青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

謎の蔵書票

2019-11-28 07:40:48 | 日記
ロス・キング著『謎の蔵書票』は、1660年のロンドンと1620年のプラハをつなぐ一冊の稀覯本を巡る歴史ミステリー。衒学趣味の書店主が、書籍に関する蘊蓄を披露しながら、ヨーロッパ史上の二つの大きな動乱の間に横たわる陰謀を解き明かしていく。

1660年は、イギリスにおいて清教徒革命が終わった年だ。
1558年9月に革命の指導者クロムウェルが病没すると、三男のリチャードが次の護国卿となった。しかし、軍からの信頼を得ることが出来なかったリチャードは、わずか7ヶ月で退任に追い込まれた。その後も軍と議会との折り合いがつかず、国内は無政府状態となった。
1660年5月、革命で処刑されたチャールズ一世の遺児で、オランダに亡命していたチャールズ二世が、帰国して王位に就く。王政復古である。革命によって没収された家財は持ち主に返還され、亡命していた貴族たちは次々と帰国した。しかし、世は速やかには治まらなかった。革命派と王党派の対立は依然として続いていたのである。

1620年は、ボヘミア(ベーメン)においてプロテスタントがカトリックに敗れた年だ。
ボヘミアの貴族はハプスブルク家のプロテスタント弾圧に反発して、1618年に神聖ローマ皇帝代官マルティニツとスラヴァタをプラハ王宮の窓から突き落とした。これが世にいう三十年戦争の始まりである。
1619年には、カルビン教徒のフリードリヒ五世がボヘミア国王に即位した。カトリック側は軍事的報復に出ると、フリードリヒ五世の軍を撃破し、ボヘミアをハプスブルク家の属領にした。プラハを追われた宮廷の人々は、ルドルフ二世が遺した財宝や書物を国外へ持ち出した。

物語は、1660年のロンドンから始まる。
ロンドン橋の一画で、アイザック・インチボルドは18年ほど前から書肆《無頼堂》を営んできた。もっとも、《無頼堂》自体が開業したのは、それより40年も前のことである。インチボルドは14歳でそこに見習い奉公に入った。先代の黒死病による卒去後、インチボルドは《無頼堂》の主となり、爾来、書棚に囲まれて暮らしてきた。近視で、喘息もちで、内反足のため足の運びもぎこちないので、外歩きは得意ではない。週に一度、妻子の墓所に花を手向けるのだけが、唯一の外出らしい外出と言ってもいい。再婚は考えていない。おおよそ危険や冒険とは無縁の人生を送ってきた男である。

件の出来事は、チャールズ二世が帰国し、11年前から空位になっていた王座に就いた直後に起きた。
インチボルドは、アレシアと名乗る見ず知らずの貴婦人から手紙で呼び出される。
料金未納の書簡からは差出人の窮乏が窺われ、インチボルドは興味を失くす。没落した名家からの蔵書売却依頼と踏んだのだ。クロムウェルの治世に没落した王党派は多く、投げ売りされる家産につける価値は下落している。そして、アレシアの館があるドーセットシャーはロンドンからかなり遠い。
しかし、“詳細を此処で申し述べるわけにはいきません”といういわくありげな一文と、書簡の封印に誰かが細工をした痕跡があるのが気になったインチボルドは、これまで故意に避けてきた外の世界に踏み出すことにした。

アレシアの住むポンティフェクス館は、彼女と夫が亡命中に、クロムウェルの軍隊と近隣の村人たちによって滅茶苦茶に荒らされていた。
アレシアは亡命先で夫を喪い、一人で帰国した。彼女は館をもとの姿に戻したいが、それが叶わないのなら、せめて亡父アンブローズ卿の蔵書票が貼り付けられた12冊の稀覯本だけは取り戻したいと願った。幸いなことに書籍は11冊までは見つかった。問題は最後の一冊だ。その捜索を依頼したくて、インチボルドに手紙を書いたのだ。

その本のタイトルは、『迷宮としての世界』。
蔵書家として名高かったアンブローズ卿が、1620年代のプラハで、帝国図書館のために買い付けた書籍の中の一冊だった。
ここで、ヘルメス文書についての長い説明が始まる。
200年ばかり前に、コジモ・デ・メディチの命で、聖マルコ修道院の修道士たちがフィレンツェに持ち帰った数多の写本。それらの中でもっともの重要なのが、マケドニアから持ち帰られた14巻のヘルメス文書だ。その14巻に後から発見された3巻を加えた17巻のヘルメス文書の価値は、メディチ図書館のすべての蔵書を合わせたものに相当するという。どうやら、アンブローズ卿はヘルメス文書全巻を所持していたらしい。問題の『迷宮としての世界』は、そのヘルメス文書の幻の18巻目にあたるという。

