青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

燃える平原

2018-08-30 08:41:39 | 日記
ファン・ルルフォ著『燃える平原』は、「おれたちのもらった土地」「コマドレス坂」「おれたちは貧しいんだ」「追われる男」「明け方に」「タルパ」「マカリオ」「燃える平原」「殺さねえでくれ」「ルビーナ」「置いてきぼりにされた夜」「北の渡し」「覚えてねえか」「犬の声は聞こえんか」「大震災の日」「マティルデ・アルカンヘルの息子」「アナクレト・モローネス」の17篇からなる短編集。
革命前後のメキシコを舞台に騒乱と暴力の世界に生きる農夫たちを感傷と修辞を排した乾いた文体で描く。
ルルフォは生涯に『燃える平原』と『ペドロ・パラモ』のたった二つの著作しか残さなかったが、ラテンアメリカ文学の最も重要な作家の一人であるという評価を得ている。

メキシコ文学を読むのは、カルロス・フエンテス著『アウラ・純な魂』『遠い家族』に次いで3作目だが、フエンテスの作風が幽玄で幻想的であるのに対し、ルルフォの作風はメキシコの大地そのもののように熱く荒涼として暴力的だ。
ルルフォは実体験から離れられない作家で、それ故に多くの作品を残すことが出来なかった。生涯でたった二作の彼の作品は、一行一句すべてが彼の血と肉で出来ていると言えよう。ルルフォ自身がメキシコ革命の激戦地アプルコで生まれ育っているので、メキシコ革命やその後の混乱の描写が距離感ゼロで生々しい。モラトリウムとは無縁の魂の強さを感じた。

「農地に火を放たれ、父親や祖父、父親の兄弟、みんな殺された」ルルフォは、十歳になる前に母親も亡くし、その後は祖母に引き取られ、やがて孤児院に入れられた。ルルフォの作品に共通する暴力の嵐や突発的な死、それに伴う孤独や怨念は、ルルフォ自身の生い立ちを原風景としている。

不幸でない人間、悲惨でない人間は一人もいない。だから、それは非道の言い訳にはならない。そもそも言い訳をしようという発想すらない。
この地では子供が一人前になるのが早い。
おっぱいを飲んでいるかと思ったら、次の日にはもう鍬を握っている。そしてあっという間にどこかへ行ってしまう。そんな感じで、一生の流れが酷く速い。
役人から痩せた土地をあてがわれ強制的に移住させられる農夫たち。復讐のために旅を続け、復讐を果たした後は自らが復讐者に追われる立場になる男。父親の死体を馬に乗せハーモニカを吹きながら帰路に就く息子。全身から黄色い粘液を垂らしながら聖地を目指す巡礼者。乳房の重みで堕落の底へと沈んでいく商売女たち……焼けつくような日差しが照り付ける荒野を人々は行き交う。

積み上げられた死体の山から燃え上がる炎。赤く染まった歯を唇の間から覗かせて、まだ生きている仲間たちをあざ笑っているかのような死体。道端の棒杭に吊るされたまま干からび、しわしわに縮れた死体。殺され棄てられてすぐに無数の禿鷹が舞い降りる死体……17篇の殆どに死体の描写が出てくる。理不尽な死が日常のこの地では、生きている人間よりも死人の方がよっぽど重たい。そんな悲惨の極みのような世界で、それでも人々は死ぬまでの人生をもがきながら生きるのだ。

「タルパ」は、疫病に侵された兄を兄の妻と共に巡礼地タルパに葬った男の話。
物語はタルパから故郷センソントラに戻ったおれと兄嫁のナターリアの場面から始まる。
おれたちは兄のタニーロの亡骸をタルパに埋めてきたのだ。
嫌な死臭をまき散らし、思わず目をそむけたくなるような遺体だった。体中の爛れから黄色い液が滲み出していた。遺体に群がる青蠅の唸りはまるでタニーロの口から漏れ出る鼾のようだった。息がしたくてもがいているみたいに見えた。まだ苦痛に苛まされているように手足を引きつらせ、目を大きく見開いて、自分の死を睨んでいるようだった。

