青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

満開の彼岸花

2019-09-30 07:52:57 | 日記

二週間前に続き、先週末も小出川に行ってきました。場所は、かなり藤沢寄りの茅ヶ崎です。
前回行った時には、彼岸花は二割も咲いていませんでしたが、今回はほぼ満開。看板の写真通りの花の道ができていて本当に綺麗でした。




近くで写すとまるで赤い絨毯のようです。


































圧倒的に赤い花が多かったのですが、白い花もそれなりの数が咲いていました。


田んぼと彼岸花。


彼岸花とコメガネ。

前回はガッカリ感が強くて片道一キロくらいしか歩きませんでしたが、今回は歩いても歩いても花が咲いているのが嬉しくて、片道三キロ、往復で六キロくらい歩いてきましたよ。我ながらゲンキンなものです。
コメント

秋の彼岸明け

2019-09-27 07:13:25 | 日記
昨日は、今秋の彼岸明けでした。
長かった残暑も漸く衰えを見せるようになって、随分と体が楽になりましたね。この日の娘コメガネは、藤沢市民会館の合唱コンクールに参加していましたよ。


合唱コンクールに持たせたお弁当。
チキンのトマト煮を中心に、ひじきのサラダや卵焼き、ゴールドキウイなど。
夏場のお弁当は、保冷バッグに保冷剤をモリモリ詰め込んでいましたが、今回はそういうのは無しで済みました。最高気温が30度を下回ると色々楽です。

ところで、コメガネの中学校は、給食か弁当持参を選択できるようになっています。
うちは10月までの給食費を前払いしているのですが、それ以降はお弁当に切り替えようと思っていますよ。
と言いますのも、以前このブログでコメガネの顎関節症の話をした時にも言いましたが、藤沢市の中学校は昼食の時間が15分しかないんですね。当然の如く、毎回お残しする羽目になるそうで、もったいないなと思っていました。15分では、顎関節症じゃなくても食べ終われませんよ。
先生方は昼休みにも食べていてもいいと仰っていますが、給食係が昼食の時間が終わる前に食器を片付け始めてしまうので、延長戦は実質無理。そんな訳で、10月以降は15分で食べ終われるだけの分量のお弁当を持たせようと考えています。お弁当なら時間内に食べ終われなくても、昼休みに食べられますし。


おまけの蓬&柏兄妹。
ヨモモン、檻に顔押し付けすぎ。頬っぺたのお肉がひしゃげています。
コメント

小出川の彼岸花とおはぎ作り

2019-09-24 07:50:03 | 日記

22日に小出川で彼岸花祭りが開かれると聞いたのですが、その日は雨との予報だったので(日中は降りませんでしたが)前日に見に来ました。


川岸はこんな状態。緑ばっかで期待していたのと違いました…。
うちの近所もですが、今年は彼岸花の開花時期が後ろにずれ込んでいるみたいです。


それでもポツポツとは咲き始めていました。彼岸花と蝶はどちらも冥府との縁が深いですね。
















彼岸花は赤い方が好きなのですが、曇天のせいか、この日は赤い花の色が少しくすんで見えました。白の方が綺麗でしたね。






蕾はそれなりの数が見られたので、球根が減少したのではないと思います。来週くらいに見に行けば綺麗に咲いているかも?


看板の写真を見ると、満開の時期は本当に綺麗なんだと思います。今回はちょっと残念でしたけど、家族の予定が合えば月末に出直そうかと。


月曜日には、家族全員でお彼岸のおはぎを作りました。我が家の恒例行事の一つです。




粒餡と黄粉です。
コメント

ロシア短編集

2019-09-19 07:14:16 | 日記
トルストイ他『ロシア短編集』には、ボルヘスによる序文と、ドストエフスキー「鰐」、アンドレーエフ「ラザロ」、トルストイ「イヴァン・イリイチの死」の三篇が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の16巻目にあたる。私にとっては24冊目の“バベルの図書館”の作品である。

ドストエフスキー「鰐」は未完作ということで期待が下がったため、アンドレーエフ「ラザロ」→トルストイ「イヴァン・イリイチの死」→ドフトエフスキー「鰐」の順で読んだ。結果、「鰐」が一番面白かった。他の二作が詰まらなかったのではない。むしろ凄く良かった。単に「鰐」が私の趣味だっただけだ。
三人の文豪が三様の死と生の姿を描く、大変レベルの高い短編集である。
ただ、「イヴァン・イリイチの死」は、読んでいて心が内側からゴリゴリ削がれるので、これを最後に読むより、笑いの要素が強い「鰐」で締めたのは、個人的にはいい選択だったと思っている。