インチボルドはポンティフェクス館を調査中、実験室の作業台の上に二冊の書物を見つける。
一冊目は、アブラハム・オリテリウスの『世界の舞薹』という地図帳。“書かれた文字は残る。”という銘句のある蔵書票が貼り付けられている。オルテリウスは、スペイン国王フェリペ二世のお抱えの地理学者だった。
二冊目は、ガリレオの『世界の二体系対話』。イエズス会の司祭がルターとカルビンを合わせた以上に有害であると指弾する、当節もっとも重要かつ論争的な哲学書だ。
二冊ともおよそ実験室には似つかわしくない書物である。どうして、そんな書物が作業台の上に載せられているのか。そして、オルテリウスとガリレオ、地図製作者と天文学者の間には、いかなる繋がりがあるのか。
インチボルドは『世界の舞薹』の中に、意味不明な文字の羅列が記されている頁が綴じ込まれているのを発見する。この謎めいた文字は、もしかしたら何らかの暗号かもしれない。としたら、そこにアンブローズ卿の失われた絵画や工芸品の隠し場所を知る手掛かりが隠されている可能性もある。インチボルドはその頁を丁寧に切り取り、密かに持ち帰った。

インチボルドは《無頼堂》の蔵書を参考にしながら暗号の解読を試みる。
しかし、《無頼堂》は、二度に亘ってスペイン人らしきの三人組の襲撃を受けてしまう。彼らは誰の手の者なのか?
インチボルドが一冊の稀覯本の捜索から歴史の暗部に触れてしまったことで、《無頼堂》での生活はもはや安全なものではなくなってしまったのだった。


1660年のロンドンと1620年のプラハ。
アンブローズ・プレシントン卿と『迷宮としての世界』をめぐる謎は、40年の歳月と650マイルの距離を跨いでいる。その両方の世界に、それぞれ書籍のスペシャリストの男性と読書家の女性のコンビが存在する。
前者は、《無頼堂》店主のアイザック・インチボルドとポンティフェクス館の貴婦人アレシア・グレイトレクス。
後者は、ルドルフ二世の財宝と書籍を保管するスペイン館の司書長ビレイム・イラーチェクとフリードリヒ五世の妃エリザベスの侍女エミリア・モリニュークスだ。

インチボルドは調査を進めていくうちに、書籍商サミュエル・ヒクバンスが主催する〈黄金の角〉亭での競売会を知り、そこから更に、危険な香りのする書籍仲買人ヘンリー・モンボドウの存在に行きつく。アンブローズ卿の謎と『迷宮としての世界』の在処を解き明かすのには、このモンドボウを追跡する必要があるようだ。
40数年の人生を、ロンドンの城門より20リーグ以上先へ足を延ばしたことが一度も無かったインチボルドが、書籍への偏愛と知識欲、それから無意識のうちに彼の心に根を下ろしていたアレシアへの慕情に突き動かされて、壮大な冒険へと突き進んでいく。

二組の男女の周囲に見え隠れする大小様々な謎と、多岐の分野に渡る膨大な書籍の知識。それから、歴史上の大きな事件の爪痕が、この物語の筋を複雑なものにしている。
錬金術、暗号、地下室、迷路、薔薇十字団、ルドルフ二世、自動人形、ヘルメス文書、木星の月の蝕、ガリレオ、オルテリウス、メルカトルの図法、航海術、巨大帆船サクラ・ファミリア号、コペルニクス…これらのワードが、百科全書的なペダントリーを紡ぎだして読者を幻惑する。ミステリーとしてのオチはそう難解なものではなかったが、書籍と歴史に関する情報量が多過ぎて、どこに視点を定めればよいのか分からなかった。
時代の大きなうねりの中で、数多くの人物が登場しては消えていく。彼らの足跡を辿ってインチボルドは命がけの冒険を繰り広げる。だが、不思議と躍動感が感じられない。それは、インチボルドの目が未来を見ていないからだろうか。40年前の謎の発端に関わった人々は殆どが故人で、アレシアの存在でさえ、物語の冒頭から失われることが仄めかされている。