タルパの聖母様の前に立てば病気などすっかり治る。痛みはあとかたもなく消える。タニーロはそう信じていた。おれたちはそこに付け込んで、タニーロをタルパに連れて行った。道中でタニーロの手足の爛れが裂け、血と腐った液が滴った。タニーロはセンソントラに引き返したがったが、おれたちは強引に前に進ませた。
おれたちはタニーロの死をのぞんでいた。
おれたちはタニーロの目の届かないところで体をまさぐり合っていた。タニーロを聖母のもとに連れて行くと言いながら、おれたちはタルバに向かう道々でそんなことをしていたのだ。

タルパに続く砂塵に包まれた街道を、おれたちは群衆にもまれながら、太陽に焼かれながら、蛆虫のように蠢きながら、少しずつ進んでいった。
タニーロの足の肉は裂け血が流れ出し、ふいに腐ったようなにおいをドッと吹き出していたが、おれたちはこれっぽちの憐みも感じられなくなっていた。この分だとまだまだ死にそうになかった。何としてでもタニーロをタルパまで引っ張っていかねばと思うのだった。
タニーロは跪き膝の骨で地面を擦りながら進んでいった。見るからに異様な肉塊となり、体中湿布だらけで、あちこちに黒ずんだ血がこびりいており、彼が通った後には腐乱した動物の死骸を思わせる饐えた臭いが漂った。
そんなタニーロを引きずって、おれたちは聖歌を謳いながらタルパに入っていったのだ。

タニーロはタルパで死んだ。
目論見通りになったというのに、おれたちは永遠に心の安らぎを失ってしまった。
ナターリアは酷く悔やみ、死んだ亭主の為に頻りに涙を流す。後悔の念に駆られる自分の姿をあの世の亭主に見てもらいたいのかもしれない。おれを見る時のあの目の輝きはどこかに消えてしまった。ナターリアにとってタニーロがすべてになった。
おれもそうだ。ここにはタニーロの思い出がいっぱい詰まっていて、四六時中後悔の念に苛まされるのだ。
この分だとおれたちは互いに相手を恐れるようになるのかもしれない。
何だか目的地にまだ辿り着いていないような気がする。ここはまだ通りすがりの場所で、じきにまた歩き続けねばならないような感じだ。何処に行くべきなのか見当もつかないけれど、とにかく先へ行かねばならないのだ。


死体の上にしっかりと土を盛り、石をいっぱい乗せる描写は、「アナクレト・モローネス」にも出てくる。
しかし、「アナクレト・モローネス」の主人公は、良心の呵責や自責の念に駆られるところがいっさいない。彼が埋めたのはただの肉塊で、それに付随する思いは何もない。

人々に聖人のように信仰されていたアナクレト・モローネスは、実はとんでもないペテン師だった。
物語は突然失踪した新興宗教の教祖アナクレト・モローネスを探し求める信者の女たちが、弟子で娘婿のルカス・ルカテロのもとを訪ねてくるところから始まる。
ルカス・ルカテロは師匠がろくでなしなことを知っている。そして、彼が今どこにいるかも。
女たちへのルカスの対応が酷過ぎる。あんまり酷過ぎるので読みながら何度も笑ってしまった。
ルカスはアナクレト・モローネス以上のクズ男で、女をたぶらかすことにも人を殺すことにも罪の意識は一切ない。その冷めた感覚から放たれる毒舌は清々しくさえあった。


「犬の声は聞こえんか」では、老いた父親が瀕死の息子を背負って町を目指し荒野を歩く。
イグナシオは、何一つ思い通りにならなかった息子だった。
だがこの体がガタガタになっても、どうしても息子をトヤナに連れて行きたいのだ。医者に手当てをしてもらったって、傷が治ったらすぐにまた悪の道に戻るのだろうけれど。
どこか遠くに行けばいい。二度と顔を見なくて済むようなところに消えればいい。こんなろくでなしに自分の血が流れていることが情けなくて悔しい。息子は山賊に身を落として、何の罪もない人たちを殺した。その中には名付け親さえいた。
父親は息子を背負いながら、息子が赤ん坊だっだ時のことを思い出す。
こんな気性の荒い、乱暴な人間になるとは、夢にも思っていなかった。夫婦で一人息子を大切に育てて来たつもりだったけど、何か恨みがあるみたいな仕打ちしか受けなかった。妻はもう死んだが、たとえ生きていたとしても結局は息子に殺されただろう。

