青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

アルゼンチン短編集

2019-03-29 09:21:06 | 日記
ボルヘス編集『アルゼンチン短編集』には、ボルヘスによる序文と、ルゴーネス著「イスール」、ビオイ=カサレス著「烏賊はおのれの墨を選ぶ」、カンセーラ/ルサレータ著「運命の神さまはどじなお方」、コルタサル著「占拠された家」、ムヒカ=ライネス著「駅馬車」、オカンポ著「物」、ペルツァー著「チェスの師匠」、ペイロウ著「わが身にほんとうに起こったこと」、バスケス著「選ばれし人」の9編の短編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の20巻目にあたる。私にとっては11冊目の“バベルの図書館”の作品である。
尚、1番目の「イスール」は、“バベルの図書館” 18巻目、ルゴーネス著『塩の像』にも収録されている。理由があっての重複だと思うが、できれば別の作品の方が良かった。

“アルゼンチン文学は、アメリカ大陸の他の国々がスペイン人に提供したものとは、つねになにほどかことなっていた。前世紀の末にはアルゼンチンではガウチョ詩という固有のジャンルが発生したし、いまでは幻想文学への傾向をおびた作家、現実のたんなる転写は試みない作家が大勢いる。”

本書に収められている9つの“南米の孤独”の物語は、何れもどこかボルヘス的な匂いのする作風だった。その中で、私が特に面白いと思ったのが、ビオイ=カサレス著「烏賊はおのれの墨を選ぶ」、コルタサル著「占拠された家」、オカンポ著「物」、ペイロウ著「わが身にほんとうに起こったこと」の4編だ。


ビオイ=カサレス著「烏賊はおのれの墨を選ぶ」は、幻想文学にSFの要素を混ぜ込んだ奇妙な作風。本書の中では、最も特異な個性を発揮している作品だ。
ある村に宇宙人が訪れるとこから始まる物語なのだが、肝心の宇宙人は一度も姿を現さず、地元の人間の会話のみですべてが進行していく妙にドメスティックな作風なのだった。

事件の震源地は、地元の名士ドン・フアン・カマルゴの屋敷の資材置場だった。
ドン・フアンの屋敷は、道路側に花で覆われた庭園がある本格的な山荘風で、植物の管理は年中回っているスプリンクラーによって行われていた。
ところが、ある夏の日を境に、そのスプリンクラーが忽然と姿を消したのだ。庭園の花々はみるみる色つやを失っていく。ドン・フアンは庭園の管理を怠るような人物ではない。
一体、何者が何の目的でスプリンクラーを持ち去ったのか?

教師のぼくを中心とした地元の人々の調査と推理の結果、と言うか主にドン・フアンの養子ドン・ダデイートへの聞き取りにより、ドン・フアンが敷地内の資材置場に宇宙人を匿っていることが判明する。その宇宙人はナマズを連想させる外見と性質の持ち主で絶えず湿度を必要としており、ドン・フアンは湿度の確保のために庭園からスプリンクラーを持ち出したのだった。

ナマズ風宇宙人の来訪の目的は、原子爆弾による滅亡が目前に迫った地球の救済だった。
彼は、友人として、解放者として、この地球を救うためにやって来た。そして、計画推進のためドン・フアンの全面的な協力を要請したいと言っているのだという。
ところが、この先が分からない。
ナマズ風宇宙人とドン・フアンは、地球滅亡の回避に向けて、どのような行動をとるつもりなのか?真相に近づく唯一の弦であるドン・ダデイートは、気が利かない上に、受け答えもボケボケで、肝心なところが見えてこないのだ。

それから暫くして地元の人々は、ドン・フアンの庭園にスプリンクラーが戻ってきていることに気が付いた。もうスプリンクラーの必要は無くなったのだろうか?ナマズ風宇宙人は一体どうなったのか?