アレシアは、彼女の住むポンティフェクス館そのものの人物だ。
クロムウェルの軍隊に占拠され、目ぼしい家財を略奪された館。中でも図書室の惨状については、詳細に描写されている。室内には湿っぽい悪臭が立ち込め、床には所狭しと、航海術、農事、建築、医薬、園芸、神学、教育論、自然哲学、天文学、占星術、数学、幾何学、秘記法、詩、演劇、小説など、雑多なジャンルの書冊が、貴重な本も無価値な本も雑然と積み上げられている。それらの書籍は、水に浸かったらしく紙が波打ったり、虫に喰われ紙の繊維が糸くずと粉状になったりしている。王政が復古しようが、一度失われたものは元の姿を取り戻すことはない。混沌と荒廃と謎に満ちたこの図書室は、アレシアの心象風景のようだ。

内向的な主人公が勇気を出して外の世界に踏み出したところで、何かが開けることはなかった。寧ろ、壊され、失われていくばかりだった。インチボルドの冒険はかなりの広範囲にわたったというのに、終わってみれば、図書室と地下室の暗く閉塞的な印象ばかりが残っていた。
幻の稀覯本も二組の男女の間にあったはずの情も、全ては太平洋の失われた島同様、遠く虚ろなものになってしまった。やがては儚い名残さえ消え、夢の中ですら思い出せなくなってしまうのだろう。
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ワンニャン鼻キス

2019-11-25 07:42:56 | 日記

凜と蓬がお鼻でチュー。


お耳にもチュー。蓬は凜が大好きです。


桜ちゃんと柏ちゃん。何を見ているのかな?


蓬も参加。


猫ちゃん達が癒着し過ぎていてなんだかよく分からなくなっていますが、アップにするとこんな感じです。柏の顔が蓬の背肉に埋もれているような。


桜と凜が並んで寝ていたので毛布を掛けてあげました。桜の腕がマッチョぽい。


桜、何か考え込んでいます?


三色お尻の詰め合わせ。


遠くから見るとこんな感じです。
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ガラン版『千夜一夜物語』

2019-11-21 07:52:49 | 日記
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の24巻目にあたる。私にとっては最後の“バベルの図書館”の作品だ。

パピーニの『逃げてゆく鏡』から始めた “バベルの図書館”シリーズの読書感想もこの巻でとうとうお仕舞いだ。一年近く付き合ってきたシリーズなので名残惜しさも一入である。
同じ『千一夜』でも、先に読んだバートン版に比べると、教訓色が強いと言われるガラン版であるが、少なくとも本書に選ばれた「盲人ババ・アブダラの物語」と「アラジンの奇跡のランプ」の二編は、読む前に警戒していたような堅苦しい話ではなかった。

「アラジンの奇跡のランプ」は、童話やアニメなどで誰もが一度は触れたことのある『千一夜』の定番中の定番の作品である。が、なんと本作は原典には無いガランの創作なのだそうだ。本作をもってボルヘスは、“ガランは物語作者の大王朝の最後の生き残りということになるのかもしれない”と評している。

ボルヘスは、“(量の概念と質の概念は対立するものと考えられてきたが)ある種の書物の場合、長大であることがすなわち質に、それも本質的な質に転嫁することだってあるのだ”と述べ、そのような作品の一つに『千一夜』を挙げている。
『千一夜』は、王たちの栄耀栄華、女王や姫君たちの美貌、どんな願いも叶えてくれる万能の魔神、豪華絢爛な財宝などの記述を繰り返し繰り返し、それも繰り返すたびに過剰な装飾をもって表現することで筋立てを練り上げ、没個性的で長大な物語を構築している。物語の核はインドに端を発し、ペルシア→アラビア→エジプトへと伝播していくにつれて加速度的に増殖していったと考えられる。その無数の物語群の一端に、ガランは自身が創作した「アラジンの奇跡のランプ」をはめ込んだのだ。

上で、思ったより堅苦しい話ではなかったと述べたが、やはり、バートン版に比べると、ガラン版は教訓めいた節回しが多い。
「アラジンの奇跡のランプ」は、奇跡のランプに関する物語を終えるにあたり、シエラザードが登場人物たちの行動とそれが引き起こした結末について分別臭い口調で総括する。が、シエラザードの纏めのつまらなさからは推し量れないほど、この物語は度量が大きく生き生きとしているのだ。何でこんな面白い物語を語れる人物が、最後に湿気た説教節をつけ足してしまうのかちょっとよく分からない。
この最後の部分を除けば、「アラジンの奇跡のランプ」は、日本人の常識では不謹慎と思えるほど欲望に忠実な若者のトントン拍子な栄達の物語だ。夢と冒険の明るい部分が強調されたこの物語が子供たちに喜ばれるのはよく分かる(バートン版は子供に読ませられるような話ではないし)。しかし、私が子供の頃に読んだ魔法のランプの物語の主人公は、もう少しまともな若者だったような記憶があるのだが…。


