青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

グランド・マスター

2018-09-27 07:26:53 | 日記
『グランド・マスター』(2013香港)は、ウォン・カーウァイ監督による伝記的アクション映画。詠春拳の達人として知られる武術家の葉問(イップ・マン)を中心に武術の達人たちを描いた群像劇である。
……と纏めてみたが、カーウァイ作品を何作か観たことがある人なら想像つくように、カンフーを期待したらガッカリする内容である。特に『楽園の瑕』が合わなかった人は本作も合わないこと請け合いだ。イップ・マンはあんまり活躍しないので、美しいルオメイを中心に観た方が楽しめると思う。

主な登場人物は
葉問(イップ・マン)…トニー・レオン
宮若梅(ゴン・ルオメイ)… チャン・ツィイー
一線天(カミソリ)…チャン・チェン
馬三(マーサン)…マックス・チャン
宮宝森(ゴン・パオセン)…ワン・チンシアン
張永成(チャン・ヨンチェン)… ソン・ヘギョ


本作はドニー・イェンの『イップ・マン』シリーズの主人公で、ブルース・リーの師匠として有名な詠春拳の達人、イップ・マンが主人公である。聖徳太子ばりに伝説の盛られた人物であるが一応実在の人物と言っていい。
このイップ・マンの物語に、ヒロインのルオメイの復讐譚が絡んでくるというか、並行しているというか、何だかうまく混ざり合っていない状態で話が進んでいく。
そこにカミソリと呼ばれる達人のエピソードが度々差し込まれるのだが、驚くことになんと、このカミソリのエピソードはまったく本筋と関係ないのだ。何のために出て来たのか分からない人物である。バトルシーンはカッコいいのに勿体ない。
この三人の物語がてんでバラバラな方向に同時進行しているのが、作品としては散漫な印象になっているが、ある意味リアリティがあるともいえる。

舞台は1930年代から1950年代にかけての中国。
時勢と己の肉体の衰えを考慮して引退を決意した北の八卦掌の宗師(グランドマスター)・宮宝森(ゴン・パオセン)は、一番弟子の馬三(マーサン)と、南の詠春拳の宗師・葉門(イップ・マン)を後継者の候補と考える。そこに、バオセンの奥義“葉底蔵花”を受け継ぐ娘の宮若梅(ゴン・ルオメイ)も名乗りを上げる。
しかし、一門の掌握という野望に目の眩んだマーサンがパオセンを殺害してしまう。マーサンのバックには日本軍がいるらしい。
ルオメイは、父の遺言や一門の老人たちの反対を振り切り、マーサンへの復讐を誓う。
…という感じで物語が滑り出すのだけど、当然出番が多いと思われたマーサンがあまり出てこない。

その代わりの様にカミソリの出番が多い。
このカミソリという男は、八極拳の達人で中国国民党の秘密警察の暗殺者だ。負傷して追手から逃れる最中にルオメイに助けられ、ちょっといい雰囲気になるのだが、別に何も起こらない。戦後は香港に渡って白バラ理髪店を経営ながら八極拳を広めるという人物である。
何でこういう構成にしたのかが謎だ。
ルオメイとマーサンを主軸にすればもっとわかりやすい物語になったと思うのだが、ありきたりを外したかったのだろうか。普通でいいんですよ?