SFでありながら、ド田舎村の人々の会話だけで物語が成り立っている身近さが妙に楽しい。
この村の人々はあまり賢いとは感じられなくて、地球滅亡の危機をこの人達に任せておいて良いのかと不安になるし、実際最悪の結末を迎えつつあるところで物語は終了してしまう。が、不思議とバッドエンドな気はしない。このノホホンとした空気は何なのだろう。
特に教師のぼくとドン・ダデイートの会話の噛み合わなさは、コントみたいに珍妙で滑稽だった。地球滅亡の危機そのものより、それに対する人々の反応を楽しむ物語なのだろう。


コルタサル著「占拠された家」は、裕福な独身の兄妹が何者かに大切な屋敷をジワジワ占拠されていく話。最後まで何者かの正体が明かされないことと、これまた理由不明な兄妹の無抵抗主義、ノッタリとしたストーリー展開が良い感じに不気味である。

イレーネとぼくが独身のまま来てしまったのは、多分その家があったからだと思う。
そこにはぼくたちの祖先、父方の祖父や両親、それに子供の頃からのあらゆる思い出が残っていた。
毎月あちこちから地代が入って来るので、ぼくたちは生活のために働く必要はなかった。ぼくたちは買い物に出かける時以外は、その家から一歩も出ずに、それぞれの趣味に耽って過ごすことが出来た。イレーネは編み物、ぼくは祖父の遺した切手の整理。元々のぼくの趣味は読書だったけど、フランス文学全集を置いている部屋は既に何者かに占拠されてしまっていた。

家具の倒れるような音、或いはひそひそとした囁きの様な鈍く曖昧な音。
それらが彼等の活動音で、その音が聞こえてくるとぼくたちは彼らの侵入を防ぐために部屋に鍵をかける。だけど、彼らの占拠する範囲はジワジワと広がっており、その分ぼくたちは思い出の品を喪っていくのだった。

ある夜、ぼくたちはついに自分達のために確保していた家のこちら側も占拠されてしまう。ぼくたちは着の身着のままで家を明け渡した。家を離れる時、ぼくは玄関の鍵をしっかりと締め、それから鍵を排水溝に捨てた。
どのみち、ぼくたちが死んだら、冷淡な従兄弟たちが遺産としてこの家を手に入れ、それを取り壊して売り払い、一儲けすることになっただろう。それならば、この家を占拠している何者かにくれてやってしまった方が良いのかもしれない。


オカンポ著「物」もまた、古く愛しい物に纏わる物語。
カミラ・エルスキーは、どんなに貴重な物、思い出の詰まった物であっても、失くして嘆き悲しむということはなかった。
カミラは決して物を大切にしない人ではなかったけど、彼女にとって本当に大切なのは、人間と、飼っているカナリヤや犬たちだけだった。彼女は自分の生家から最初は火事で、二度目は貧乏のために、値打ち物だった貴重な家財が消えていくのを静かに見つめ続けた。

ところが、ある時期から、彼女の元に失われた物たちが次々と戻ってくるようになった。
最初は15年以上前に失くしたブレスレットだった。
ブレスレットを見つけた喜びに彼女の胸は何日も疼いていた。それから、彼女は自分の人生に彩りを添えてくれた様々な物たちを事細かに思い出すようになった。
そして、信じがたい事に、それらの物たちは彼女が何か働きかけたわけでもないのに、少しずつ彼女の元に戻って来たのだった。
最初のうち味わっていた懐かしさと切なさの入り混じった幸福な気持ちが、ある種の不安、恐怖、心配へと変わっていくのにそう時間はかからなかった。彼女がどこで何をしていても、それとは関係なしに物たちの方が彼女の元に帰ってくるのだ。これは一体どういう現象なのだろう?

多分、物たちが戻り始めた頃から彼女の人生は死に向かっていたのだろう。
物たちが彼女を愛していたのかどうかは分からない。ただ、彼女は大変幸せな人生を送った後、黄泉の国の人となったのだった。


ペイロウ著「わが身にほんとうに起こったこと」は、時間のズレを体験する男の物語。これもSFと言って良いだろう。

私はある時期から、毎朝十時に僅か二百メートルの間に、一人の男が彼自身の後ろを歩いていくのを何度も見かけるという異常体験を繰り返すようになった。時間が十時なのは時計で時刻を確かめていたから間違いない。