中国のとある王国に、アラジンという、貧しい仕立て屋の一人息子がいた。
これが孝行の心を欠片も持ち合わせていない怠け者で、聞き分けも無ければ勤労意欲も無く、同じ年頃の若者がとうに職に就いているというのに、朝から晩まで遊び暮らしているのだった。父親は何とかしてアラジンに針仕事を仕込もうと努力をしたが、アラジンの態度は一向に改まらない。父親は心労が元で病気に罹り、そのまま息子の将来を悲観しながら亡くなってしまった。煩い父親がいなくなると、アラジンは母親のことを気にかけようとせず、すっかり遊惰な生活に入ってしまうのだった。

ある日、アラジンが広場で遊んでいると、アフリカから来たという魔術師が話しかけてきた。
この魔術師はアラジンの亡父の弟で、遠路遥々生き別れの兄に会いに来たのだと言う。兄の死を知って嘆き悲しんだ魔術師は、兄に代わって甥のアラジンを立派な商人にすると誓い、アラジンに金貨や美しい着物を与え、商人たちの集まりに連れて行き、商売を学ばせたり、顔を売らせたりした。アラジンは親切な魔術師に心酔する。最初のうちは訝しんでいた母親も、次第に夫の弟というこの男を信用するようになる。

アラジン母子の信頼を得た魔術師は、アラジンを町からはるか遠くまで連れ出す。
とある狭い谷に就くと、魔術師は態度を豹変させ、アラジンを暴力で脅しつけ奇妙な命令をするのだった。
実は、魔術師はアラジンの叔父でも何でも無かった。
魔術師は地下に封印されている魔法のランプを手に入れるために、アラジンを利用したのだ。魔術師はランプを手に入れたらアラジンを殺してしまうつもりで、彼にランプを手に入れるのに必要な魔法の指輪を貸し、地下に向かわせた。しかし、魔術師が思ったよりは愚かでなかったアラジンは、地下から引き揚げてもらうまではランプを渡さないと言う。誰かに言い争いを聞きつけられるのを恐れた魔術師は、アラジンの降りた入り口を封印すると、そのままアフリカに帰ってしまう。地下に残されたアラジンは、このままここで息絶えるのかと絶望する。

しかし、天はアラジンを見捨ててはいなかった。
魔術師がアラジンに貸したまま忘れていた指輪が、アラジンが天に向かって手を合わせたことでその力を発動する。魔法の力を知らないまま、アラジンが偶然指輪を擦ったことで、指輪の魔神が出現したのだ。


この後、指輪の魔神とランプの魔神の力によって望むままに富を得たアラジンは、絶世の美女バドルールブードール姫の夫の地位まで手に入れる。この間、アラジン自身は魔神に命令するだけで、特に何もしていない。姫君と結婚したいというサルタンへの嘆願でさえ、魔神が出した財宝を母親に持たせて行かせているのである。日本人的常識にとらわれている私は、魔神が恩義もないアラジンの願いを何でも叶えてあげるのに読んでいて不安になった。通常、この手の物語は、何か制約があるものではないか?例えば、お願いは三回までとか、強欲が過ぎると罰を受けるとか…。アラジンがそのうちしっぺ返しを食らうのではないかと冷や冷やし通しだったが、この物語ではそんなことは最後まで起こらなかった。

アラジンは終始一貫、自分の欲望の実現のためだけに魔神の力を利用している。
地下からの脱出から始まって、日々の生活費まで魔神に頼りきり。さらには姫君を手に入れるために、莫大な財宝や美しい奴隷たちを次々に出させ、宮殿まで建てさせてしまうのである。これで良いのかと疑問に思うが、これで良いらしい。ガラン自身の志向というより、『千一夜』の常識に合わせているように感じる。労せずして恋愛や栄耀栄華を掴むのが良いことというのがアラブ人の価値観なのだろうか。

