどの種は、運が悪いせいで死滅するのではないかと、私は考えている。それまでの進化の過程では予想もつかなかった、生物的あるいは物理的ストレスにさらされ、しかも、ダーウィン流の自己淘汰が適応を準備する時間的余裕もないせいで、種は死滅するのだ。
「遺伝子でなく運が悪いのだ!」という言い方から、読者のみなさんには、そこにこめられた不確実性を理解していただきたい。遺伝子の悪さよりも運の悪さを支持するというのが、私にできる最良の推測である。”

ラウプは、絶滅生物たちがどのようにして死滅に至ったかを、古生物学上の化石記録や統計データを駆使して、三つのシナリオにまとめた。

第一のシナリオ「弾幕の戦場」
これは、生物がどれだけ優れているかとか、どれだけ環境に適応しているかとか言ったこととは無関係の絶滅を指す。
イメージとしては、人口密集地に対して行われる無差別爆撃。
このような状況では、誰が倒れるかは確率論的に決まる。いわば、ランダムサンプリングだ。純粋に運のみが生死の分かれ目を左右するのである。
約6500万年前、白亜紀末に起こった生物の大規模な絶滅は、天体が地球に衝突したことが原因と考えられている。
白亜紀の天体衝突の場合、衝突時のエネルギーは広島方原子爆弾の10憶倍ともいわれ、衝突地点の周辺に生息していた生物は一瞬で絶滅したに違いない。他方、遠く離れた場所に生息していた生物は、現場付近の生物ほどには被害を被らなかっただろう。
ここでは全滅の原因はただ一つ、運が悪かったということだ。

第二のシナリオ「公正なゲーム」
これは、同時に存在するほかの種や、新しく生じてきたほかの種との生存競争の結果としての絶滅を指す。
絶滅の原因として、私たち素人が思い浮かべるのはだいたいこれだ。ビジネス書的理論のベースにあがちな理屈である。むしろ、私たちは逆に、こうした市場競争のイメージを生物界の絶滅に当てはめていると言える。
このシナリオは、一定のルールがすべての参加者に対して効力を持つ点で「公正」であり、ルールのもとで競争が行われる点で「ゲーム」なのだ。
例として、ネアンデルタール人の絶滅が挙げられる。彼らは20万年にわたりユーラシア大陸に散らばって暮らしていたが、2万数千年前に絶滅した。
なぜ、現生人類は生存して、彼らは絶滅したのか。よく言われるのは、より賢い現生人類との生存競争に敗れたから、というものだ。

上記二つのシナリオの違いは、絶滅が選択的であるかどうかということだ。
「弾幕の戦場」における絶滅は、一切選択的ではない。絶滅する生物は、能力や環境への適応の度合いとは関係なく決まる。このシナリオに遺伝子の出る幕はない。運がすべてだ。
「公正なゲーム」においては、環境への適応の度合いが高い生物が生き残りやすく、そうでない生物は絶滅しやすい。我々が進化論として想定しているのは、この種の選択制だろう。このシナリオに運の出る幕はない。能力(遺伝子)を競うゲームがすべてを支配している。

「運が悪いせいで絶滅する」というラウプの説は、「弾幕の戦場」の領域に属しているところが多い。が、そればかりでもない。彼が問題にしている「運」とは、ランダムサンプリングとは似て非なるものなのだ。そこで、第三のシナリオの登場である。

第三のシナリオ「理不尽な絶滅」
このシナリオでは、遺伝子を競うゲームの支配が、運によって齎される。
ここで例に挙げられるのが恐竜の絶滅である。
恐竜の絶滅には、天体衝突によって一挙に絶滅したという説と、図体の大きさによる適応力不足によって絶滅したという二つの通説がある。前者なら「弾幕の戦場」、後者なら「公正なゲーム」だ。
でも、実際には恐竜の絶滅は、そのどちらかだけでは説明がつかない。つまり彼らは第三のシナリオ「理不尽な絶滅」の犠牲になったのだ。

「理不尽な絶滅」とは、「弾幕の戦場」の下での運の支配と「公正なゲーム」の下での遺伝子の競争が組み合わされたシナリオである。
「理不尽な絶滅」の犠牲者(恐竜)は、二重の意味で運が悪かった。遺伝子を競うゲームのルールが、運によって入れ替えられてしまったからだ。
恐竜はまず、たまたま起きた天体衝突の時に、たまたま栄えていたという点で運が悪かった。次に、たまたま齎された衝突の冬が、たまたま恐竜にとって徹底的に不利な環境であった。恐竜たちはそこで、これまで彼らの繁栄の陰に隠れて細々と生きてきた生物たちが生き延びるのを横目に絶滅したのである。

