青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

科学的ロマンス集

2019-08-29 08:11:17 | 日記
ヒントン著『科学的ロマンス集』は、ボルヘスによる序文と、「第四の次元とは何か」「平面世界」「ペルシアの王」の三編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館”シリーズの25巻目にあたる。私にとっては、22冊目の“バベルの図書館”の作品である。

本書によって、ヒントンという名を初めて知った。付録の解説によると、ヒントンはオクスフォードで学位を取った数学者だ。
ヒントンの関心は、“四次元空間の直接で直感的な知識であり、高次の空間の知識を用いて形而上・形而下の問題を解決すること”と、“幾何学を直接的知覚の訓練として学ぶ”ことにあったらしい。
……もうこの段階で言っている意味がよく分からない。これは難物だな、と感じた。

“彼の著作は生前から特に神智学系のサークルでさかんに論議された。いわゆる心霊現象が四次元という考え方によってうまく説明されていると考えられたのである。また、過去・現在・未来がすべて高次元において現存するという考えは、予知やサイコメトリーがいかにして可能かを説明するだろうし、ヒントンが想定した究極の物質は、錬金術におけるプリマ・マテリアに似る。 ”

ヒントンは四次元世界へ潜入するための訓練に超能力は必要ないと考えていた。
では、彼は何を必要としていたのか?
それは、“無限数の体積によって作られ、体積によって限定される超体積の概念”なのだ。

“彼は超立方体、超角柱、超角錐、超円錐、超円錐台、超球体、等々といったものの客観的実在性を信じた。この宇宙に奥行きのないものは何もない以上、あらゆる幾何学的概念のうちで実現性を帯びているのはただひとつ体積のみであるというふうには彼は考えなかった。(略)ヒントンは二次元の世界、四次元の世界、五次元の、六次元のというように、自然数の数列が尽きるまでの次元の世界が存在すると考えた。”

「第四の次元とは何か」と「平面世界」の二編には、ヒントンの四次元世界への潜入法が記されている。
これらを小説と言って良いのかは、ちょっと分からない。数式や図表が多用されていて、まるで論文を読まされている気分になる。面白いか面白くないかと問われれば、面白いと答える。が、スッと頭に入ってこない。論理的思考が身についていないと読み解けない作品だと思った。この取っ付きにくさが、ヒルトンの存在を無名の闇に沈めているのだろう。


「第四の次元とは何か」において、ヒントンは、実際的な確定性を持った領域を超えた世界に目を向けるのには、「知識とは何か?経験を構成するものは何か?」と問うことと、“知の領域において恣意的で非合理な制限を受けていると思われることのすべてを疑問視する”ことの二通りの方法があると述べている。

われわれの住む三次元の世界とは、空間が縦・横・高さの三座標で表せる世界のことだが、逆に言うと、三つの方向しか存在しないという制限を受けている状態でもある。
この制限がどのようなものであるのかについて、ヒントンは、より制限を受けている次元――つまりは二次元、一次元の状態について丁寧に解説している。それがあまりにも微に入り細に入りなので、つい彼の言葉の端々を追うことに熱中してしまい、ふと気が付いた時に「私は何を読ませられているのか」と茫然としてしまったりもする。

一次元の世界とは、直線を両方向に無限の距離に延長したものでしかないので、その世界の存在者は(そんな者がいるとすれば)、経験の及ぶ全範囲が一本の直線内に限られているので、他者とすれ違うという経験をすることが永遠にない。彼らの他者との接触は、両脇に一名ずつという制限を受けているのだ。そして、すべての行動が直線の内に制限されている彼らには、別種の移動方向の概念を持つことができない。