カミソリと何も起こらなかったルオメイは、じつはイップ・マンに片思いしていた。
恋のきっかけは後継者争いの手合わせ。
当初はイップ・マンに対して反感を抱いていたルオメイだが、短い手合わせの間にイップ・マンの実力と人柄を認め、惹かれるようになる。しかし、イップ・マンは妻帯者だったので、ルオメイは恋心を封印する。
そんな折、ゴン家のすべてを手に入れることを目論んだマーサンがパオセンを殺害してしまう。
ルオメイは父であり師匠でもあるパオセンの復讐を誓う。
一門の長老たちは、弟子が師匠を殺害するという不祥事の上に、弟子同士の殺し合いまで重ねるな、マーサンを後継者と認めて早く結婚して引退しろと反対するが、父を殺害されたばかりか葬儀まで妨害されたルオメイの復讐に賭ける決意は固かった。
戦後香港に渡り医院を営む傍ら、復讐の機会を窺っていたルオメイは見事本懐を遂げる。しかし、それはまたゴン家の終焉を意味するものでもあった。ルオメイの心は虚しさでいっぱいになる。
再会したイップ・マンからの励ましにも、自分の人生は後悔ばかりだと虚無感に追い打ちをかけられるだけだった。
ルオメイは医院をたたみ故郷へ帰ることを願うが、それも叶わず香港で病没した。幼い頃は何者にもなれると言われたが、結局は何者にもなれなかった。武術の道は全うできず、一生結婚せず、子も産まず、技も伝えなかった。

イップ・マンは広東の佛山の生まれで、父は香港との商売に成功した実業家。妻は清朝の外務大臣の末裔。この手の作品の主人公にしては苦労知らずな前半生を送ってきた男である。
しかし、北の達人パオセンによって、南の流派の代表、詠春拳の使い手として手合わせを申し込まれたことと、その直後に勃発した日中戦争がイップ・マンの人生を大きく変える。
南の流派の達人たちから様々な技を伝授されたイップ・マンは見事パオセンを倒し、北の八卦掌の後継者に推される。
その後、イップ・マンはルオメイからの果たし状に応じ手合わせをする。
手合わせの中でルオメイから六十四手を披露されたイップ・マンは、今度は“葉底蔵花”を見せて欲しいと乞う。
二人は東北での再会を約束するが、日中戦争が勃発したためにそれどころではなくなってしまう。
戦後、佛山に家族を残し単身香港に渡ったイップ・マンは道場を開く。
ルオメイと再会したイップ・マンは、失意に沈むルオメイを励まし、武術の道に戻ることを促すが、技はすべて忘れたと返される。
1953年に香港は身分証制度を施行。これにより香港と大陸との行き来は不可能になった。佛山を出る時に妻と交わした必ず戻るという約束は果たせず、イップ・マンは生涯を香港で終えた。晩年は多くの弟子に囲まれ、その中にはブルース・リーもいた。


カーウァイ監督の特徴であるスローモーションを多用した思わせぶりな映像、美しい小道具や衣装、美女、それからモノローグの多様などが好きな人は傑作とは思わないでもそれなりに楽しめるのではないだろうか。
冒頭に出てくる豪雨の中のバトルなんかモノクロ基調とゴシック風な門扉がすごくお洒落で格好いい。
しかし、このシーンには大した意味がないのである。この後もこの作品は意味ありげなようで実はあまり意味のないシーンがパッチワークのように展開していくので、ストーリーを真面目に追うのはやめておいた方がいい。混乱するだけだ。
カーウァイの作品なので映像はとにかく美しい。
妓楼のシーンは建物の内装、小道具、娼妓たち、どれをとっても富と頽廃美に満ちていて、そこでショーの様に行われる手合わせもまるで二人で踊っているかのように官能的だ。
雪に閉ざされたゴン家の邸宅を舞台にバラバラと落ちる氷柱と共に描かれるパオセンの死、走り抜ける列車を背景に雪のちらつく中でのルオメイとマーサンの対決なども印象的だった。
女性たちの衣装や髪形がお洒落。特にルオメイの衣装は、靴にまで可憐な刺繍がたっぷり施されていて彼女の美しさを際立たせている。チャイナ服に帽子を組み合わせたイップ・マンのコーディネートも格好いい。
一見男性向けのようで、実は女性の方が楽しめる作品なのだった。
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おはぎ作りと彼岸花