膝が曲がって、息子の重みに押しつぶされそうだが、気力を振り絞って歩き続ける。
町が近づいたことを知らせる犬の吠える声が聞こえてくる。だけど、背中の息子は既に息絶えていた。父親は首に絡みついた息子の指をひとつひとつ外しながら呟く。

“「これが聞こえなかったのか、イグナシオ」と老人は言った。「おまえってやつはこんなちっぽけな希望さえわしに与えちゃくれなかったな」”
コメント

夫誕生日2018

2018-08-27 08:33:00 | 日記

先週末は夫の誕生日でした。
今年は苺のレアチーズケーキと中華料理です。




レアチーズケーキは娘コメガネと作りました。


鶏唐揚げの甘酢あんかけ。


鶉焼売と海老焼売。
鶉焼売はこの前中華街で食べたのが美味しかったので真似してみました。


海老春巻き。

<
麻婆豆腐。


カボチャと枝豆のサラダ。
コメント (2)

遠い家族

2018-08-23 08:35:30 | 日記
カルロス・フエンテス著『遠い家族』

私がフエンテスの小説を読むのは、『アウラ・純な魂』に次いで二作目だ。
技巧的な小説作法と流麗で繊細な文章は『アウラ・純な魂』と同様である。更に本作は長編ということもあって、フエンテスが追求し続けたテーマ、即ち、旧世界と新世界(本作では特にフランスとメキシコ)の文化的・歴史的な関係、その両方の世界を知るフエンテスのメキシコ人としてのアイデンティティの問題、記憶や時間の捉え方、亡命と帰属、所有と剥奪、存在と不在、調和と不調和、情愛と非情などの対立する感情がふんだんに盛り込まれている。
故に短編集の『アウラ・純な魂』以上に把握するのが難しい。一応ゴシック小説の形式を取り、怪奇的な雰囲気を漂わせているが、そのカテゴリにのみ収まる作品でもないのだ。

この小説はブランリー伯爵が〈私〉に語った物語を、〈私〉が読者に対して語るという形式をとっているのだが、回想の中にしばしばブランリー伯爵と〈私〉が今現在レストランで交わしている会話が差し込まれている。複数の視点と時間・場所が重なり合い、沈んだり浮かんだりすることで、物語に幻想的な揺らぎと奥行きの深さを与えているのである。

語りの手〈私〉はパリの自動車クラブのレストランで83歳という高齢の友人ブランリー伯爵から神秘的で不気味な体験談を聞かされることになる。

ブランリー伯爵は数ヶ月前にメキシコ旅行をした時に、トルテカ遺跡で共通の友人ジャンを介してメキシコ人の考古学者ウーゴ・エレディアとその息子ビクトルと知り合った。
エレディア父子の親密さは異様で、ブランリー伯爵をして、あまりにも完璧な円の完成、即ち、アルファとオメガの結婚を想起させるのだった。
エレディア父子は前年に飛行機事故で妻のルシーと長男のアントニオを失っていた。エレディア父子は発掘のために出かける先の町々で、自分たちの同姓同名の人物を電話帳で探し、その数を競ったり電話を掛けたりするという奇妙なゲームに熱中していた。

暫くしてウーゴは講演の為にビクトルを連れてパリにやって来て、ブランリー伯爵の邸宅に滞在することになる。
そこでもエレディア父子は同性同名者探しゲームに耽り、探し当てた人物に電話してくれるようにブランリー伯爵に頼むのだった。ブランリー伯爵が電話を掛けると出てきたのは年配の非常に感じの悪い男だった。

その人物に会いに行きたいというビクトル少年の懇願を聞き入れ、ブランリー伯爵はビクトル少年を伴い、電話帳に載っていた深い森の中にある古い屋敷クロ・デ・ルナール館を尋ねた。そこで事故が起きたため、二人は暫くクロ・デ・ルナール館に滞在することになる。
この館で二人はビクトルと同姓同名の主人とその息子アンドレを知る。
フランス人のビクトルは何故かブランリー伯爵に異様な怨恨を抱いているが、それはどうやらブランリー伯爵の少年時代に機縁するらしい。
ブランリー伯爵はフランス人のビクトルに自宅に迎えの電話を入れてくれるように頼むが、何故か誰も迎えに来ない。運転手の行方も分からない。ブランリー伯爵はフランス人のビクトルから不快な仕打ちを受けながら病床を過ごすことになる。