二次元の世界とは、一平面の表面が経験の及ぶ全範囲の世界のことだ。
平面の世界にあるのは、長さと幅の二方向だけである。故にこの世界の存在者は、我々が上下と呼ぶ方向に動くことは出来ないし、上下という方向があるという考えに到達することが出来ない。彼らが置かれた状況が、それを教えないからである。
しかし、ここで二次元の存在者が、彼らよりさらに制限を受けている、一本の直線に閉じ込められた存在を想像することができるならば、直線内の存在が一つの方向にしか動けないのに、自分は二つの方向に動けるということを認識できるかもしれない。次元が一つ増えるとそれだけ存在者の状況は恵まれたものになる。平面内では、姿形の多様性が無限になるし、不定の数の他者との接触が可能になる。こう考察した後で、彼は「だが、なぜ方向の数は二つに制限されているのか?なぜ三つでは無いのか?」と疑問を抱くかもしれない。
そして、この問いを三次元の世界にスライドさせれば、「なぜ方向の数は三つに制限されているのか?なぜ四つでは無いのか?」と、我々の知る空間が制限を受けていることへの問いが生まれるかもしれない。

……という感じで、我々が自分たちの住む三次元の世界より高次の四次元の世界を想像するにあたって、まず三次元の世界よりも次元の低い世界を想像し、その世界の存在者と三次元にいる我々との比較によって、四次元の世界を推測するというアプローチをとっているのだ。このやり方を応用すれば、五次元、六次元と数列の続く限り、つまりは無限に次元の世界を増やしていくことが可能かもしれない。

一次元の図形が「直線」、二次元の図形が「平面」、三次元の図形が「立方」なら、四次元の図形は何なのだろう。

われわれが第四の方向を想像することが出来ないのは、正方形2が立方体3となるような動きの方向を平面内の存在者が想像できないのと同様だ。彼にとっての第三の次元とは、我々にとっての第四の次元と同様に理解不能なものだ。
我々が第四の次元をイメージするには、1から2、2から3、3から4が形成される過程の間に存在する類比関係を追及することによって、四次元におけるもっとも単純な図形の特性がどんなものかを探求する必要がある。
ヒントンは、四次元におけるもっとも単純な図形に「四平方」と命名し、それがどのような図形であるのかを考察していく。ここで、AだのBだの言いだすので、数学音痴の私は眩暈がしてきたが、根気よく解き明かしていくうちに、ヨチヨチながら法則が見えてきた。

まず、点について。
直線には二個の点、平方には四個の点、立方には八個の点がある。ならば、四平方には、同一の法則にしたがえば、十六個の点があることになる。

次に線について。
直線の線は一本である。平方は線が四本だ。立方には十二本の線がある。ならば、四平方には何本の線があるか?1、4、12。同一の法則にしたがえば、つまりは、先行の図形の線の数を二倍して、それに先行の図形の点の数を加えると、四平方の線は、2×12+8で三十二本になる。

更に面について。
線は零面。平方は一面。立方は六面。ここで、0、1、6という三つの数値を得た。ならば、四平方の面の数はいくつか?
立方体がどのようにして生じるか。正方形は、その動きの始まりにおいて立方体の面の一つを決定し、終わりにおいてその対面になり、移動の間に正方形の各線が立方体の平面をなぞり出す。ので、先行の図形の平面の数は二倍になり、先行の線のすべてが、後の図形の平面の一つをなぞる。この法則を当てはめると、四平方は、表面の数を立方の倍にして十二、それに直線の各々について平面を一つ加えると直線が十二本なので、さらに十二、即ち二十四の平面があるという答えが導き出される。

16の点、32の線、24の面、これが四平方という形態だ。
このようにして四次元内のもっとも単純な形態の特性を叙述することがいかにして可能となるかを見れば、さらに複雑な図形の心的構築もまた、時間と忍耐さえあれば可能になる。四次元存在者が、我々に対してどのような関係を持っているかも解答可能だ。
思考の抽象化、つまりは、想像し得ない事柄に関して筋道を立てて論じ、結論を引き出すことによって我々は、我々がイメージを形成できない事柄を、理解可能な言葉で表現できる。思弁によって、精神は諸々の概念を築き上げることが可能になる。我々が享受している経験から抽象としての存在者をこのように想起できるというのは、なかなか面白いものだ。


「第四の次元とは何か」の感想というか体験談に終始してしまったが(頑張って算数したので、その苦闘の跡を記したかった)、本作で一番面白かったのは、「ペルシアの王」である。第一部が寓話で、第二部はそれの数学的解説である。