最初に地下鉄駅入り口の手前でその男を見かけたのは偶然だった。
美男でも醜男でもない、特に見るべき点のある男ではなかった。それにも関わらず、私の眼は無意識のうちにその男に向けられ、彼の細かな特徴を記憶していた。
それから数秒後、私は前方からさっきすれ違ったばかりの男が歩いてくるのを見た。この人は、もと来た道を素早く引き返し、改めて前と同じ方向に歩いてきたのだろうか?
そこまで考えた私は、ある事に気が付いてぎょっとなった。男は最初に見た時と同じ服装ではなかったのだ。
よく似た人物、例えば双子の兄弟が前後して歩いていただけかもしれない、私はそう考えて心を鎮めようとした。ところが、三度目に同じ男が先の二回とは異なる服装で歩いてくるのを目撃した時には、ただもうビックリするしかなかった。

私は記憶錯覚によって、同じ瞬間を何度も再体験したのであろうか?それならば、なぜ男は毎回違う服装をしているのか?
翌日も私は同じ体験を繰り返した。それが一ヶ月続いた頃に私はあることに気が付いた。
男との出会いが、彼にとって(私にとっても)ある時間の経過を示していたのだ。その男は過去から現在に向かって、或いは現在から過去に向かって歩いていた。私は何日もの間、どちらが正解なのか分からなかったが、並外れた記憶力によってこの問題を解決することができた。男は現在に向かって歩いており、私は彼の過去へと去っていく人生を毎朝見ていたのである。私はある人物のその日と、更に遡って、その前日と前々日を見ていたのだ。
しからば、その術を応用して見知らぬ男ではなく、見たい人物の過去を見ることが出来るようになるではないだろうか?その驚嘆すべき境地に達するには、まずその初歩をマスターしなければならない。それには、私にこの異常体験を齎したこの見知らぬ男を使って研鑽を積む必要がある…

四角張った理屈っぽい文章が、主人公のストーカー気質と絶妙にマッチしていた。技巧性も高い。“現実のたんなる転写”を由としないアルゼンチン文学は、SFとの親和性が高いようだ。アルゼンチンSF文学アンソロジーなんてものがあったら、ぜひ読んでみたいと思った。
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春のお彼岸2019

2019-03-26 09:09:01 | 日記

今春のお彼岸もおはぎを作りました。
彼岸過ぎですが、まだ暖房が必要な日もあります。
冬前に室内に取り込んだ鉢植え達を週末に表に出しましたが、ブーゲンビレアの葉っぱが萎びてしまいました。毎年のことなのでそんなに心配していませんが、外気になれるのに少し時間がかかるようです。


窓辺で日向ぼっこの猫ちゃんズ。串団子みたいです。


庭で遊ぶ凜を見守る猫ちゃんズ。


蓬と柏。腕枕。


お尻とお尻。


柏のお尻で寛ぐ桜。


お昼寝、娘コメガネと桜。


お昼寝、凜と蓬。


夜も猫団子。


横っ面にヒーターの温風を受ける凜。
まだ時々寒くなる日があるので、しばらくはヒーターを出しておいた方が良いですね。
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卒業のお祝い

2019-03-21 09:06:49 | 日記
19日に娘コメガネが小学校を卒業しました。
ついこの間幼稚園を卒業したばかりだと思っていたのに、月日が経つのは早いものです。入学時には前から三番目くらいだった背の高さも、卒業時には半分より後ろになっていました。




コメガネさんは、昼はお友達とお祝い会をして、夜には私たち家族で食事会をしました。

今回は、イタリアンのディナーコースです。
場所は、藤沢のGLICINE(グリーチネ)というレストラン。
グリーチネは、イタリア語で藤の花という意味。白を基調とした落ち着いたお店でした。テーブルには蝋燭が灯してあり、ゆったりとした雰囲気の中でお食事することが出来ましたよ。
予約を入れる時に子供の年齢を訊かれたので、もしかしたら年齢制限のあるお店なのかもしれません。私たちの来店時には他には年配のお客様だけで、店内はとても静かでした。メニュー表に主人の名前が印刷されていたので、記念にもらって帰りましたよ。