なめし革の匂いの漂う館のあちこちで、ブランリー伯爵は色々な幻覚を見る。
それは時間と空間が錯綜する非現実的な世界であった。その中でブランリー伯爵は自らの過去を再び生きたり、新大陸の植民者で密輸、奴隷売買、売春などで財を成したエレディア一族の汚辱にまみれた歴史を聞かされたりしながら、自分とフランス人のビクトル・エレディアとの因縁を思い出していく。
その一方でビクトル少年はアンドレと親密になり、肉体的にも精神的にも融合して、ビクトルでもアンドレでもない、アンドレ=ビクトルとでも呼ぶべき新たな存在となるのだった。

回復したブランリー伯爵はビクトル少年を連れてパリに戻ろうとするが、司祭のような服を纏ったフランス人のビクトルに殺されそうになる。
ブランリー伯爵は、寸でのところで迎えに来た自分の召使たちによって救われる。召使たちはフランス人のビクトルを配膳リフトの立て杭の中に突き落として殺害する。ブランリー伯爵達はアンドレと合体したビクトルを残して館を後にする。
パリの屋敷に戻ると、ウーゴは息子を置き去りにしたまま帰国していた。

ここまで語り終えてから、ブランリー伯爵と〈私〉はクラブのレストランからプールへと移動する。ここからはブランリー伯爵がウーゴから聞いた話を〈私〉に聞かせ、それを〈私〉が読者に聞かせることになる。

ブランリー伯爵はウーゴを追いかけ、メキシコへ向かった。
ウーゴは自分たち一家の物語をブランリー伯爵に聞かせる。
ウーゴはカラカスで開かれた考古学会に出席するために一家四人で旅行をした。一家は作家のオテロ氏の仮面舞踏会に招かる。そこでウーゴは司祭のような服を纏った奇妙な人物に話しかけられた。その人物こそがクロ・デ・ルナール館の主人、フランス人のビクトル・エレディアなのだった。
フランス人のビクトル・エレディアは、自分の母は黒人暴動を逃れハイチからラ・グアイラにやって来たと言うが、ウーゴの眼には彼がそれほどの老人には見えなかった。
フランス人のビクトル・エレディアはウーゴに、「いつかこの私が必要になったら電話帳で探してください」と告げ、「どうして私にあなたが必要になるのかね?」と問うウーゴに対し、「我々はみんな時々思い出す必要があるんですよ」と答える。
ルシーとアントニオが飛行機の墜落事故で命を失ったのは、その年のクリスマスの日だった。その時から残されたウーゴとビクトルの関係は変わった。
エレディア父子が繰り返し行っていた同姓同名探しのゲームは、フランス人のビクトル・エレディアを見つけるためだったのだ。

ウーゴは彼の家族の崩壊とその失われた家族へのノスタルジアと共に、彼が知る限りのエレディア一族の物語をブランリー伯爵に伝える。
それは想像し得る残虐な行為、生死に関わる遺棄、強姦嗜好、様々な肉欲の罪、野心、金銭、権力、奪った生命や略奪した財産、それから新大陸で名を成した者がその上に自分たちの生活を築き上げている貧困、つまりは新大陸の白人たちの罪障の物語なのだった。

“あなたは過去を持つが、それがどんなものか覚えていない。あなたに残されているわずかな時間の中でそれを思い出しなさい。さもなくば、あなたの未来は失われることになるだろう。”

これがこの物語の登場人物皆が分かち持っている義務なのだとウーゴは言う。
語り終えてからウーゴは、この話を他言しないように、もしあなたが不誠実で誰か他の人にこの話をするなら、自分は酷い結末を迎えることになると言う。
謎が解けたと思うや否や、回答そのものが新たな謎となる。ウーゴがブランリー伯爵に思い出させたかった過去とは何なのだろう。

