青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

9月の大船フラワーセンター・その1(屋外)

2020-09-28 08:48:53 | 日記

日曜日に大船フラワーセンターに行ってきました。
今回の目的は、芝生広場のおばけカボチャ(アトランティックジャイアント)の展示です。

前回の神代植物公園ほどではないですが、今回もたくさん写真を撮ったので、二回に分けてブログに載せます。








エントランスには、カボチャのオブジェが展示されています。
もうすぐハロウィンですね。




入り口付近には、秋の花の寄せ植えも複数展示されています。
寄せ植えは他にも園内の至る所に置いてありました。












鉢も花壇もとても綺麗。参考になります。






睡蓮池。
お盆みたいな葉は、猫が乗れそうな大きさですが、まぁ沈みますよね。


花時計。
いい感じの角度で撮れなかったのですが、9時15分過ぎを指しています。


ヒマワリがまだ咲いていました。


スカビオサ。

まずは日本庭園へ。












柘榴。


タイワン・ツクバネウツギ。

日本庭園を出てから、芝生広場へ向かいました。


桔梗。


マルバデイゴ。






コスモスの見頃はもう少し先みたいです。




本日のお目当て、おばけカボチャの展示です。






10㎏~50㎏にもなるおばけカボチャたちが無造作に転がされていて、なかなかユーモラスな様相。
表面は磨いたみたいにツルツル。天気のいい日ならもっと艶々して見えたと思います。

ばら園。




今咲いているのは春薔薇の残りです。
秋薔薇は10月中旬から11月中旬頃が見頃だそうなので、その頃になったらまた来園しようと思います。

















この花は、薔薇の原種です。
薔薇よりもキク科の植物みたいに見えます。白地の花びらの中央に赤紫が入っているのが可愛い。


これも薔薇の原種。
世界で栽培されている一万種とも二万種とも言われる薔薇の改良種は、元は十数種の原種から作り出されているのだとか。


ケイトウ。


この薄紫の花は名前が分からなかったです。






彼岸花。
職員さんによると、今年は開花が遅いらしいです。




園内にはリスもいます。
二枚とも画像の真ん中くらいに写っているのですが、見えますでしょうか?元気なリスたちで、ずっと動いているので、いい感じの写真が取れませんでした。


ムクゲと酔芙蓉の小道。








ムクゲ。




酔芙蓉。


ロックガーデン。


ブルネラグ・ランディフロラ。


ハナルツボラン。


バタフライビー。


可愛い花壇。その向こうには蓮の群れ。


パンパスグラス。


ハーブの寄せ植え。


ソリダコ・ファイヤーワークス。


大船植物センターはこじんまりとした敷地面積なのですが、森の小道みたいなエリアもあります。

このあと、温室見学に向かいました。
長くなったので、今回のブログはここでいったん終了。次回のブログに続きます。
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秋の神代植物公園散策・その2(大温室~植物会館~植物多様性センター)

2020-09-24 09:00:05 | 日記

前回のブログ〈秋の神代植物公園散策・その1(本園屋外~深大寺~水生植物園)〉の続きです。


今回は大温室から。
ばら園の向かいにある大温室には、合計1300種の植物が集められています。外から見るとガラス張りの要塞のような堂々たる風貌です。
内側は、熱帯花木室・ラン室・ベゴニア室・熱帯スイレン室・小笠原植物室・乾燥地植物室の六つの室に分けられています。
ラン室とベゴニア室の華やかさは、神代植物公園に行くべき理由の上位に位置づけられると思いますよ。






エントランス。




エントランスのキサントステモン・クリサンサスは、今回の神代植物公園散策の理由その二です(その一は、前回のブログに載せたパンパスグラス)。
オーストラリア北東部原産で、日本では殆ど見かけることのない樹木。今年二回目の開花です。

まずは、熱帯花木室へ。














熱帯花木室は果樹がいくつかあったせいか、何とも言えない良い香りがしました。
一番下の画像は、夜来香。家庭園芸でも人気の品種ですね。
ここに展示されているものは、昭和45年にこの施設の職員により日本に導入され、その後国内で初めて開花した個体です。