これはヒントン的天地創造物語なのだ。
とある谷間に落ちた王が、謎の老人に谷間の世界の創造者になることを命じられる。自力では鈍麻状態から抜け出そうとしない被造物に連続活動を起こさせるために、感覚のモーメントが用いられる。王は快楽と苦痛の二つの感覚をコントロールすることで、習慣的動作を起こす。当然のことながら、快楽100と苦痛100では、被造物は鈍麻状態から抜け出さない。そこで苦痛の一部を王が負担すれば、どうなるか。王は自分が負担する苦痛の数値を加減することで、被造物の行動をプログラミングしていく。行動は思考を生み、被造物、つまり人間は、彼らなりの法則を組み立てていく――。


数式を用いた幻想小説というのは、かなり珍しい。
ヒントンは1800年代の人なので、時代的には全然新しくはないのだが、誰もこの路線を継承しなかったのだろう。ヒントン的小説作法は、現時点においてもヒントン自身が最新版である。
ヒントンが、「ペルシアの王」の中で、“(小さな数量は)今は読み飛ばして、後で参照のため戻るのが良いかもしれない”と促しているにも拘らず、つい目の前の数量計算に必死になってしまうので、かなり疲れる読書体験になった。
それでも、ヒントンの創造する世界は美しい。それは、数学的思考の筋道に従って無限に広がっていく整然とした美の世界、ヒルトンに言わせれば、“知的な美の景観”なのだ。
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夫誕生日2019

2019-08-26 08:39:26 | 日記

土曜が夫の誕生日だったので、前日の夜にお祝いをしました。
前年までは自宅でお祝いしていたのですが、今年は近所のイタリアンでお食事会。夫が主役なのに、上の画像はコメガネ。
このお店は安くておいしいと評判が良くて、分かり難い場所にある割にはお客さんが多いです。でも、落ち着いてお食事を楽しめる良いお店なのですよ。


前菜。生ハムの下には無花果。


桃の冷製スープ。果物のスープを飲むのは初めてでしたが、口当たりがさっぱりしてとても美味しかったです。


パン。


茸のラグーパスタ。


メインは鯛。お祝いなので。


デザートは、ティラミスとレモンシャーベットの盛り合わせ。




食前食中の飲み物は、夫と私がビールと赤ワイン。コメガネはひたすらオレンジジュース。


食後の飲み物は、私がレモン&ジンジャーティー。夫はアイスコーヒー。コメガネはまたしてもオレンジジュース。この日のコメガネは、オレンジジュースばかり三杯も飲んでいました。お店には他にもソフトドリンクはあったのですが、コメガネが時々見せる謎のこだわり。
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フウセンカズラのグリーンカーテン2019

2019-08-22 09:11:15 | 日記

今年の夏もフウセンカズラのグリーンカーテンを作りました。
去年までは大きめのプランターに植えていたのですが、今年は庭に敷いたタイルを少し剥がして直植えにしました。水やりの頻度が少なくて楽ちんです。




ヒオウギとハイビスカスも次々に花を咲かせています。
夫から「何でうちの花はオレンジ色が多いんだ?」と聞かれましたが、言われてみると確かに色が偏っているかも。アマリリスもオレンジ色ですし。


昨日は、コメガネが部活のメンバーと上野散策をするのというので、久しぶりにお弁当を作りました。
西洋美術館の『松方コレクション』見学→上野動物園で動物のスケッチのコースでした。
一日で廻るには少々強行軍ではないかと思いましたが、案の定、疲れ果ててヨレヨレの姿で帰ってきましたよ。一緒に行った子の中の一人が帰りの電車の中で具合が悪くなってしまったそうで、途中下車して少し休憩してきたと言っていました。
ちなみに、コメガネがスケッチしたのは虎でした。コメガネのことですから、絶対肉食獣だと思っていましたよ。
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友だちの友だち

2019-08-19 09:03:17 | 日記
H・ジェイムズ著『友だちの友だち』には、ボルヘスによる序文と「私的生活」「オウエン・ウィングレイヴの悲劇」「友だちの友だち」「ノースモア卿夫妻の転落」の四編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の14巻目にあたる。私にとっては21冊目の“バベルの図書館”の作品である。