シエラザードの言うことには、アフリカの魔術師は不正なやり方で財宝を所有したいという異常な欲望に身を任せたために、それを享受できなかった。が、アラジンは同じ財宝を自ら求めることなく、ただ定めた目的を達成するために必要に応じて用いたので出世することが出来た、ということだそうだ。……どっちも我欲という点は同じではないのか?
ちょっとピンとこないのだが、魔術師はランプを手に入れるためにアラジンを騙したのが悪いけど、アラジンは必要な時にしか魔神に頼っていないから悪くないということだろうか?でも、アラジンも、先に姫君と結婚していた宰相の息子を、魔神の力で酷い目に合わせて宮廷から追い出しているのだけど、それは良いの?
日本昔話だと、舌切り雀の婆さんなんか、ちょっと欲をかいただけで酷い目にあっているのに、スケールが違い過ぎて首を捻ってしまう。だが、恋や富を素直に求める大らかでハッピーな雰囲気は悪くないと思った。
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バートン版『千夜一夜物語』

2019-11-18 07:41:36 | 日記
バートン版『千夜一夜物語』は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の15巻目にあたる。私にとっては29冊目の“バベルの図書館”の作品である。

“バベルの図書館”全巻読破チャレンジを始めて早くも11ヶ月が経った。
残りはガラン版『千夜一夜物語』のみだ。飽きっぽい私がここまで続けて来られたのも、すべてはボルヘスのおかげである。本当はもっと早く読み終わる予定だったのだけど、目の痛みが酷くて長時間の読書に耐えられなくなってしまいまして。人生の喜びの何割かを失ってしまった気がする。

最初に、パピーニ『逃げてゆく鏡』を読んだ時から、『千夜一夜物語』でこのシリーズを締めるつもりだった。ガラン版とバートン版、どちらを最後にしても良かった。だが、ガラン版は教訓めいた話が多く、バートン版は官能的な話が多いとの書評を読んだので、先にバートン版を読むことにしたのだ(好きな物から先に食べる派)。同じ千一夜でも翻訳者によってテイストが変わるのが面白い。

『千夜一夜物語』は、原語では「キタープ・アルフ・ライラ・ワ・ライラ」というのだそうだ。「アルフ・ライラ」が「千の夜」で、「ワ・ライラ」が「一つの夜」である。呪文のようにエキゾチックな響きだ。

リチャード・フランシス・バートン大尉は、イギリスを代表する冒険家だ。ほかに言語学者、作家、詩人、軍人など様々な顔を持つエネルギッシュな教養人である。
バートンは、十七ヶ国語で夢を見、三十五ヶ国語を操ることが出来たという。顔にはアフリカで負った大きな傷痕があり、アフガンに身を包んでアラビアの諸所の聖都に巡礼したり、回教僧に身を窶して現地の病人に医術を施したりたりしながら、回教徒の習俗の知識を貯めていった。回教はバイロンと並んで彼の尊敬するものだった。バートンの命知らずな冒険については序文で軽く触れられているが、それ自体が一つの心沸き立つ物語のようである。彼を崇拝する者が多くいたのも不思議ではない。

ところで、『千夜一夜物語』の原典は、決まり文句しか出てこない「乾いた、職業的」な文体なのだそうだ。
そのまま翻訳したらあまりにも単調なこの十三世紀回教徒の伝承説話を、原典の脅威的発想力を損なわずに、十九世紀の英国紳士を楽しませる物語に仕立て直すのにはどうすれば良いのか。バートンがこの問題を解決するのには、冒険家としての、言語学者としての、詩人としての、彼の持つ様々な知識と経験が必要であった。
バートンは、直訳すると「……と言った」ばかりになる原文を、「……と尋ねた」、「……と乞うた」、「……と答えた」といった複数の語に置き換えている。さらには、古語と隠語、特殊な階層・職業の者の通語を共存させている。新語や外来語は枚挙にいとまがない。物語の要所要所で読者に対して勿体ぶった語り掛けをしたり、登場人物に原典には存在しない修飾を加えたり。所謂超訳というものになるのだろうか。それが翻訳者として誠実な仕事なのかどうかはわからないが、少なくともエドワード・レインの正確な「散文訳」よりは、物語として魅力的に仕上がっているのではないか。