お次はラン室。




























ラン室とその隣のベゴニア室だけで百枚近く写真を撮りました。どれを載せるか迷いましたが、どれを載せても綺麗なので、枚数だけ抑えてランダムに選出。

ラン室を出て、ベゴニア室へ。




















大輪のベゴニアは、薔薇や牡丹、カーネーションなどにも似ていて、でも、それらよりは丈夫なのが良いですね。中には菊のような花びらやシソみたいな葉の品種も。
私もパッと華やかな鉢を一つ育てたいのですが、我が家には悪戯な猫が三匹もいるので、置き場所がないのでした。
ラン同様、自分で育てるより専門家が育てたものを見に行くのが良いようです。

熱帯スイレン室。






















睡蓮のほかに、変わり咲きのハイビスカスやパイナップル科の植物も展示されています。

小笠原植物室。




小笠原諸島の希少な植物が展示されています。


乾燥地植物室。












サボテン、その他の多肉植物、乾燥地に適応した様々な品種が展示されています。

出口前展示スペース。






食虫植物とハナアナナスが展示中でした。

大温室を出てから、植物会館へ。






植物会館前で展示中の変化朝顔。
午後なのですでに花が萎みかけています。満開の状態で見ることが出来たら良かったですね。
この日は渋滞に巻き込まれ、神代植物公園に着いたのは11時頃だったので、もう諦めていました。朝顔は早朝の花ですから、9時半の開園に間に合ってもどうだったか……。
特に一番下のソライロアサガオ“フライング・ソーサーズ”は本当に綺麗なアイスブルーなので、花びらがピンと張ったところを見たかったです。


秋の七草も展示中でした。

次は、正門を出て、植物多様性センターへ。
東京の植物多様性保全と展示や講座、環境学習プログラムのための施設です。本園から徒歩二分の所にあります。








情報館には、パネルやハンズオンなどで、楽しみながら東京の植物や植物多様性について理解を深められる展示があります。テラリウムも展示されていました。






屋外の学習園では、伊豆諸島ゾーン・奥多摩ゾーン・武蔵野ゾーンに分かれていて、それぞれの土地の環境を再現しつつ、その土地の植物を展示しています。
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秋の神代植物公園散策・その1(本園屋外~深大寺~水生植物園)

2020-09-21 08:36:45 | 日記

連休初日に、神代植物公園に行ってきました。
散策順路は、本園屋外→深大寺→水生植物園→本園大温室→植物会館→植物多様性センターです。

長くなるので、記事を二回に分けてブログに載せます。

まずは、本園のダリア園へ。




















ダリアの花は、繊細かつコンパクトに纏まった花びらの重なりが、和装の小物みたいですね。




ダリア園にはシュウメイギクも植えられていました。

お次は、ばら園。






















時期外れなので、そんなに花は咲いていなくてちょっと寂しかったです。


ばら園そばの売店でバラのソフトクリームを食べました。
持っているだけではバラの香りはそんなにしないのですが、口に含むと口内がバラのテイストでいっぱいになります。




売店そばのエンジュ。
マメ科だけあって枝豆のサヤによく似ています。

次は、芝生広場へ。















  




手入れの行き届いた花壇がいくつもありました。


瓢箪棚。




パンパスグラス。
今回の神代植物公園散策の目的の一つでした。
芝生の真ん中に浮島のようにコンモリ群生しているのが印象的。どのくらい大きいのか一目でわかるよう、対象物として手前に娘コメガネ(156㎝)を立たせました。


蓮。


ナツメの実。

平和の森を抜けて、深大寺へ。


深大寺門までの道は背の高い雑木林みたいになっています。この日は元々曇りでしたが、夏日でもここだけは涼しそうです。


足元を見たら、マヤランが黒い実をつけていました。


深大寺門を抜けると、お蕎麦屋さんが見えました。ここで昼食タイム。
十割と八割のメニューがありましたが、私たちは八割を選びました。


私はおろしなめこ蕎麦。


夫はざる蕎麦大盛。


コメガネは天麩羅蕎麦。

腰があっておいしいお蕎麦でした。出てきた時には「少し足りないな?」と思いましたが、完食するころにはお腹いっぱい。屋外に飲食席があるのも良かったです。

お蕎麦屋さんを出てから、深大寺境内へ。


深大寺のおみくじは古来のままなので、凶が出ることが多いそうです。それは、凶は吉に好転する力を秘めているからだそうで。私は宗教方面には暗いのですが、陰陽五行的な意味合いが含まれているのでしょうか?