H・ジェイムズは『鳩の翼』を途中で挫折してからずっと避けていた作家で、“バベルの図書館”のシリーズの中に彼の名前を見つけた時には、思いがけないところで苦手な親戚のおじさんに出くわしてしまったような当惑を覚えたものだった。
で、本書を読んでも、私の中でH・ジェイムズ作品への意識が改善することはなかった。短編集なので、『鳩の翼』よりはストレスは少なかったが、つっかえつっかえな読み進め方で、読了までに信じられないくらい時間がかかった。
というのも、H・ジェイムズ作品の登場人物は、とんでもなくよく喋るので。それどころか、登場人物が何も話していない時でさえ、絶え間なく喋りかけられているような煩わしさを感じさせるので。その辺の生々しい筆致は、誰もが真似出来る芸当ではないので、尊敬はしている。

付録の大津栄一郎による『生身の巨匠ヘンリー・ジェイムズ』は、なかなか面白かった。

H・ジェイムズは、「巨匠」とか「文豪」とかいう表現にかなり複雑な感情を抱いていたらしい。彼の作品の中でこの種の称号で呼ばれる人物は、たいてい偉そうな俗物として描かれている。
ところが、作家としてのキャリアを積んでいく中で、H・ジェイムズ自身が巨匠と呼ばれるようになってしまった。H・ジェイムズは、どんな巨匠ぶりを見せたのか。『生身の巨匠ヘンリー・ジェイムズ』では、そのエピソードがいくつか記されているが、これが思いがけなくしみじみとさせられる内容だった。

ジョーゼフ・コンラッドを訪ねた時に、四歳の子供にその滑稽な気どりぶりを「優雅な雄鶏」と表現されてしまったH・ジェイムズ。
トーマス・ハーディに「ひっきりなしにしゃべりながらなにもしゃべらぬ」特技の持ち主と虚仮にされたH・ジェイムズ。
ヒュー・ウォールポールに「緑やピンクの紙テープでも吐き出すように、口から際限なく多彩な言葉を吐きつづける蠟人形を想像してもらえばいい」と揶揄されたH・ジェイムズ。
あまりに大げさで、あまりにフォーマルで、滑稽な、生真面目で、堅苦しい、模範的なヴィクトリア朝紳士。そして、つっかえつっかえ同じ言葉を繰り返しながら、延々と喋り、しかも凝った表現のために相手に真意が伝わらない話術の持ち主。それが、H・ジェイムズなのである。

ヒュー・ウォールポールに言わせると「よく人がまねる(だがたいてい巧くいかぬ)彼の込み入った複雑な文章は、ジェイムズが自分の頭のなかにあるものは言葉では十分に表現できないと思っているからなのだ。そのためまた、苦心惨憺したあげく、彼の言うことはときどき結局つまらぬ、ありふれたことになってしまう。自分にとって大事な宝をどうしても巧く表現できないので、絶望して、どうせ代用品だからとどんな表現でもあきらめて受け入れたといった工合なのだ」そうだ。
ヒュー・ウォールポールの見立てが正解だとすれば、H・ジェイムズの、あのどんな些細なことでも、多彩な言葉を用いて完璧な文章で表現せずにはいられない言語マシーンの様な創作スタイルの底には、意外にも言葉に対する絶望があったらしい。

H・ジェイムズは、読者から作品についてよく分からないと言われるのが随分堪えたそうだ。その手の質問に対して、H・ジェイムズは、冗談で紛らすことも出来ず、大変困惑した顔をしたのだそうだ。
まさに私が途中で放り出してしまった『鳩の翼』への質問に対しては、「あれだけ努力してなお伝えられない意味をどうして口先の言葉で伝えられますか」と答えたらしい。
そんなエピソードを読んでいくうちに、私は、H・ジェイムズに対して、申し訳なさとある種の愛情の様なものを抱いたものだった。
大津栄一郎は、「いつも過剰に反応し、過剰に想像し、女性を前にすると当惑し、自分に自信を持てぬ巨匠だったといえよう。そうなると、せんさく好きで、絶えず場違いなところに出しゃばり、迷惑がられたり、からかわれたりしているいくつかの作品の主人公はジェイムズの自画像ということになる。」と纏めている。