アンドレーエフ「ラザロ」は、病死し、埋葬された三日後に、キリストによって墓から蘇らされたラザロのその後の物語。
ラザロの蘇りは新約聖書の中でも有名なエピソードで、これを主題にした作品も多いから、キリスト教徒でなくても知っている人は多いと思う。しかし、アンドレーエフの描く奇跡の人のその後の人生は、あまりにも救いのない悲惨なものだった。

物語は、ラザロの復活を祝う祝宴から始まり、両目を焼き潰されて荒野に去って行くラザロの姿で終わる。

人々は、最初は奇跡の体現者としてラザロを祝福する。
しかし、死から蘇ったことで、ラザロが死神よりも「死」そのものの存在に変容したことに気が付くと、人々は彼を避けるようになる。彼の身体のすべてに、一度死んで腐敗の始まった名残が残っている。特に眼がいけない。ただ彼の視界に入るだけで、人々は耐えがたいほどの恐怖を覚えるのだ。

ラザロの態度は一貫して変わらない。彼は一人静かに悲嘆にくれているだけだ。
彼から人々に何かを仕掛けることは一切ない。そもそも彼自身の意志で蘇った訳でもない。それなのに、家族が、村人が、学者が、最後には皇帝が、一方的に彼を恐れ疎み、ある者は背を向け、ある者は心を病み、ある者は攻撃する。
キリストの奇跡がラザロの人生の幸福に何一つ寄与していないばかりか、彼からすべての希望を奪い、生前の彼を知る人々の記憶から、かつての陽気で愛すべき若者だった頃の彼の姿を塗りつぶしてしまう。ラザロは何も悪くない。かと言って、彼を恐れる人々が悪いのでもない。ぞっとするほど理不尽で寂莫とした思いの残る作品だった。


ドストエフスキー「鰐」は、見世物小屋の鰐にうっかり飲み込まれ、鰐の腹の中で暮らすことになった市役所職員の物語。
この作品を読むまで、ドフトエフスキーにお笑いのセンスがあるなんて知らなかった。代表作を一つ二つ読んだだけで、分かった気になってはいけないと自省する。

役所勤めのセミョーンは、ある昼下がりに、友人で、同僚でもあり遠縁にもあたるイワンとその妻エレーナと共に、ペテルブルグのアーケード街で見世物になっている鰐を見物しに行った。

実際見てみると、鰐は期待したより面白みのない生き物だったので、セミョーンとエレーナは猿の展示されている檻に移動する。
すると、次の瞬間、セミョーンたちの背後で、この世のものならぬと評したいほどの叫び声が上がったのだ。振り返ったセミョーンたちが見たものは、今まさに鰐の口に飲み込まれようとしている最中のイワンの姿であった。

この場面のイワンの描写は、噴き出さずにはいられないほど滑稽で、セミョーンのイワンに対する態度が友達なのに冷たくないか、という疑問を感じるのに少し時間がかかる。ボケ・ツッコミともそのくらいの好プレーである。
笑いが落ち着いたところで、セミョーンは、実はイワンのことがあまり好きではないのかもしれないと思い始める。その後、そうなんですとばかりに、セミョーンとイワンの歪んだ関係の描写が始まる。読者の反応を正確に予見して、回答を示しながらストーリーを進行するドストエフスキーの配分がすごい。

冒頭にフランスのナンセンスな地口を引用しているあたりに、ドストエフスキーが終始一貫ふざけ倒すつもりで本作を執筆し始めたことが窺える。
物語は残念ながら、セミョーンが不穏かつ軽薄な新聞記事を読んで驚愕しているところで未完に終わっている。これは、時間が無くて続きを書けなかったというより、物語をこれ以上広げることも畳むことも出来ずに立ち往生してしまったのではないかと推測する。そんなところも含めて笑うのが本作の読み方なのだろう。
ドストエフスキーといえば、『罪と罰』とか『カラマーゾフの兄弟』など、人間の魂の深淵を覗く作品が印象的であり、本作にも哲学性や社会風刺の気配を感じ取ることは可能である。が、そんなことはどうでも良くなるくらい笑える場面の連続なのだ。
特に、選民気取りで、誇大妄想としか思えない人生計画を捲し立てるイワンには、お前は鰐の腹の住人になったくらいで何を得意がっているのかとツッコミを入れたくなる。そう思う一方で、鰐の中で暮らす人間なんて、未だかつて存在したためしがないので、彼が天狗になるのも一理あるような気もする。
イワンの弁舌は、薄っぺらなわりに異様にしつこく、ショックで頭がおかしくなってしまったのかと思えてくる。しかし、彼は元々病的な虚栄心の持ち主で、この出鱈目な物言い自体、いつも通りの日常的な彼を偲ばせるものであるらしい。そんな訳で、今一つ親身に思えないセミョーンの反応や、早くも未亡人ヅラで新しい男探しを始めているエレーナの態度にも、仕方ないよねと思ってしまうのだ。