まわりの参拝者たちが灰に刺さるようにお線香を投入していたので、私たちも真似てみました。




無患子。ムクロジと読みます。
実の皮を剥ぐと中から黒い種子が現れます。硬くて光沢があるため、羽根つきの玉や数珠として使われます。

深大寺を出て、水生植物園へ。
こちらも本園同様、四季ごとに異なる植物がみられます。


























今回は小さな花しか咲いていませんでしたが(それはそれで見つける楽しみがあるのですが)、アヤメやカキツバタの季節なら華やかだと思います。


水生植物園を出て、再び本園に戻りました。※出るときにスタンプを押してもらっていれば、再入場できます。
これから、大温室へ。

長くなるので、今回はここまでにしておきます。続きは次回のブログで。
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四連休ですね

2020-09-16 08:46:20 | 日記
土曜から四連休ですね。
天気が良かったら少し外歩きをしたいなと思っています。
神代植物公園か大船フラワーセンターのどちらか、出来れば両方行ってみたいですね。今何が咲いているのか、チェックしないと。


お弁当用に買ったマスカットが余ったので、ケーキを焼きました。
生クリームの扱いが相変わらず残念。もう少し綺麗にナッペできるようになりたいです。


ロールケーキの生地と同じレシピです。
20分で焼きあがるので、ホールケーキの3分の1の時間で済みます。
ラップをかけて冷ましてから、ナッペに入ります。




巻かずに四等分して、間に生クリームと刻んだマスカットを挟みました。


凜と桜。
ほぼ同じポーズで就寝中。桜のお尻は凜の枕です。




別の日の凛と桜。
後頭部がくっついています。同い年、9歳コンビは仲良しです。
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変身のロマン

2020-09-11 09:01:14 | 日記
澁澤龍彦編集『変身のロマン』は、幻想小説アンソロジー『暗黒のメルヘン』のいわば続編にあたる短編集だ。
今回は、『暗黒のメルヘン』とはやや趣向を変えて、メタモルフォーシスの主題で全体を統一している。
また、『暗黒のメルヘン』は収録作すべてが日本文学であったが、『変身のロマン』においては、日本文学八篇、ラテン文学一篇、フランス文学二篇、イギリス文学一篇、ドイツ文学一篇、北欧文学一篇という内訳である。
さらに詳しく分類すると、人間が動物(魚、鳥、獣など)に変身する物語が七篇、植物に変身する物語が四篇、無機物(声、壁)に変身する物語が二篇、人間が人間のまま極端に小さくなってしまう物語が一篇となる。
構成としては、最初に澁澤龍彦「メタモルフォーシス考」、最後に花田清輝「変形譚」を配して、二つの変身論で変身文学をサンドするという形をとっている。

収録順は、澁澤龍彦「メタモルフォーシス考」、上田秋成「夢應の鯉魚(雨月物語より)」、泉鏡花「荒野聖」、中島敦「山月記」、阿部公房「デンドロカカリヤ」、中井英夫「牧神の春」、蒲松齢「牡丹と耐冬」、オウィディウス「美少年ナルキッソスとエコ(転身物語より)」、ジャック・カゾット「惡魔の恋」、ギョーム・アポリネール「オノレ・シュヴラックの失踪」、ジョン・コリアー「みどりの想い」、フランツ・カフカ「断食芸人」、アンデルセン「野の白鳥」、花田清輝「変形譚」。
巻末に澁澤龍彦の編集後記が付いている。