「オウエン・ウィングレイヴの悲劇」は、陸軍士官塾の教師スペンサー・コイルが、彼の最も優秀な生徒であるオウエン・ウィングレイヴから、軍人を軽蔑しているので、士官学校には進学しないと宣告されるところから始まる。

ウィングレイヴ家は、先祖代々軍人の家系だ。平和主義的な生き方など許されるはずがない。
オウエンの変節に狼狽えたコイルは、オウエンの伯母ミス・ウィングレイヴに相談するが、案の定、一族の男に軍人以外の生き方を認めない彼女は、説得のためにオウエンをウィングレイヴ一族の屋敷パラモアに連れ帰ってしまう。
一族の子息の中で最も優秀なオウエンは、期待の大きさの反動から、家長である祖父サー・フィリップや後見人のミス・ウィングレイヴから苛烈な叱責を受け、婚約者のケイト・ジュリアンからは顔を合わすたびに侮蔑と苛立ちをぶつけられる。しかし、皮肉なことに誰よりも軍人的な勇敢な魂の持ち主であるオウエンは、そんなことではめげない。遂には経済的に締め付けられることとなってしまう。

オウエンを心配したコイルは、妻とオウエンの級友レッチミアと共にパラモアを訪れる。そこで、コイルは、パラモアに纏わる奇妙な話を聞かされる。
この屋敷には古い亡霊たちが住み着いていて、ウィングレイヴ家の人々は彼らを〈内輪の家族〉と呼んでいる。彼らは一種永遠の存在で、遠い昔にまで及んでいて、この家の住人に判定を下すのだという。

話は、ウィングレイヴ家で起きた殺人にまで及ぶ。
ジョージ二世の頃、オウエンの祖先のウィングレイヴ大佐は、自分の子供の一人を激怒のあまり殴り殺してしまった。子供は丁度オウエンくらいの年頃だった。事件は内密にされ、別の死因をたてて葬式は執り行われた。しかし、その翌朝、大佐はパラモアの一室で謎の死を遂げたのだった。遺体が発見された部屋は、今でも幽霊が出るという。もう長いこと、その部屋で寝たものは誰もいない。
ケイト・ジュリアンは、レッチミアを利用してオウエンを焚きつけ、彼がその部屋で寝るように仕向けるのだが――。


この物語は、『オーウェン・ウィングレイヴ』というタイトルで歌劇化されている。
“手入れの行き届かないジェイムズ一世時代の家のたたずまい、荒廃していかにも「うす気味悪い」感じがする、しかし依然として風格にみち、今や静かな余生を送る年老いた武人のなおかつ威厳ある姿の背景として、まさにふさわしいその館”を舞台とした幽霊譚は、なるほど舞台映えがするかもしれない。
そこに住む人々――忘れ去られた古い戦士を感じさせるサー・フィリップ、高貴と厳格が一周廻って俗悪な印象を与えるミス・ウィングレイヴ、訳ありの居候ジュリアン母娘。それから、館の階段に飾られた先祖代々の肖像画と奇妙な呟き声、館に住み着いている幽霊の気配などもまた。


「ノースモア卿夫妻の転落」は、長い年月をかけて密やかに準備の進められた復讐の物語。H・ジェイムズの短編の代表作と目される作品で、本書収録の4編のなかでは最も読み易かった。

政界の大物ノースモア卿が死んだ。成功することが職業とも表現された彼の葬儀は、その生涯にふさわしい華やかなものだった。
それから程なくして、ノースモア卿の旧友ウォレン・ホープも病死した。
ウォレン・ホープの人生は、控えめな性格故にノースモア卿に利用されてばかりで、何も残すことなく終わってしまった。ウォレンの死は、世間の注目を集めることなく、知人たちからも速やかに忘れ去られる。
ジョン・ノースモアは不朽で、ウォレン・ホープはお終いなのか――遺されたホープ夫人は夫の遺品を整理しながら、世の理不尽と人々の不人情に暗澹たる思いを抱く。