イワンを救出するには鰐の腹を裂かなければならない。
しかし、セミョーンが役所の先輩に掛け合っても、休暇中に本人が起こした事故を官費で調査する理由がないし、鰐は興行主の私有財産だから強制的に腹を裂く訳にはいかないと、お役所ルールを説かれた上に、誰かに無理やり鰐の腹に押し込まれたのではないし、本人も快適に暮らしているのだから心配無いじゃないか、鰐の腹の中で暮らすのが彼の宿命だったのだよと、ものすごく他人事な態度でこの件を打ち切られてしまう。
興行主夫妻はというと、この珍事をビジネスチャンスとしか思っていないので、セミョーンの協力要請には断固拒否の態度だ。
何よりも、イワン自身に鰐の中から出てくるつもりが一切ない。彼はスペースに余裕があるから、エレーナとセミョーンも鰐の中で一緒に暮らそうとまで持ち掛けてくる。
その後も、イワンの頭が沸いているとしか思えない熱弁と、それを助長するような興行主の皮算用は鳴りやまず、物語をますます狂った方向に押し進めてしまう。
秘書の役目を押し付けられたセミョーンは、「熱病だ、熱病に浮かされているんだ」とブツブツつぶやくしかないのだった。

天井知らずにのぼせ上るイワンをはじめ、キャンディーのように甘く可愛らしいが頭空っぽのエレーナ、ブロークンなロシア語で金の話しかしないドイツ人の興業主夫妻、高潔であるが何一つ役に立つことを言わないチモフェイ老人等々、困った性格の登場人物ばかりである。
その中で、セミョーンだけが彼らに振り回される常識人のポジションを死守しているように見えるが、彼も時々残念な人柄を垣間見せることがある。この先、新聞記事に狼狽えたセミョーンが何かを仕出かす臭いはプンプンする。


川端香男里による付録の『ロシアの世紀末』には、ドストエフスキーやトルストイが愛唱した詩人チュッチェフの詩が引用されている。

“ロシアは頭だけでは理解できない
並の尺度では計れない
ロシアだけの特別の体躯があるから
ロシアは信ずるしかない。”

この短編集の帯に推薦文としてそのまま使えそうな詩だ。
ロシア文学といえば、倫理性と教訓性を全面に押し出した重く泥臭いリアリズム文学、そんなイメージが強かった。本書に収められた三篇は、そんな“並の尺度では計れない”寓意と詩情の込められた幻想小説であった。
コメント

パラケルススの薔薇

2019-09-12 08:06:12 | 日記
ボルヘス著『パラケルススの薔薇』は、フランコ・マリーア・リッチによる序文と、「一九八三年八月二十五日」「パラケルススの薔薇」「青い虎」「疲れた男のユートピア」「等身大のボルヘス」「ボルヘス年譜・書誌 目黒聰子編」が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館”シリーズの22巻目で、私にとっては23冊目の”バベルの図書館“の作品である。
“バベルの図書館”シリーズの装幀は、全巻表紙を前面に向けて並べて飾っておきたくなるほど美麗だが、中でも、前方に赤い薔薇、後方に燃える青い虎、という配置の本書は、高貴と神秘を兼ね備えた最高のデザインだと思う。

本書はボルヘス自身の作品集なこともあって、通常はボルヘスが担当している序文を、編集者のフランコ・マリーア・リッチが務めている。短くも洒落た内容で、リッチの編集者としてのセンスが光っている。