2018-09-24 08:46:08 | 日記

日曜日は秋のお彼岸でしたね。
今年も家族でおはぎを作りましたよ。娘コメガネがもち米を丸めて、夫と私とであんこを被せました。


近所の彼岸花です。
彼岸花を背景にこっちを見ている凜を撮りたかったのですが、気が乗らなかったようで何枚撮ってもカメラに目線をくれませんでした。なかなか思いどおりにならないところが柴犬らしいですね。
名前呼んだり手拍子したり色々気を引いていたら、通りかかった人に笑われてちょっと恥ずかしかったです。「この人必死だな~」って思われたんでしょうね。

<
猫たちも喜ぶ小春日和でした。
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溶岩アヒル

2018-09-20 07:24:30 | 日記



夫が出張先で貰って来た溶岩がうちのアヒル隊長にそっくりでした。
単体で見るとよく分からないかもしれませんが、並べるとそっくりなんです。
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飛ぶ孔雀

2018-09-18 07:38:53 | 日記
山尾悠子著『飛ぶ孔雀』は、「飛ぶ孔雀」と「不燃性について」の二部からなる長編小説。第一部の「飛ぶ孔雀」は8つの章、第二部の「不燃性について」は16の章によって構成される。


“シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。”
最初の一行からいきなり山尾ワールドである。
しかし、これまでの無国籍的で人工的な作品とは趣が異なり、架空の都市を舞台としつつも、処所に懐かしさと庶民的なにおいを感じさせるのが新しい。
舞台となるのは、中州にある広大な日本庭園、対岸の天守閣、川に架かる橋を揺らしながら通過する路面電車、石切場のある山、すり鉢状の構造の街など、京都、岡山、広島、高知など日本の古い地方都市のイメージを繋ぎ合わせた架空の都市だ。
一つ一つのパーツは日本的でありながら、俯瞰すると見たこともない異界が広がっている。山尾悠子はまた一段、進化を遂げたようだ。

登場人物の名前は、日本名の者もいればアルファベット一文字の者もいる。名前の付け方に法則は見られない。重要度が高いと思われる存在でもアルファベットの者もいれば、モブに近い脇役でもちゃんとした名前の者もいる。
一部二部とも小さなエピソードが未完のまま次々に連結しているが、その並びにも法則性はないようだ。記号的な登場人物、場面、小道具が、時系列がバラバラな状態で連なり、イメージの破片が乱反射する眩い異界を構築している。
一つ間違えれば無秩序になりかねない作品世界を支えているのは、練りに練られた美しい文章と精緻でリアルな情景描写だ。幻想的でありながら、ときに生々しくもある独特な雰囲気が読者を強く魅了するのだ。

例えば、第一部「飛ぶ孔雀」の〈火種屋〉。
人々が日々の炊事や煙草の火に使う火種は、煙草屋兼雑貨屋で売られているのだが、その扱いの描写が細かい。
その場で煙草に吸い付けていく者には紙縒りの先に移した火を渡すが、持ち帰り用の火種は火種入れと呼ばれる専用の容器に入れて売られている。
それは小型の香合ほどの大きさで、丸く平たく、金属製の物が殆どだが、陶器製の物もしばしば見受けられる。中身がこぼれ出ないよう蝶番の付いた丸い蓋は金具で固定されるので、爪の先でつまみの金具を引きながら開けることになる。携帯する時には信玄袋に入れる。火種入れは安価な物なので、火種の持ちが悪くなったら火種を買う時に容器ごと交換しても良さそうだ。
火種屋は煤で真っ黒になった桶の中で火種用の火を熾す。この場合の火は、必ず石による切り火で熾される。大桶の中に敷かれたシュロの繊維に引火した火は、やっとこで荒っぽく小分けにされていく。

石切り場の事故と火が燃え難くなったという現象の因果関係は最後まで明かされない。この世界では当然の事実なので敢えて読者に説明はしない、そこに妙な説得力がある。
そうした状況下で暮らす人々の日常生活が細部まで丁寧に綴られ、積み重ねられていく。そのイメージの堆積の中に溶け込んで、最初に感じた疑問が飴の様に小さくなっていくのだ。