ノースモア卿の偉業を記念して、卿の書簡集の出版企画が持ち上がった。
ノースモア夫人は、亡き夫の友人知人に夫の手紙を保管していないかと問い合わせる。ホープ夫人もその中の一人だった。ホープ夫人は、ノースモア夫人の傲慢な態度に複雑な思いを抱きつつも、夫が遺していた卿からの手紙を提供することにした。

大々的な広告を打って、ノースモア卿の書簡集が出版された。
しかし、評論家や世間の人々の反応は意外なものだった。この時からノースモア卿夫妻の一切の権威は失墜した。
ホープ夫人は、卿の書簡集の出版こそが、亡き夫が忍耐強く準備してきた復讐だったことを知った。ウォレン・ホープは、妻が思っているような恬淡な人物ではなかった。ウォレンは、ノースモア卿夫妻の人間性を誰よりもよく知っていた。卿亡きあと、夫人や卿の追従者たちが何を思い立つのかも、自分の死が人々から顧みられることの無い事までも、すべてお見通しだったのだ。


教養深く、物静かで、無欲そうに見えた男が、長年連れ添った妻にすら気付かせることの無かったもう一つの顔。
自らの病身を押してノースモア卿の葬儀に出席した時、ウォレン・ホープの心にあったものは何だったのだろう。恐ろしく巧妙で残酷な復讐者は、復讐を成し遂げたのちまでも対象者たちに本性を気取られることはなかった。もっとも、ウォレン・ホープの本性に気づけるほどの繊細な神経の持ち主だったら、彼を怒らせるような真似はしなかっただろうけど。H・ジェイムズの短編の代表作と評されるだけのことはある、心理小説の傑作だ。
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『三国志展』に行きました

2019-08-12 08:38:14 | 日記

東京国立博物館の特別展『三国志』に行ってきました。
日中文化交流協定の締結40周年を記念して開催されたこの展覧会には、三国志関連の資料がなんと162点も展示されています。しかも展示物は映像以外すべて写真撮影OK(フラッシュは不可)。
実は、先月行った『恐竜博2019』は私の趣味でしたが、今回の『三国志展』は夫の趣味で、私自身には三国志の知識が殆ど無い状態でした。事前に渡邉義弘浩の『図説雑学三国志』を読んだりNHKの特番を見たりしたくらいです。だもので、この先の感想もかなり的外れなことを言っているような気もします。
超初心者ですので、音声ガイドプログラムを借りて見学しましたよ。ナビゲーターは吉川晃司さんでした。他に『真・三國無双』というゲームとのコラボで、ゲームに出演している声優さんがナビゲーターをしている音声ガイドもありました。

会場は、以下の六つのブロックに分かれていました。
第一章 曹操・劉備・孫権――英雄たちのルーツ
第二章 漢王朝の光と影
第三章 魏・蜀・呉――三国の鼎立
第四章 三国歴訪
第五章 曹操高陵と三国大墓
エピローグ 三国の終焉――天下は誰の手に

黄巾の乱から呉が西晋に滅ぼされるまでの約百年の三国志関連の展示物なのですが、たった百年の出来事とは思えないほどの情報量でした。見るべきものが多くて、頭の中で整理をつけるのが大変。長らく「後漢時代末期の黄巾の乱以降、戦乱の世となり、物質文化は停滞した」という先入観が強かったそうですが、どうしてどうして、経済や文化に纏わる展示品も数多く、この時代の中国が文化的に暗黒時代だったとはとても思えなかったのでした。