“本書はボルヘス自身にとっても驚きとなるであろう。というのも、わたしが《バベルの図書館》の館長の特権を奪って、同氏の名を叢書のなかにすべり込ませたからである。ねがわくば、著書にとっても、もちろん本叢書の読者の方々すべてにとっても、うれしい驚きとならんことを。”

随分と素敵な言い回しではないか。
私は“バベルの図書館”シリーズを読むにあたって、自分なりに読む順番を決めて表にしておいたのだが、この序文を読んで、本書こそを最後に取って置くべきだったと少しだけ後悔したものだ。
本書に収録されている「一九八三年八月二十五日」「パラケルススの薔薇」「青い虎」「疲れた男のユートピア」の四つの短編は、ボルヘスが80の齢に差し掛かって書き上げられた作品たちだ。これらの作品の主調は、「青色」と「薔薇色」で、この二色はリッチによると、“誕生と文学の色であり、天から失墜して、盲目の闇のなかに再び慰めを見出した精神の色”なのだそうだ。


「パラケルススの薔薇」は、灰から蘇る薔薇の物語。

“この薔薇を火中に投ずれば、それは燃え尽きたと、灰こそ真実だと、おまえは信じるだろう。だが、薔薇は永遠のものであり、その外見のみが変わり得るのだ。ふたたびその姿をおまえに見せるためには、一語で十分なのだ”

パラケルススとは、中世に実在した錬金術師である。医師であり化学者でもあった。彼は物質のすべてを黄金に変えることができたという。

パラケルススの工房に、夜半見知らぬ男が訪ねてきた。男はパラケルススに弟子入りして、錬金術を教わりたいのだという。
男は金貨の詰まった袋をテーブルに置くと、一輪の薔薇を差し出した。

“師は薔薇をいったん焼き、その術を用いて、灰の中からそれを蘇らせることができるとか。その奇跡を私に見せていただけませんか?”

弟子にして欲しいと押しかけておきながら、いきなり相手を試すような真似をするとは何事だろうか。いったいこの男は自分を何様だと思っているのか。奇跡を目撃するという恩恵に与るのにふさわしい何かを、これまでにしたことがあるのか。
男はパラケルススが本物の錬金術師か、それともただのペテン師かを知りたかったらしい。果たして、男はパラケルススにどちらであって欲しかったのだろう?

男が薔薇を火中に投じると、薔薇は忽ち燃え尽き、僅かな灰だけが残された。
薔薇がいったん消えてまた現れる、その有様を見せてくれるなら、私はあなたの弟子になろう、と男は言う。男はパラケルススの言葉と奇跡を待った。
そんな男に対して、パラケルススは少しも動じることなく、妙に砕けた調子で、こう話しかけた。

“そこにある灰は、さっきまで薔薇だったが、もう二度と薔薇に戻ることはないだろう”

「この目で見たことを、私も信じる」と言う者は、その目で見たことでさえ、錯覚ではないかと疑うのをやめることが出来ない。奇跡から確信を得ることができない者は、奇跡から見放される。彼が灰から蘇る薔薇を見ることは決してない。
男が去った後、パラケルススは僅かな灰を掌に載せて、小さな声である言葉を唱えた。薔薇は蘇った。


「青い虎」は、幻の青い虎と子を産むという青い小石の物語。

“ブレイクはその有名な作品の一節で、虎を光りかがよう炎と〈悪〉の永遠の原型に仕立てている。私はむしろチェスタトンのあの言葉を好ましいと思う。彼は、この上ない優雅のシンボルと虎を規定している。いずれにせよ、何百年も前から人間の脳裏に宿っているあの形象、虎の記号たり得る言葉は存在しないのである。”

「青い虎」の語り手は、ジャングルで発見されたという青い虎の捜索に失敗するが、代わりのように子を産むという青い小石を手に入れる。
小石はかき集め、ばらまくたびに増えたり減ったりするが、その数にはどんな法則も当てはまらない。どうやら、語り手は、人間精神の本質的な法則と矛盾する唯一の物体を発見したらしい。語り手は、摩訶不思議なるものの主たる魔術師の様な気分になり、見守る村人たちは驚愕と恐怖の表情を浮かべる。

“最初、私は気が狂ったのではないかという不安に苦しめられた。時がたつにつれて、いっそ気が狂ってくれたほうがいいと思うようになった。私自身の錯乱など、この宇宙に無秩序が存在することの証左に比べれば、とるに足らぬことであったからだ。仮に二足す一が二であったり十四であったりするならば、理性は狂気に他ならない。”