火が燃え難くなったことで、バラック住まいの者も豪邸住まいの者も等しく難儀している。それを発端として、彼らの身の上にそれぞれのドラマが訪れる。

〈柳小橋界隈〉の柳小橋とは、シブレ山の南東に広がる城下町を流れる川の、中州の多いあたりに集中して架かる橋の一つのことだ。路面電車が通り過ぎるのはこの橋だけである。
橋の下に積み重なったバラックの一軒に住むトエは、七輪で火を熾すのにも場所を選ばねばならない。外の物干し場まで七輪を持ち出してみることもある。中洲の最南端に突き出たこの場所は、何度も濁水に浸かったために傷み放題だ。
中洲の多いこの辺りまでわざわざ漕ぎ上がってくる舟は滅多にないが、ある時物干し場に近寄って来た川舟があった。器用に漕ぎ寄せて来たその男は、二度目に来た時にはトエの恋人になっていた。宵闇にとぼしく灯る火を目印に、男は舟でトエの元に漕ぎつけるのだ。

〈岩牡蠣、低温調理〉は、Pが友人たちと共に、かつての同級生で最近未亡人になったLの豪邸で振る舞われた料理である。
冷たい前菜いろいろとシャンパンのあとで薄くスライスした岩牡蠣のマリネ。オイルを添えたパンとサラダ。卓上に犇く皿の品数は食べきれない量になっているが、湯気の立つ種類の料理は何もない。「ガスレンジの調子が悪くて手の込んだ料理が出せないのよ、ごめんね」「くるまだってこの頃はエンジンがかかり難いし。あれも要するに点火させる訳だから」そこで出張シェフによる低温料理の蘊蓄が始まる。
食後、庭で手花火に興じることになる。火の反応の良い場所は日々変わるらしい。Lが火種を閉じると同時に、夜景のおよそ半分ほどの灯がいきなり消失した。

各章は各々が独立しているようで、緩やかに繋がり合っている。
断片的な挿話が次から次へと繰り出され、イメージが増幅していく。それらのすべては、〈飛ぶ孔雀、火を運ぶ女〉に集結する。

“川中島Q庭園での夏の大寄せが、夜に至って魔界と化すこと。意外に孔雀は飛ぶ。その烈しい風切り音は泥棒避けとして充分に有効である。盗みの対象はこの場合、火、だった。”

恒例の花見を兼ねた大寄せは、今年は諸事情から盂蘭盆の日の夜に振り替えられた。
ここでも火が燃え難くなっていることが人々の話題になっている。
裕福な年配女性の「下界は茶会の最中、さて参りましょうか」のひと言で、魔界の扉が開く。
禁忌は色々あるが、とにかく芝を踏むな、これが一番大切。
四万坪ほどの敷地内に掛かった亭舎が点在しているのだが、全部を回るとすれば歩行距離は数キロに及ぶ。今年は異母姉妹のタエとスワが火を運ぶ役だ。導きの書は『灰之書』。姉妹は亭舎を巡って茶釜に火を届ける。途中で火を絶やしてはならない。
双子が火を盗もうとする。赤い目の孔雀が姉妹に襲い掛かる。石灯籠の「空洞くん」が関守石を産んで増殖させる。「空洞くん」は関守石を持ち去る孔雀とは相いれない仲だ。

大寄せの描写は夢のように美しい。
城下町を大きく蛇行して流れる夜の川。一斉にライトアップされると、池泉回遊式庭園は一面が光の海になる。その眩い閉鎖的空間を来客たちが魚の様に周遊する。陶器の火入れを手にした姉妹が、艶やかな孔雀が、増殖する石灯籠が動き回る。
この幻想的な光と闇の世界は、ピークを極めた瞬間、完膚なきまでに崩壊するに違いない。その瞬間を恐れと期待を抱きながら読み進める。これが山尾作品の醍醐味だ。