前菜は魚介類と野菜のエキスのスープ


ダルマ烏賊~春野菜ミネストローネ~


フォカッチャ


ずわい蟹~タリオリーニ・からすみ~


蝦夷鹿~ラガーネ~


鱸~ホンビノス・めかぶ~


金柑のソルベ


仔鴨~炙り焼き~


チョコレート~ビスケット・ペパーミントの精油~


モンテビアンコ~ほうじ茶・黒糖・ラベンダー~


ハーブティ


コメガネさんは仔鴨の炙り焼きが気に入ったそうです。
これはつけ合わせの舞茸も美味しかったです。あとは子供らしく、デザート類ですね。チョコレートアイスの上にかかっているフワフワは、凍らせたビスケットを削ったものだそうで舌触りが良かったです。
私はダルマ烏賊や鱸が見た目の彩りも綺麗で気に入りました。
こちらのお店はお皿も素敵でしたよ。お料理はかなりゆっくり目で運ばれてくるので、のんびりお食事したい人向けのお店ですね。使用している野菜は地元産にこだわっているそうです。
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私誕生日2019

2019-03-18 07:57:08 | 日記

本日は私の誕生日です。
先週末にホワイトデー&バースデーのお祝いをしてもらいましたよ。

今回のメニューは、ビーフシチュー。ミートパイ。トマトとほうれん草のココット。蒸し鶏とミックスビーンズのサラダ。苺とココアのスクエアケーキ。


ビーフシチュー。


ミートパイ。


トマトとほうれん草のココット。


蒸し鶏とミックスビーンズのサラダ。


みかんジュレは、夫が愛媛出張で買ってきたものです。
三種全部違うお味。


苺とココアのスクエアケーキ。


スクエアケーキのスポンジは、今年の雛祭りに焼いた苺のロールケーキと殆ど同じ材料と作り方です。
薄力粉85gのところを、薄力粉70g+純ココア15gに換えただけ。そして、巻かずに四等分にして重ねただけです。
ロールケーキの生地の方が、スポンジケーキよりしっとりきめ細やかに焼けるんですよね。


夫からのプレゼントはワンピース二着。
何故かほぼ同じ色に写っていますが、右のストライプは濃いグレーで、左の水玉は紺色とカーキのミックスです。
ストライプのワンピースは、ウエストをベルトでマークして、黒かグレーのジャケットと合わせようかと。
水玉のワンピースは、画像が小さくて分かり難いですが胸元に細かいタックが寄せてあります。袖がキャンディーの包み紙の様に絞ってあるのも可愛い。こちらは、長めのカーディガン+スヌードと合わせるつもり。


娘コメガネからは、ラビットファーつきのショールとお揃いのシュシュをプレゼントしてもらいました。春先の寒さ対策に重宝しそう。
シュシュは真ん中のファーの部分に小さなビジューが付いています。
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死神の友達

2019-03-14 07:44:03 | 日記
アラルコン著『死神の友達』には、ボルヘスによる序文と、「死神の友達」「背の高い女」の2編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の28巻目にあたる。私にとっては10冊目の“バベルの図書館の作品”である。

ボルヘスはスペイン文学について以下の様に述べている。

“スペインは、幾多の著名なロマン主義作家たちに霊感をあたえておきながら、自身は、ロマン主義運動を反映するものとしては、わずかばかりの貧しい遅咲きの作品しか生み出さなかった。その栄誉ある例外をなす作家としてはロサリア・デ・カストロがいて、彼女の高貴な表現は、こんにちなお人気が高いとはいえ文学的に型にはめられた方言ではなく、生まれ育った故郷の言葉にこそあるのだし、(略)グスタボ・アドルフォ・ベッケル、ホセ・デ・エスプロンセダ、そしてペドロ・アントニオ・アラルコンらもそうした作家である。”

落ちぶれ貴族の出身であるアラルコンは、1833年にグアディスに生まれた。
独学で文学を習得したアラルコンは、20歳にも満たない年齢で日刊紙「西方の風の便り」を創刊する。アフリカの戦争に志願兵として入隊した時の体験から書かれた『アフリカ戦争の一証人の日記』は、初版が5万部に達し、27年間も売れ続けた。54歳で文筆活動を停止するまでの間に、彼は代表作『三角帽子』をはじめ夥しい文学作品を生み出した。
本書には『嘘のような物語』から「死神の友達」「背の高い女」の2編が選ばれている。これらは、アラルコンがグアディスの山羊飼いから直接聞いた民間伝承をもとに描かれている。

確かにスペインには世界的に知られた作家が少ない。
私もスペイン人以外の作家によるスペインを舞台とした作品ならいくつか知っているが、スペイン人によるスペインの物語を読むのは恐らく今回が初めてだ。本書の二作のうち「死神の友達」は、いい意味で読者の予測を裏切る作品で、これが民間伝承をもとに書かれているとは、スペインとはなんと想像力溢れる国であることかと感嘆してしまう。