バートン版の『千夜一夜物語』は、「真にまじめな流布本としてこれに勝るものはない」レイン版に欠けている要素――つまりエロスの方面にかけて驚くほど有能であった。この辺は、本人の実体験も効いているのだろう。無論、そればかりではない。
“懲役の判決と、体刑および罰金刑の擁護。パンに対する回教徒の尊敬の礼。バルキス女王(シバの女王のアラビア名)の毛深い脚に関する伝説。死を表現する四つの色の名称。忘恩の東洋的理論と実践。天使は糟栗毛を、魔神は鹿毛を好むという情報。知られざる「全能のかなう夜」、すなわち夜々のなかの夜の神話の要約。アンドルー・ラングの皮相さの非難。民主政体に対する酷評。地上、火中、楽園におけるマホメットの呼称の総目録。長寿で長身のアマレキ人への言及。男は臍から膝まで、女は頭から足までという、回教徒の恥部に関する知識。アルゼンチンのガウチョの焼き肉に関する考察。乗られるほうも人間である場合の「馬術」のむつかしさへの言及。マント狒々を人間の女とかけあわせて品種を改良し、善良なプロレタリアという下級人種を派生させようという遠大な計画”等など、下世話だったり、皮肉だったり、ユーモラスだったり、人間の好奇心を掻き立てる様々な刺激物が詰め込まれているのである。


ボルヘスがバートン版『千夜一夜物語』から選んだのは、「ユダヤ人の医者の物語」と「蛇の女王」の二篇だ。

『千夜一夜物語』は、枠物語という入れ子構造の物語形式である。
基本の物語、つまり一番外側の枠にあたる物語は、ササン朝ペルシャのシャフリヤール王が、彼の留守中に不貞を働いた妻と彼女の愛人たちの首を刎ねたところから始まる。
それからというもの、シャフリヤール王は、臥所に一夜限りの処女を迎えては、翌朝に首を刎ねることにした。やがて宮中に処女が居なくなったので、シャフリヤール王は大臣に処女を探してくるように命じた。
大臣が苦悩していると、娘のシャハラザードが、自分が王の相手をすると申し出た。シャハラザードは、夜ごとシャフリヤール王に物語を聞かせた。そして、王が興味津々になったところで話を打ち切った。シャフリヤール王は、翌日も続きを聞かせて欲しくてシャハラザードを生かし続けた、というもの。

「ユダヤ人の医者の物語」と「蛇の女王」は、シャハラザードがシャフリヤール王に語った膨大な物語の中の一部である。どちらとも色恋の匂いが強い物語なので、寝物語には最適と言えよう。

特に、「蛇の女王」は、まず、ハシブの物語があり、その中に、蛇の女王の物語があり、さらにその中に、プルキヤの物語とヤンシャーの物語があるという、開けても開けても新しい物語が出てくる凝った入れ子構造になっている。最後にきちんとハシブの物語に戻っているのもすごい。毎晩こんな面白い物語を聞かされたら処女を殺している場合じゃなくなるわ、と納得する。暴君の悪癖を改めさせるには、同情を引こうとしたり良心に訴えかけたりするより、もっと面白いことに気をそらさせる方が有効なのだろう。
冒険、魔法、変身、美女、性愛、財宝、飽食、戦闘。人間のあらゆる欲を刺激するエキゾチックで艶めいた物語たち。
男性の登場人物たちはイマイチぱっとしないけど、胴体は大蛇で顔は人間の美女の姿をした水晶のように輝く蛇の女王とか、羽根を脱ぎ捨てると乙女の姿になり裸体で水遊びに興じる鳩の三姉妹とか、人外の美女たちの描写は大変に蠱惑的だった。
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聊斎志異

2019-11-14 07:33:08 | 日記
蒲松齢著『聊斎志異』には、ボルヘスによる序文と、蒲松齢の『聊斎志異』から選ばれた「考城隍(氏神試験)」「長清僧(老僧再生)」「席方平(孝子入冥)」「単道士(幻術道士)」「郭秀才(魔術街道)」「龍飛相公(暗黒地獄)」「銭流(金貨迅流)」「褚遂良(狐仙女房)」「苗生(虎妖宴遊)」「趙城虎(猛虎贖罪)」「夢狼(狼虎夢占)」「向杲(人虎報仇)」「画皮(人皮女装)」「陸判(生首交換)」の14編が収録されている。()内は訳題。なぜ四文字熟語風に統一したのかはわからない。
本作にはほかに、曹雪芹の『紅楼夢』から選ばれた「夢のなかのドッペルゲンゲル」「鏡のなかの雲雨」の2編も収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の10巻目にあたる。私にとっては28冊目の“バベルの図書館”の作品である。

“バベルの図書館”を全巻読破しようと思い立った時に、『千夜一夜物語 -ガラン版』と『千夜一夜物語 -バートン版』を最後にもっていき、その一つ前に『聊斎志異』を読もうと決めていた。何故なら、『聊斎志異』の大量の掌編からなる構成が『千夜一夜物語』を彷彿させたので。ボルヘスによると、“中国で『聊斎志異』が占める位置は西洋で『千夜一夜』の書が占める位置に匹敵する”のだそうだ。