“全ては関連しており、孤立しているものは何もない、あらゆるものはその空間的、時間的、物理的、夢幻的、可視的、不可視的属性の全体を伴っている。”

“すべての物語は他の物語と隣り合っている”

個人個人の運命は、それと対立したり、それを補完したり、それを予示したりする他のすべてのものと結びついている。ウーゴ、ブランリー伯爵、ビクトル・エレディア、それぞれの物語はそれ一つでは未完であり、独立することは出来ない。
『遠い家族』は、ブランリー伯爵が召使たちと共にクロ・デ・ルナール館を去った瞬間に終わることもあり得た。しかし、物語はまだ終わってはいなかった。何故なら物語は未完で他の物語と隣接するという性質を持つからである。ブランリー伯爵の物語は、ウーゴ・エレディアの物語を介してビクトル・エレディアの物語と繋がっていく。

ブランリー伯爵が旧大陸の秩序と理知を象徴する人物なら、ビクトル・エレディアは新大陸の混沌と熱狂を象徴する人物だ。
作中でしばしば悪魔的人物と評されるビクトル・エレディアは、ある特定の時というよりは様々な時間と場所の漠然とした存在である。特定の生年月日も出身地も持たないがゆえに未完の物語をいくつも背負っている。
彼は1812年ラ・グライラで知り合い1864年クエルナバカの売春宿で別れたフランシスコ・ルイスとママゼルの子供であり、フランシスコ・ルイスとその二番目の妻、心優しいが愚かなリムーザン生まれの大食い女の子供であり、ブランリー伯爵がよくモンソー公園に出かけていた20世紀初頭においてブランリー伯爵と同世代の子供でもある。彼は何歳なのだろうか?

様々な時間と場所に存在するかのように見える人物はほかにもいる。
フエンテスの作品では、ある人物と別の人物との重ね合わせがしばしば起きる。『アウラ』では、コンスエロ夫人とアウラ、リョレンテ将軍とモンテーロがその関係にある。
『遠い家族』では、〈私〉がブランリー伯爵の屋敷の一室で出会ったウーゴ・エレディアの妻ルシーの亡霊とビクトル・エレディアが自分の母だというママゼルやブランリー伯爵の少年時代の恋人とが重なり合っている。
この永遠に未完の女性は、ブランリー伯爵においてのみあらゆる時間が蘇るらしい。彼女はブランリー伯爵が死ぬや否や生き始める。ブランリー伯爵は丁度彼女が今までそうであったように、死んだ瞬間から彼女の亡霊になる。彼らは、初めも終わりもない無限の時間や空間の恐ろしい観念の中に存在しているのだ。

“すべてのものは存在しており、我々が忘れ去ることで罪深くも死に追いやらないかぎり、なにものも完全に死に絶えることはない。すなわち、忘却が唯一の死であり、現在における過去の存在が唯一の生なのだよ。”

“思い出したものだけが記憶なんです。”

“我々は時間は自分たちのものだと思っている。しかし共有する時間以外に本物の時間はないということを過去は我々に教えてくれる。”

場面が他の場面と繋がっているのかいないのか、複数の人物から発せられる言葉が関連あるのか無いのか、曖昧なまま物語は拡散していく。
最後に〈私〉が作者のフエンテス自身であることが明かされる。
彼は望みもしないうちに、自分がブランリー伯爵によってこの物語の新たなる語り手に仕立て上げられていることに気づき、愕然とする。
聖マルティヌスの夏、彼はプールの中に臍の緒で結ばれシャム双生児のように抱き合っている皴だらけの顔をした二つの胎児が漂っているのを見つける。彼は二つの胎児の顔に会ったこともないビクトルとアンドレの年老いた顔を見ている。胎児たちが「エレディア、あなたはエレディアですよ」と囁く。永遠に未完のままこの物語は幕を閉じる。

物語が未完のまま次々に引き継がれていくこの出口のない作品について、うまく感想を纏められなかった。代わりと言っては何だが、最後に訳者による解説を引用しておく。

“言葉と意味とが恩寵に至る飛び石とはならず、テキストを追っていくと別のテキストが現れ、前の意味はことごとく覆され、様々な意味に満ち満ちているが〈意味〉を欠いている意味の迷宮にさまよい込んだ感がある。”
コメント