第一部の「飛ぶ孔雀」が孔雀の羽根のように絢爛たる宴のイメージなら、第二部の「不燃性について」は地を蠢く大蛇のような地下迷宮のイメージだ。

「不燃性について」は、“若いGがじぐざぐの山の頂上へ至るまでのおおよその経緯”を描く〈移行〉からはじまる。
舞台は「飛ぶ孔雀」と同じ町だが、季節は秋に移っている。テレビニュースでは地元Q庭園の大温室が取り壊されている様子が映し出されている。以前から老朽化が問題となっていたことに加え、夏に小火騒ぎがあった件にもニュースは触れている。
同じ町であるが、「飛ぶ孔雀」が中州及びその周辺を舞台としているのに対し、「不燃性について」は、古い公会堂の地下公営浴場、副業の卵配達をさばきながら夜の街を走る路面電車、路面電車の電気軌道のカーブに面した三角ビル、動物の死骸を煮込んで骨を取り出す頭骨ラボなど、舞台となる場所があちこちに点在する。

「飛ぶ孔雀」にも登場したKに加え、劇団員Q、路面電車の運転士ミツ、ダクト屋セツ、ネズミと呼ばれる浮浪児、掃除会の剣呑な老人たちなど、数多くの人物が入れ代わり立ち代わり登場するが、彼らからは活き活きとした体温は感じられず、言動や心情は極めてシンプルで記号的だ。
無機的で記号的な人物たちが、巨大なすり鉢状の舞台を動き回る。そんな彼らと、川沿いの地下公営浴場、古ビルの素人劇団、石の畸形化、自警団の喫煙者狩り、修練ホテルの双頭標本、占い付きの富籤、地下を移動する大蛇など怪しく仄暗いイメージの事象が化学反応を起こす。次々に生み出される物語が連鎖して、最後にKが古襖を開けると、そこには―――。

城下町を蛇行する川、路面電車のレール、地下エリアのダクトなどはウロボロスの暗示と取れないこともない。
長い地下の旅を経てKが辿り着いたのは〈柳小橋界隈〉なのか。彼を待っていた少女はトエなのか。そうとも読めるし、誰か別の人間の記憶とも読める。
「飛ぶ孔雀」と「不燃性について」は、閉ざされた円環の世界のようだが、最終章でミツの運転する路面電車がそれを突き破ったようにも読める。すべてが謎のまま、満艦飾の世界は幕を閉じる。

本書には主人公と呼べる人物がいない。全編を貫くテーマもない。人物の内面やストーリーを描くことに主眼を置いているようにも思われない。
バラバラの破片のようなイメージを繋ぎ合わせて描かれるのは、場所である。人物の思想や人格、行動が他の誰かに影響を与えるのではない。物語の中に目に見えない磁気のような力を持つ場所が存在し、それが人物に影響を与え、動かすのだ。
煌びやかな仮想空間を構築するのが、独自の美意識から生み出される端正で硬質な文章である。山尾作品を楽しむということは、イコール言葉を楽しむということなのだろう。
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臍の緒は妙薬

2018-09-13 07:33:09 | 日記
河野多惠子著『臍の緒は妙薬』は「月光の曲」「星辰」「魔」「臍の緒は妙薬」の四篇からなる短編集。

現実と妄想が境目なく入り混じる河野多惠子らしい作品集だ。
日常の些末な出来事と際どい性癖が思いつくままに脈絡もなく語られているように見えて、冗長と感じさせないのは稀有な才能だと思う。淡々とした筆致で綴られているのでついついボンヤリ読み進めてしまうのだが、気が付くとダメージが蓄積されていて癖になる作風だ。