語り手は、小石に傷をつけたり、割ってみたりと、様々な実験を試みた。子を産む小石という、あの数学からの逸脱の中に何とか秩序を見出したかったのだ。
彼は、寝食を忘れて変化の統計を取ったが、小石の転がり方に秩序を、隠された図形を見出すことが遂に叶わなかった。小石たちは算数や蓋然性の計算に拒否の態度をとったのである。四十個の小石が割られると、九個の商を生じることもあった。同じ様に割られた九個が三百個を産むこともあった。数が無秩序である一方で、色はつねに、あの青であった。

一月後には、語り手は、この混乱は収拾できないことを悟った。
彼はモスクの門をくぐると、この重荷から解き放って下さるようにと祈った。そして、何処からともなく現れた盲目の乞食に、乞われるままにすべての小石を恵んだのだった。

「パラケルスの薔薇」と「青い虎」は、奇跡を試すことで、奇跡からはじき出された者の物語であるようだ。


「等身大のボルヘス」は、1973年にブエノスアイレスの国会図書館において行われたインタビューの転載だ。
インタビューは、幼年期の文学との最初の出会いについてから始まり、受けた教育、好きな言語、文学、ブエノスアイレスという街などが、ボルヘスの人格形成と作品にどのような影響を与えてきたかが、理解できる内容になっている。

幼年期から英語とスペイン語の二か国語を操り、ポーの短編、デュマやサー・ウォルター・スコットの小説、ホルヘ・イサアクスの『マリア』、スペインの古典的な作品などを読み、中等教育時代にはラテン語でセネカとタキトゥスを読んでいたという神童ぶりには感嘆を禁じ得ない。そんなボルヘスは、自身の短所について、嫉妬深さ、度を越した虚栄心、独断的になる傾向、と答えている。

インタビューは、ボルヘス自身による作品の検討を経て、ボルヘス作品の主要テーマ、〈迷宮〉〈鏡〉〈円環〉〈虎〉〈ナイフ〉〈ブエノスアイレス〉について、いつ、どこで、なぜ、それらのテーマが現れたのかを一つ一つ解き明かしていく。
〈虎〉は、本書収録の「青い虎」のテーマでもある。
インタビューにおいて、ボルヘスは、幼少期に近所の動物園で見た大きなベンガル虎の想い出から「虎たちの黄金」を書きつけたと解説する。物理的にではなく感情的に、ボルヘスが初めて見た色は虎の黄色であり、それは、殆ど視力を失った現在も見間違えることの無い、ただ一つの色なのだそうだ。
更に、ボルヘスは、虎には美と力という観念が備っていると述べる。ボルヘスの妹は、「虎は愛のために造られたのよ」と述べ、カンシノス=アッセンスは、「私は優しい虎になろう」と謳った。
また、チェスタトンは、悪の起源を語った詩で、「虎は恐るべき優雅の象徴である」と謳っている。そこでは美の観念と残酷の観念が結びついているのだ。ボルヘスの虎は、チェスタトンの虎に近い存在であるようだ。


「ボルヘス年譜・書誌 目黒聰子編」のなかに収録されている「個人図書館〈Biblioteca personal〉について」は、アルゼンチンの出版社がキオスクで売る為の本の企画として、ボルヘスに作品の選択と編集を依頼した「個人図書館」という名作選のリストである。
叢書は1985年5月から週刊で一巻ずつ刊行され始め、1986年、ボルヘスの死によって未完に終わった。
リストに記された錚々たる作品群(日本文学からは『伊勢物語』が選ばれている)は、すべて、ボルヘスが夥しい数の作家と作品を検討し、何度もリストを練り直した、云わば文学の精鋭部隊だ。これらがキオスクで売られるなんて、この企画自体が一つの奇跡のようである。
ボルヘスは、毎夜遅くまでこの企画のための仕事を続けていたそうだ。リストを見ていると、深夜、古いアパートの一室で机に屈み込むボルヘスの背中が眼前に浮かんでくるようだ。リスト自体が一つの作品といってもいい。
そして、本書の序文の最初の一文、ヴォルテールの『アマベッドへの手紙』の流麗なくだりが心に蘇る。

“ビルマの神とブラマ神に、あなたのご寿命が百と三十まで永らえますよう、お祈り申しあげます。齢これを過ぎれば、もはや重荷となりましょうから”
コメント