富士花鳥園と朝霧高原観光

2018-08-20 08:40:53 | 日記

先週末に富士花鳥園と朝霧高原に行ってきました。
コースは、道の駅⇒富士花鳥園⇒あさぎりフードパーク⇒本栖湖です。








この日のメインは富士花鳥園。
園内は大輪の球根ベゴニアとフクシアの鉢が床にも天井にも大量に置かれていて、まるで花の宮殿のようでした。他に紫陽花やクリンソウの鉢も。


富士花鳥園といえばフクロウですね。








約30種のフクロウたちに大満足。間近で見るとフクロウって本当に可愛い顔をしていますね。私たちが顔を近づけると鳴き声をあげるフクロウがいて、その時は威嚇しているのかと思ってすぐに離れたのですが、バードショーの時に飼育員さんからかまって欲しくて鳴いているのだと教えられました。甘えん坊さんなんですね。


このフクロウはアナホリフクロウの赤ちゃんです。4月27日生まれ。


園内にはいろんな鳥と触れ合えるコーナーがあります。


私、鳥の中ではフラミンゴが一番好きなのですけど、こんなに間近で触れ合うことができて大感激。
ちょっと触るとサッと避けられるのであまり触れませんでしたが、フラミンゴの羽根はしっかり硬めの感触でした。
フラミンゴはそんなに人懐っこい感じではなかったのですが、娘は何故か好かれたようで度々周囲を囲まれていました。仲間と思われたのでしょうか。


エミューはわりと触り放題。
ゴワゴワでガサガサな手触りでした。








一番下のハリスホークは置物みたいですが、ちゃんと生きています。


兎やモルモットもいました。
この兎さんはつきたてのお餅みたいですね。抱っこしてみたら見た目通りの重量級でしたよ。


カブトムシやクワガタも。




バードショー。
この日はハリスホークとミミズクでした。観客の頭上を飛んだり、池面を横切ったり。
ミミズクの方が特に頑張っていましたね。ところでフクロウとミミズクを分けているのは日本ぐらいで、本当はミミズクもフクロウなんだそうですよ。

富士花鳥園は鳥好きには本当にお勧めです。特にフラミンゴ。


あさぎりフードパークに移動。
富士山サイダーは真ん中の葡萄味が一番美味しかったです。


バニラのソフトクリームはミルクの味が濃厚で、こんなに美味しいソフトクリームは初めて食べたかもってくらい感激しました。さすがに地元牧場の牛乳を使っているだけのことはあります。


お土産は牛乳瓶入りのバター飴。保存料を一切使っていない自然派で、地元産の生クリームがたっぷり練り込まれています。
自宅用とプレゼント用。


本栖湖。
フードパークを後にして、朝霧高原をドライブしながら帰路に就きました。
コメント

辻堂海水浴

2018-08-16 08:36:43 | 日記

先週の金曜日に、辻堂海岸に海水浴に行ってきました。
辻堂海水浴場の遊泳時間は朝8時からなので、私たち家族は7時半くらいから砂浜に待機していました。この時間帯はまだ海水浴客がまばらです。


ライフガードの皆さんも準備中。


ボディーボードを楽しむ娘コメガネと、付き添いの夫。


鴎。人間をまったく恐れません。
至近距離で夢中になって撮影している私の姿を、夫が後方から連写していました。動物園でゴリラを撮影している時にも同じことをされた経験が…。撮った画像を見せてもらいましたが、素の姿って結構恥ずかしいものですね。




10時過ぎから海水浴客が増えて、夏の海らしくなってきましたよ。
私たちはお昼前に撤収しました。この日は日傘が差せないくらい南風が強かったので、日差しをまともに浴びて随分と体力を消耗しました。
日焼けもしました。
私と娘は肌が丈夫なのでそれほどでもなかったのですが、敏感肌の夫は割と悲惨なことになりました。当日は濃い目の魚肉ソーセージみたいな色になっていた肌が、翌日には真っ赤になっていて服が擦れただけで痛む状態に…。暫く猫も抱っこできませんでした。
コメント