知る人ぞ知る、ではなく、多くの人が知っている有名作ばかりでアンソロジーを組んでいるのが、澁澤らしいというか。アポリネール「オノレ・シュヴラックの失踪」なんて、恐怖小説アンソロジーの類で何度読んだことか。
幻想文学のゲートウェイを意識して編纂したのかもしれないが、奇を衒わないラインナップに澁澤の選本に対する絶対的な自信を感じたりもする。

「メタモルフォーシス考」において、澁澤はメタモルフォーシスを、以下の五つに区分している。

一、罰(神罰)による変身。――例)アルテミスの裸身を見たために鹿に変えられたアクタイオーン。近親相関の罪により梟に変えられたニュクティメネ。人肉食の罪により狼に変えられたリュカオーン。
二、神聖あるいは記念としての変身。――例)ヘルメスに殺されたのち、ヘラにより孔雀に変じられたアルゴス。ゼウスを厚遇した功により、死後二本の樹木となったピレモンとパウキスの夫妻。
三、保護のための変身。――例)ヘラの嫉妬を恐れたゼウスにより、牝牛に変えられたイオ。母とは知らず牝熊になったカリストーを殺そうとし、ゼウスによって母と共に星座に変えられたアルカス。
四、予防のための変身。――例)パンに追われ、葦に身を変じたシュリンクス。アポロンに追われ、父にその身を月桂樹に変えてもらったダフネ。ポセイドンの求愛から逃れるうちに、アテナによって鳥に変じられたコロニス。
五、衰弱による変身。――例)友パエトンの墜落死を嘆いて、白鳥となったキュクノス。ナルキッソスに失恋して、声だけとなったエコー。アポロンに軽蔑され、憔悴しヘリオトロープとなったクリュティエー。

もっと詳しく分類することも可能だ。
生きているうちに変身する者もあれば、死んでから変身する者もある。時間をかけて徐々に変身する者もあれば、窮地において瞬時に変身を遂げる者もある。集団での変身もあれば、一時的に変身して、また元に戻る者もある。

澁澤は、もっとも重要な鍵となるものは、動機の分類とともに、変身後の結果の分類だという。
鹿になったアクタイオーンのように動物界に移行する者もあれば、ナルキッソスやダフネのように植物界に移行する者もある。岩に変えられたバットスのように鉱物界に移行する者もあれば、アレトォーサのように液体になる者もある。カネンスのように気体と化す者もあれば、カリストーとアルカスの親子のように天体となる者もある。
変身のきっかけとなった事件や変身者の性格・性別・年齢と移行先の世界には、相応の理由と必然性が認められる。彼らは成るべくして鉱物になり、植物になっているのだ。

あらゆるタイプのメタモルフォーシスの中で、植物的メタモルフォーシスは、最も重要なタイプの一つであるらしい。
植物的メタモルフォーシスという現象は、個々の特定の植物の上に留まらず、同じ品種の植物全体に起る。つまり、すべての月桂樹がダフネであり、すべてのアネモネがアドニスなのだ。この点が、他のメタモルフォーシスと決定的に異なる。
種、球根、地下茎、株分け、枝挿し、葉挿し……旺盛に増殖していくそれらのすべてが、元は同じ人物だったと考えると、その獰猛な生命力に神秘以上に不気味さを感じてしまう。
人間は植物に変身すると、その生命を植物の生命と連続させて、ある種の不死不滅の力を獲得することが出来るのだ。

澁澤は、植物的メタモルフォーシスとキリスト教以前の植物崇拝との関連についても触れている。
人間の歴史の中で最も早く、聖なるものと結び付けられてきたのは植物だ。
寺院や神像などが礼拝の対象になるよりも以前に、植物は聖なるものとして崇拝の対象になっていた。オリエントの造形美術には、樹木の中に神そのものが顕現するというモチーフさえあったようだ。
神そのものの植物と、植物に変身する人間。
聖なるものを媒介として、人間と植物の生命は、無限に交流している。この聖なるものとの融合が、他のメタモルフォーシスには見られない現象なのだろう。


中井英夫「牧神の春」について、澁澤は「ことさら奇を衒わない単純な筋と自然な語り口が、おそらく、この小説を好ましい一篇の現代メルヘンとして成功されている原因のような気がする」と評している。