実のところ、第一部終了までは、「死神の友達」のことはハズレだと思っていた。
主人公ヒル・ヒルの両親についてとか、フェリーペ五世を取り巻く状況とかの説明が冗長で退屈だったのだ。それでも物語の進行上必要な説明なのだろうと思って読み進めていたら、ひと段落したところで、それらのエピソードはこの物語と関係が無いなどと言われて、いったい何なのかとストレスが溜まった。それと、翻訳に問題があるのか、原文からそうなのかは分からないが、文章の癖が強くて読み難かった。
ところが、この物語は残り頁数三分の一辺りから唐突に面白くなるのである。この超展開が民間伝承のままなのか、アラルコンによるものかは分からない。


貧しい靴職人の息子ヒル・ヒルは、14歳で父親を亡くしてから、亡母のお得意だったリオヌエーボ伯爵の下に従者として引き取られる。
伯爵の元で教育を受けたヒル・ヒルは、伯爵の根回しのおかげで、破産した由緒ある家の息子として宮廷に出入りするようになり、女王陛下の覚えもめでたかった。ヒル・ヒルが実はしがない靴職人の息子であることなど、誰も夢にも思わない。なので、モンテクラロ公爵の娘エレーナと恋に落ちた時も、反対する者はおらず、彼の前途はあらゆる意味で安泰と思われた。

ところが、それから三年後にリオヌエーボ伯爵が急死したことで、ヒル・ヒルの人生は暗転してしまう。
伯爵はあれほど目にかけていたヒル・ヒルに何も残さなかったのだ。ヒル・ヒルは彼を心から憎む伯爵夫人から、すぐさま出ていくように宣告される。ヒル・ヒルはその後の二年間を貧しい靴職人として耐え忍ぶが、現状の惨めさとエレーナと会えなくなった悲しみに耐えきれなくなり自殺を決行する。
ヒル・ヒルが靴屋の道具である濃硫酸の容器を口にした次の瞬間、不意に冷たい手が彼の肩に置かれ、甘く優しい声でこう言ったのだ。

“――やあ、友達!”

それは、ゆったりとした長い上衣を纏った33歳くらいの、背の高い、青白い美しい顔をした人物で、長い髪をしているが、女性には見えなかった。かといって、男性とも思えなかった。それは性を持たない人間、魂のない肉体、というか寿命のある肉体を持たない魂みたいだった。つまりは死神なのである。
死神の言うことには、ヒル・ヒルは肉体が灰に変わらないうちに死神が近づくことのできた最初の人間で、たった一人の死神の友達なのだ。死神は、ヒル・ヒルに自分の言うことを聞いて幸福と永遠の救いを得られる道を学ぶよう勧めてくる。
幸福と永遠の救い――ヒル・ヒルにとってそれはエレーナのことだった。
死神は、ヒル・ヒルに力を与えると同時に、ヒル・ヒルが実はリオヌエーボ伯爵と亡母との間に出来た不義の子で、伯爵は死ぬ前にちゃんとヒル・ヒルに財産を残していたこと、しかし、遺言書がヒル・ヒルを憎む伯爵夫人に隠されてしまったことを教える。

ヒル・ヒルは、死神の力で、医者として元スペイン国王フェリーペ五世の元に出入りできるようになった。
そして、死神と関係を持ったことに何のためらいも感じないまま、フェリーペ五世がフランス国王の王冠を授かることが出来るよう、死神にルイス一世の魂を連れて行かせた。それと前後して、伯爵夫人を死に至らしめ、彼女が息を引き取る直前に、伯爵がヒル・ヒルのために残していた遺言書の在処を告白させ、更にはエレーナの婚約者である伯爵夫人の甥も死亡させた。

伯爵夫人の言った場所で見つけた遺言書やそのほかの書類のおかげで、ヒル・ヒルは伯爵の息子として認知され、晴れてエレーナとの結婚が認められる。
とはいっても、ヒル・ヒルはまだ幸せではなかった。
死神が花婿の付添人を務めようと申し出ていたからである。もう二度と死神とは会いたくない。恩知らずだろうが、死神との関係を絶つ必要がある。ヒル・ヒルは、一心に考えた結果、死神に連れて行かれる可能性のある生きた人間、つまりは自分とエレーナ以外の人間がいない土地に逃げれば良いのではないかと思いつく。この考えが気に入ったヒル・ヒルはさっそく次の日に、グアダラーマ山脈の麓の美しい別荘で、新婚生活を開始したのだった。