表題作「臍の緒は妙薬」が、子供の頃に母親から臍の緒を飲まされたらしい老女の物語だ。
峰子は戦時中に小学生だったので当然戦争の描写が出てくるし、年齢的に身内の死や葬式の場面も多い。
しかし、それらにまつわる出来事の扱いが独特なのである。
峰子の友人の好きなCMや甥から贈られてきたおかき、親族の経歴といった本人以外にとってはどうでもいいような些末な事柄とほとんど同じ日常の一コマ扱いなのだ。そして、それらのすべてが臍の緒に繋がっている。一人の平凡な女の人生が、思い出の断片の積み重ね方によって異様な時空間に変わる。

峰子はある小説を読んでいて、臍の緒は妙薬であるという言い伝えを知る。
その小説には、

“臍の緒は、大病にかかった当人に煎じて服ませれば助かる妙薬であるという。人間の大病は一生に三度と思えばよい。で、三回分取っておくことになっていて、その一部なり、全部なり、不要であった臍の緒は、最後に当人と共に棺に納めてしまうわけである。”

とあって、それを読んで以来峰子は臍の緒のことが片時も忘れられなくなるのである。

峰子は命が危ぶまれた大病を二度経験している。
最初の大病は乳児の時。二度目は小学校二年生の時で、どちらもクルップ肺炎だった。峰子は臍の緒が入っているという兄弟五つ分の包みのうち、自分の一本だけに開けられた痕跡があったことを思い出すと、それを開けたのは母親で、恐らく秘かに峰子に服用させたのではないかと思うようになり始めた。
唯の憶測である。
峰子のクルップ肺炎の話は幾度もしていた母は、そういうものを服ませたとは一言も話していない。それを峰子は、迷信に縋って病気の幼児に体に障るかもしれないものを服ませたことが疚しくて話せなかったのではないかと考える。
峰子がその話をしたのは、夫の加山の他にない。兄弟に対してさえ、勇気がなくて話せなかったのだ。

“彼女は赤ん坊の自分にそれを服ませてくれた時の母の気持を想像する。ひとりで思い惑うた挙句、一か八かの気持で服ませたにちがいない。助かるかもしれない。が、恐ろしいことになるかもしれない。震える手で、妙薬を服ませる母は、同時に毒でも服ませる気持であったことだろう。恐ろしい慈母である。”

癌を患った妹が亡くなると、峰子は妙薬のことを最後まで話せず仕舞いになったことを後悔した。万が一にでも妹を救えたかもしれないという後悔ではなく、妙薬の効能を試すことのできた機会をつかみ損ねたという後悔である。
その後も大病人が出ると、臍の緒はお持ちでないかと思う。そうして、言い出せないままその人が亡くなると、絶好の機会を自分の不決断から見送ってしまったことを後悔するのだ。

「月光の曲」は戦時中の尋常小学校が舞台。
戦中であることをことさら強調せず、あくまでも当時の子供達の日常風景として淡々と描がいている。始終不穏な空気が付きまとうのは河野作品の平常運転だ。タイトルは作中で国語の教科書に載っているベートーベンの物語のこと。
〈ですます調〉の語りと〈である調〉の語りが所々切り替わるが、特に法則がある訳でもなく、語り手が変わったのか同じ人物なのかも不明で、妙にゾワゾワさせられた。

「星辰」は開業医の妻が占い師に夫を鑑定してもらう話。
一見ありきたりな夫妻の日常風景の中に、占星術といういかがわしい匂いのする異物が入り込む。平凡で真っ当に見えた夫婦のエピソードが、最後の一文ですべて異常だったことが明かされる。作中で史子が夜食として作る「やきやき」を真似して作ってみたら結構美味しかった。

「魔」はコーンスターチで夫と自分の子供を作る女の話。
4篇の中では一番解り易く主人公の執念が描かれている作品だが、その分妙味は薄いかもしれない。子供のいないM子が人造の幼児を作るのがホムンクルス伝説のようだが、その素材がコーンスターチという台所でおなじみの食材なのが河野多惠子らしくて不気味だった。

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