孔明出山図。
三顧の礼の結果、諸葛亮が劉備に応えて、軍師としてその旗下に加わった場面です。


関帝廟壁画は、一枚に二つの場面の絵が描かれた壁画が三枚展示されていました。
これは、右が「曹操、覇橋で袍を進ず」、左が「関羽、兵書を読む」。


関羽像。伝世像屈指の「美関羽」で、どの角度から撮っても風采がいいです。


関羽・張飛像。


趙雲像。




三国故事図は12枚展示されていました。
これは、上が「馬超は渭水にて曹操を追撃、許褚が馬の蔵で矢を防ぐ」の図。下が「天水関において姜維が諸葛亮に降伏する」の図。


玉豚。子孫繁栄の象徴である豚の肉を、死後の世界でも食べられるように備えたもの。
董園村一号墓から出土。この墓は曹操の父、曹嵩の墓とされています。


人物画像磚。この磚が発見された白果樹村第一墓は、曹操一族の有力者の墓と推定されているので、この絵の人物も曹操一族の者である可能性があります。


青銅の儀仗俑。張将軍の墓から出土。涼州軍閥の有力者で董卓と関連があった可能性も。


銅製食器。夫婦を合葬したと思われる墓から出土。


多層灯。


五層穀倉楼。


四層穀倉楼。






戟、剣、矛などの漢三国の実践武器。


弩。


鏃。


武器が展示されていた部屋の天井を飛ぶ無数の矢。こんな風に弩と鏃を使っていたんですね。赤壁の戦いで戦死した武者たちは、死の瞬間にこんな光景を見たのかもしれません。


武士俑。


撒菱。


童子図盤。木胎漆器。


帯鉤。ベルトを留める金具。


五龍硯。




蜀の俑は七体ほど展示されていましたが、何れも笑顔で蜀の経済力が人民の精神に余裕を与えていたことが伺えます。


呉の俑は簡素な作りながらも場面構成が多彩。




呉の青磁。上が羊尊。下が神亭壺。


ガラス盤とガラス連珠。

ここからは、いよいよ曹操高陵。
室内は曹操高陵内部を模した作りになっていました。曹操は遺言で薄葬令を出していたので、副葬品はこれまでの展示物に比べて驚くほど質素でした。
棺を豪華にし、亡骸を着飾らせ、金細工の類を副葬品にするのが、当時の上流層の葬送観念でした。それを、あえて薄葬令を出し、臣下に忠実に守らせた。その事実に寧ろ曹操という人物の偉大さを感じました。
薄葬といっても高陵の作り自体は立派なものでした。陵園は広大で、墓は地下深くにあり、天井の高さも当代随一だそうです。


副葬品目を刻んだ石牌。


飾板と釵。


帯を解くのに用いた道具。觽と書いてケイと読みます。


瑪瑙円盤。漢時代から三国時代には瑪瑙製品は貴重品だったそうです。


侍俑。




画像石。


白磁の罐。

220年の正月、曹操は「情勢が不安定であるゆえ、埋葬後は喪に服さず、将兵らは持ち場を離れず、官吏は職務を遂行せよ。遺体は飾ってはならぬ。宝飾品も墓に入れてはならぬ」という遺言を交付しました。
2008年から始まった発掘によって、内部からは玉衣の断片も金細工の類も発見されず、副葬品が質素であることが確認されました。これらは曹操の遺言と一致しています。曹操高陵は何度も盗掘にあっているので、当初の姿を完全に知ることは出来ませんが。


金製獣文帯金具。「鮮卑頭」と呼ばれる類の金具で、曹操の第一子、曹丕はこれを欲したそうです。曹操高陵の質素な副葬品を見た後だと、きらびやかさが余計に目に染みます。


揺銭樹の副葬は蜀の地にほぼ限られています。


揺銭樹台座。経済力に恵まれた蜀らしい銭の樹信仰です。

『三国志展』の締めくくりは、蜀でも魏でも呉でもなく、西晋でした。蜀は魏に滅ぼされ、魏と呉は西晋に滅ぼされました。「晋、呉を平らげ天下泰平」という、あまりにも短すぎる分に諸行無常を感じましたね。蜀・魏・呉、それぞれの豊かな文化と武将たちの勇壮な姿がたった百年で無に帰したとは。

会場には、NHK人形劇『三国志』で使われた川本喜八郎の人形も展示されていました。






上から、曹操、劉備、孫権。他に曹丕、曹植、献帝、諸葛亮、甘寧、孟獲の全九体。


これは孟獲。私は三国志では曹操が一番好きですが、人形はこの孟獲が一番格好いいと思いました。


お土産に図録を買いました。


カバーを外した状態。
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