“一国を表すのに、その国民の想像力ほど特徴的なものはない。小冊ながら本書は、この地上でもっとも古い文化の一つであると同時に、幻想小説へのもっとも異例な接近の一つを垣間見せてくれるのである。”

中国文学といえば、日本人なら『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』などを思い浮かべる人が多いと思う。
本書に収められている作品では、『紅楼夢』は、上にあげた三書に準ずるくらい有名だが(『金瓶梅』くらい?)、『聊斎志異』を読んだことがある、あるいはタイトルは聞いたことがあるという人は、それなりに中国文学を知っている人に限られるのではないか。
このように、日本ではあまり知られていない『聊斎志異』だが、中国では刊行直後から流行を見せ(低級との批判を受けつつも)、多くの模倣者を生んだという。

『聊斎志異』は約500編の短編から構成される大作で、本書の中にはそのうちの14編しか収録されていない。それ故、ボルヘスも小冊と謙遜しているのだろう。14編のうち虎にまつわる話を4遍も選んでいるのがボルヘスらしい。

膨大なテキストで構成されているため、なかなか手を出し辛い作品だが、本書に収められているのは、そのうちの僅か14編なので数時間で読み終えた。
簡潔な文章で、一話ごとの登場人物が少なく、事前に抑えておかなければならない予備知識も特にない。新聞小説くらいの気軽さで読める。『西遊記』『水滸伝』『三国志演義』に比べると、はるかにとっつき易い。

ボルヘスは、“エドガー・アラン・ポーやホフマンとは違い、蒲松齢は自分が語る怪異に驚いてはいない。”と言う。“迷信深い性格を賦与された中国の人たちが、ともすればこれらの物語をあたかも現実のことであるかのように読みがちであった”とも言っている。
本書に収録された14編の中で、何度も「冥界と陽界は変わらない」という表現が出てくる。蒲松齢の描く冥界は、現世そのままの汚職役人の世界だ。それが、諧謔と諷刺と、逞しい想像力を織り込んだ、簡素で非個人的な報告的口調で綴られる。
賄賂で動く地獄の法官、試験勉強に苦しむ書生、老婆の元へ償いに通う虎、美女の皮を被って男を騙す鬼……幻想と現実とがシームレスに淡々と語られる物語群が面白くない訳がない。一話につき数ページという短さで、次々に新しい物語が現れるので、疲れを感じる間もなく読み耽ってしまえるのだ。素晴らしい庶民文学である。

蒲松齢は、進士の試験を何度も落第した秀才とは言い難い人物だった。妾の子であったため、生家での地位は低かった。生涯貧しさから抜け出すことはなかった。『聊斎志異』が刊行されたのは、彼の死後約半世紀も経ってからのことだった。
『聊斎志異』の親しみやすさや、簡素な文体ながらも豊かな視点などは、彼の不運な生涯に起因しているのかなと思ったりもした。

個人的には、「席方平(孝子入冥)」「単道士(幻術道士)」「郭秀才(魔術街道)」「趙城虎(猛虎贖罪)」「画皮(人皮女装)」あたりが特に面白かった。

「席方平(孝子入冥)」は、地獄で亡父が鬼卒達から不当な拷問を受けていることを知った孝行息子の席生が、地獄に赴き不正を訴える話だ。

鬼卒達は、席生の父と仲の悪かった羊某から賄賂を受け取っていたのだ。
地獄は席生が思っていた以上に腐敗した官僚社会だった。なんと城隍、郡司、冥王までもが賄賂を受け取っていて、席生は訴えを退けられた挙句、嘘の申し立てをしたとして苛烈な拷問を加えられてしまう。しかし、最後には冥王達より高位の玉帝によって、席親子は救われ、冥王達は懲らしめられるのである。


「単道士(幻術道士)」は、自由自在に姿を消すことの出来る道士の話。

単道士は、韓家の御曹司から法を伝授して欲しいと請われるが、悪用されるのを心配して断る。
腹を立てた御曹司は、下僕たちと図り、単道士を脱穀場に閉じ込め、打ち据えようとする。しかし、単道士は壁に城門の絵を描くと、それを押し開いて逃げてしまった。
私の年代だと道士と聞くとキョンシーを思い浮かべてしまうが、道家の幻術使いは、道教文化の中国では、日本の陰陽師並みに親しまれている存在なのかもしれない。ドラえもんの道具みたいな方法で空間移動出来るのが面白かった。