このシナリオを理解する際のポイントは三つだ。
1・生存のためのルールが突然変更されてしまうこと。
2・新ルールの内容は、それまで効力を持ってきたルールとは無関係ということ。
3・新ルールは厳格に運用されるということ。

“「理不尽な絶滅」では、生存ルールは運次第で決まるにもかかわらず(天体衝突は生物にとっては運の問題以外の何物でもない)、そのようにして決まったルールは生物の特徴や能力つまり遺伝子に応じて選択的に犠牲者を決定するのである(衝突の冬を生き延びられたのは特定の生物だけだった)。いわば、万人に公平なはずの運が不公平にもたらされるのであり、公正なはずのゲームが不公正にもたらされるのだ。”

「理不尽な絶滅」の理不尽さとは、生存ルールが過酷か否かということではなく、従来の生存ルールと新たな生存ルールとの間に、また、これまで成し遂げてきた適応とこれから成し遂げなければならない適応との間に、何の関係もないところにある。

にも関わらず、我々が絶滅の原因を、絶滅した生物の自業自得と考えてしまうのはなぜか。
本書の著者は、それを「認知バイアス」が影響していると考えている。
「認知バイアス」とは、人間が物事を見る際に無意識のうちに抱く先入観のことで、社会心理学では「公正世界仮説」と呼ぶ。その名の通り、世界は公正な場所だとする信念だ。
世界が公正なら、失敗も成功も自ら招いたものということになる。この信念のおかげで、我々は努力や善行が報われると信じて頑張ることが出来るのだ。

でも、この世には不運な事故、災害、事件が後を絶えない。
そんな時、我々は屡々被害者攻撃に奔ることで「公正世界仮説」の維持を図る傾向がある。本人に何らかの落ち度があったから被害に遭ったのだろう、と。
種の絶滅を自業自得と考える脳の癖は、事故、災害、事件の被害者に自己責任論を押し付ける時のそれと恐らく同じなのだろう。

生物が絶滅するのは、大抵は運が悪かったからだ。それは、「理不尽な絶滅」というシナリオの下で起こる。
生物の歴史における「理不尽な絶滅」は、実績ある優良種(例えば一億五千年もの間繁栄してきた恐竜)を唐突なルール変更で絶滅させる一方で、まさにそのルール変更によって、生き残った生物が革新的進化を遂げる機会を提供したりもする。

絶滅に関する事実と考察は、我々が「進化」に関して何を見ないことにしているかを明らかにする。
我々が心情的に受け入れ難い「理不尽な絶滅」を基盤とする「進化」は、専門家たちの間で起きる激しい論争の争点でもある。先に述べたグールドが「適応主義」論争に敗れた理由も、この理不尽さをどのように解釈するかという点にあったのかもしれない。

それまで支配していたルールとは一切関係のないルール変更に、たまたま適応できる遺伝子を持っていた種だけが、絶滅を免れる。生物の歴史は理不尽な振るい分けの繰り返しだ。そこには願望の入り込む余地がない。
生物学における「進化」には優劣など存在しない。「退化」もまた、「進化」の一形態だ。個人的な信念やアイデンティティを賭けるようなものではない。ビジネスや自己啓発の分野で使われるある種人道的な「進化」とは、根本的なところから別物なのだという結論に行きついた。
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オリンピックは終わりましたが

2021-08-09 09:40:26 | 日記
今季の神奈川県内の海水浴場。
鎌倉・大磯・真鶴・小田原は、海開き時期前に休場を発表。
平塚・逗子・葉山・茅ヶ崎・横浜・三浦・横須賀は、しばらくの間開場していましたがコロナ感染者数の増加などを受けた措置で休場になりました。
一方、私の住む藤沢は未だに海開きっぱなし。めっちゃ密。
本日は台風ですが、よそが休場している分、台風が去った後はますます混雑しそうです。

藤沢は、江の島が五輪セーリング会場だったというのに、ワクチン接種が65歳以上の高齢層すら終わっていません。それ以下の年齢層は推して知るべし。ワクチンの確保が遅れていて、一回目の予約もままなりません。
夫は今週二回目の職域接種を終了予定ですが、娘と私がワクチンを打てるのはいつになることか……。娘、受験生なのですが。

昨晩、途中までテレビで閉会式を見ていたのですが、色々負の感情が渦巻いてしまって、途中でテレビを消してしまいました。布団に入ってからもなかなか寝付けなかったです。
オープン状態のブログであんまりマイナスな話をしたくないのだけど、ちょっともうしんどいなぁ。
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