子供の変身ごっこには呪文がつきものだ。変身アニメなど必ずと言っていいほど、何か唱えている。
「プシュウドモナス・デスモリチカ」と唱えることで、牧神と化した若者がこの物語の主人公だ。この呪文が、石油を喰う微生物の名であることが、この物語のポイント。
こう書くと、どこが「奇を衒わない単純な筋と自然な語り口」なのかと訝しまれるかもしれないが、実際何の違和感もなく主人公の状況を受け入れられる語り口なのは、読めば理解できると思う。

“なにしろ、そのころ貴の考えることと言ったら、役立たずという言葉そのもので、そのくせ一度それにとりつかれると、いつまでも抜け出せないで堂々めぐりをするという風だった。”

貴は、子供の心のままに大きくなったような青年だ。
彼が街中で「プシュウドモナス・デスモリチカ」と唱えだしたり、「おれは早く土星に行かなくちゃ」と思い立ったりする必然性が、最初の一ページ目で読者に受け入れられる下地作りに成功しているあたりが、中井の凄さだ。

歌人らしく、自然の描写も秀逸。
作中の季節が春でなければならない理由も、その春の明るく埃っぽい街の描写や、牧神と化した貴が辿り着いた自然動物園の陽光と水と緑の木立の描写など、一篇の長い詩のように美しい。
貴が自然動物園で出会ったフーテン娘に、自分の裸身をさらす場面の瑞々しいエロティシズム。牧神の裸身を見た娘もまた、裸身となりニンフと化すのだ。
この二人の会話が実に洒落ていて、スタイリッシュな小説とはこういう作品のことをいうのだなと得心したのだった。


ジョン・コリアー「みどりの想い」は、肉体が植物と融合した男が、時間の経過とともに精神までも徐々に植物化していく過程を描いた変身怪談の傑作である。

人間が花と化す物語は、本書収録の蒲松齢「牡丹と耐冬」と同じであるが、「牡丹と耐冬」が艶美なエロティシズムを湛えているのに対して、「みどりの想い」は、同じテーマをひたすらグロテスクな怪奇現象として描いている。
蘭という植物は、熱帯出身であることといい、艶やかで肉厚な葉といい、エイリアンの顔みたいな花といい、触手のように鉢からはみ出している根といい、ひどく貪婪な雰囲気を醸し出す植物だ。マナリング氏が変身したのが牡丹か薔薇だったとしたら、こんな気色の悪い物語にはならなかっただろう。

植物学者のマナリング氏は、探検旅行中に失踪した友人から送られた蘭を自宅の温室に移植する。
それは未だかつて誰も見たことのない気味悪い蘭で、蠅の頭のような貧相な花を咲かせていた。
マナリング氏は、珍奇な蘭の新種を発見したことと、その命名者となりうる嬉しさとで胸をワクワクさせながら観察を続ける。

数日経たぬうちに、同居する従妹ジェインの愛猫がいなくなった。
暫くすると、蘭は猫の頭のような花を咲かせた。
それからさらに数日たつと、今度はジェインが姿を消して、蘭は馬鹿々々しいほど巨大な蕾を付けた。
蘭はジェインの顔をした花を咲かせ、マナリング氏をも己の中に取り込む。
蠅の頭のような花の描写が出た時点で、普通に読んでいれば、この辺までは容易に予測できる。
しかし、物語が独特な方向に動き出すのは、マナリング氏が人間としての生涯を終え、身動き出来ない人面花と化した場面からなのだ。

作中には、マナリング氏より後に蘭に呑み込まれた鼠が、どのように元の姿からグロテスクな花に変身を遂げたかが、克明に描写されている。まだ人間としての自我が消滅していないマナリング氏が見守るかたちで描かれているものだから、気色悪さも一入だ。自分もこのように変化したのだという答え合わせを見せられるのは地獄かと思う。
身体の変化が精神に及ぼす影響は強力だ。
蘭の旺盛な生命力と、それに呑まれた人間の自我が縮小し、別の存在に組み替えられる過程の活写が、耐えがたく不穏な作品だった。
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