「郭秀才(魔術街道)」は、道に迷った若者が、魔物たちの酒宴に参加する話。

郭は友人宅から帰る途中、山中で迷ってしまう。
山の上からの笑い声につられて、急ぎ行ってみると、そこでは10人余りの者たちが酒盛りをしていた。道を尋ねた郭は、そんなことよりと盃を渡される。
冗談好きな郭が特技の鳥の鳴き真似をして見せると、それをたいそう気に入った一同から、お返しに肩乗りの術を披露される。一人が直立すると、もう一人がその肩の上に乗って直立する。これを10人余りの人物が続け、バタンと倒れると一条の道ができた。彼らと、「中秋の夜、またここで会おう」と約束した郭は、道に沿って家に辿り着くことが出来た。
しかし、中秋になったので、彼らに会いに行こうとしたら、友人たちに止められてしまった。
郭は約束を破った事を悔やむが、会いに行ったら彼らの仲間にされていたかもしれない。でも、冗談好きの郭ならそれも楽しめたかも?


「趙城虎(猛虎贖罪)」は、一人息子を虎に食い殺された老婆と、その虎の物語。

一人きりの倅を虎に食い殺された老婆が、知事に訴える。泣きわめく老婆に手を焼いた知事は、下端役人の李能に虎の捕縛を命じる。
杖刑を恐れた李能はしぶしぶ虎の捕縛に向かうが、案外物分かりのいい虎は、李能の説得に応じ、倅に代わり、身寄りの無くなった老婆の孝行に励み始める。
はじめは、虎を殺し倅の償いをさせるべきだと知事を恨んでいた老婆も、虎の孝養に感謝するようになる。虎も老婆に懐き、かくして人と獣が互いに気を許し、疑うことない仲になったのだった。
虎の方が、倅より稼ぎが良かったり、人情を理解していたりする描写にクスリとなる。老人と獣という取り合わせが醸し出すほのぼの感も良い。


「画皮(人皮女装)」は、美女の生皮を被った鬼に夫の心臓を抜かれて殺された妻が、夫を生き返らせる話。

王生という男が、親に売られそうになり逃げて来たという美少女をうちに連れ帰り、養うことにする。妻の陳氏は、御大家の妾かもしれないから出した方が良いと意見するが、王生はこれを無視した。
ある日、王生は道端で一人の道士から「あんたの体には邪気がまとわりついている。死が近い」と告げられる。王生は道士の言葉を信じなかったが、帰宅してから美少女の部屋を覗いてみたら、中では獰猛な青鬼が人皮を被って美少女に化けているところだった。
道士に助けを求めた王生は、道士から鬼除けの払子を授けられるが、結局、青鬼に内蔵を抜かれて殺されてしまう。
陳氏が、夫を蘇らせて欲しいと道士に頼むと、道士から死人を蘇らせることの出来る男を教えられる。その人物はたいそうな奇人変人だが、願いを聞いて欲しければ、決して逆らってはいけないという。
その男は、陳氏が想像していた以上に無礼だった。
陳氏は散々に侮辱され、男が吐いた拳大の痰の塊を飲み干せと命じられる。一切逆らわず痰を飲んだが、何も起こらないまま男は姿を消してしまう。
陳氏は屈辱に打ち震えながら帰宅すると、無残に切り裂かれた夫の遺体を清めようとする。すると、にわかに吐き気がこみ上げ、何かの塊を亡骸の腹腔の中に吐き出してしまう。
それは、温かく動く心臓だった。陳氏が夫を抱きしめると、夫の腹腔は塞がり、彼は生き返ったのだった。


『紅楼夢』については、ボルヘスは序文で、“(ロシア文学やアイルランドのサガをも凌ぐ登場人物の多さに)一見しただけで読者は意気銷沈させられてしまう”と述べている。
が、それはあまり読書習慣の無い者の気持ちを代弁しているのだけで、ボルヘス自身はこの3000ページを超える巨編を寧ろワクワクしながら読んだのではないかと思っている。

「夢のなかのドッペルゲンゲル」は、ボルヘスは『夢の本』でも、「宝玉の果てしない夢」というタイトルで取り上げていた。余程お気に入りの一編なのだろう。
このブログでも、『夢の本』の読書感想で既に取り上げているので詳しくは触れないが、円環の夢をテーマとしたこの掌編は、まるでボルヘス自身が書いた作品のようだと思った。
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