ここまでが第一章である。
ここまでは、個人的には、世話好きな死神という設定が面白かったくらいで、他は特に見るべきところがなかった。“バベルの図書館”全巻読了という目標がなかったら、途中で放り出していたところである。
しかし、この物語はこの先から劇的に面白くなるのだ。作中でも、“しかし、この物語が本当に面白くなり、明白になり出すのは実はここからなのである”と述べられている。
昼ドラにちょっとホラー要素をまぶしたような陳腐な作風から一転して、SFと聖書の世界が融合した壮大な世界が広がるのである。何というギャップであろうか。本当にこれが200年近く前に書かれた物語なのだろうか。今読んでも斬新である。

ヒル・ヒルの目論見は失敗し、あっさり死神に捉えられる。計画の段階からちょっと何を言っているのか分からない感じだったから当然の結果だ。
ヒル・ヒルは、愛するエレーナを残して死神と共に時間旅行をすることになる。別荘から連れ出されたヒル・ヒルは、人骨で作られた車に乗せられる。車は宙を浮き、北東へ向かい、三時間で地球を一周する。ヒル・ヒルは、死神の解説を聞きながら地上の様々な国、都市、集落を見ていく。

“それぞれ生きている市や、町や、村の傍らには、ちょうど影がいつも肉体の傍らに寄り添うように、かならず死んだ市や、町や、村がある。(略)にもかかわらず君たちは量を、つまり人口の数を間違えるだろう。つまりだ、生きている市よりも死んだ市のほうに、はるかに多くの人が住んでいるということを。生きている市にはせいぜい三世代の人がいるだけだが、死んだ市のほうには、時によると数百世代の人が積み重なっているからね。”

北海に入る前に、太陽が見たいと言い出したヒル・ヒルのために、死神は少し後戻りをすることにする。
そのため、ヒル・ヒルは逆行する時間という、とても興味深い光景を見ることになった。彼等の車は、地球がその軸を中心にして回るよりも、もっと早い速度で飛び続けていた。彼等は太陽の後を、太陽よりもずっと早い速度で追いかけているので、日没が夜明けの、西の夜明けの役をしているのだった。

エルサレムについた時は真夜中だった。
ゲッセマネ、ゴルゴダ。死神は、そこで生涯の重大な時を過ごしたことに思いを馳せる。キリストは蘇っていたのだ。死神は少し考えこんでから、彼の家のある北極に向かって車を飛ばす。そこでヒル・ヒルに告げなければならないことがあるのだ。

久遠の氷の地で、ヒル・ヒルは驚愕の事実を知らされる。
濃硫酸を口にした時、つまり死神に出会った時、なんと彼は自殺に成功していたのだ。しかもそれは600年も前のこと。18世紀はとうに過ぎ今年は2316年なのだった。エレーナはヒル・ヒルの不幸な最期を知って、悲しみのあまり死んでしまった。それからもう6世紀になる。死神との出会い、フェリーペ五世を訪ねたこと、ルイス一世の宮廷での様々な情景、エレーナとの結婚、そうしたことはみんな、ヒル・ヒルが墓の中で見た夢だったのだ。
そうして、明日は最後の裁判の日なのである。


最終章で、地球は榴弾みたいに破裂するのだが、死神との旅行からそこに至るまでの過程でヒル・ヒルが見聞したものの一つ一つが実に独創的で、こんなものが民間伝承を典拠に描かれるとは、しかもこれを書いた時のアラルコンの年齢が二十歳そこそこだったとは、と恐れ入ることしきりであった。特に逆向きの時間の中で見る太陽のシーンは、ため息が出るほど優美で神々しい。
前半のちまちました感じと後半の壮大なスケールとのギャップが激しいのだが、それも計算のうちだろうか。
私は大変な飽き性なので、20~30頁読んで気が乗らなかった本はその時点で諦めてしまうのだが、本作は踏み止まって良かったと心から思う。
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