青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

クリスマス2021

2021-12-26 09:40:05 | 日記

今年のクリスマスも自宅でお祝いしました。
メニューは、鶏の丸焼き、アクアパッツァ、キッキュ、ミネストローネ、苺のサンタケーキ。ドリンクは、夫と私は梅酒、娘コメガネはコーラです。


苺のサンタケーキ。


ケーキのスポンジは前日に焼いておきました。


小さな苺サンタたち。
目は溶かしたチョコレートです。爪楊枝でつけているのですが、なかなか上手くいかない……。


中にキウイを挟んでいます。


鶏の丸焼き。


中にローズマリーを詰め、表面にクレイジーソルト、ニンニクをまぶし、馴染んでから、グレープシードオイルを塗ります。


200度のオーブンで75分焼きました。


アクアパッツァ。
タラと海老、椎茸、キャベツ。


野菜たっぷりミネストローネ。


キッシュ。
ほうれん草、ソーセージ、エノキ、ミニトマト、ゆで卵。


娘コメガネのプレゼントは、編み上げブーツ。




それと、ジャンパースカート。温かそうな起毛素材です。




私は、花柄のワンピース。

夫は今は特に欲しい物が無いそうなので、またの機会に。




クリスマスの飾り。
大きなツリーはもう何年も出していません。

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冬のホクホクおやつ

2021-12-20 08:32:27 | 日記
冷え込みが増してきたので、寒さに弱い植物を室内に取り込みました。
猫たちがよじ登らないように強剪定したのですが、それでもやはり登ってしまいます。
最近はエアコンをつけて寝るようになったのですが、朝起きると咽喉がいがらっぽくなっているので、加湿器も出さないと。

冬の手作りおやつは、蒸したり煮詰めたりで調理中に室内の湿度が上がるものが良いですね。



林檎のタルトタタンです。


リンゴを煮ている間中、室内に良い香りの湿気が。
果肉が透明になるまで煮詰めてからシナモンをかけると、室内が更に良い香りになります。


蜜柑のジャンボ蒸しパン。
初めて作ったのでちゃんと膨らむか心配でしたが、うまくいきました。最近作った蒸しパンのなかでは、これが一番おいしかったです。

我が家のジャンボ蒸しパンの基本は、薄力粉150g、卵3個、ベーキングパウダー大匙1。サラダ油大匙3。
それ以外の材料は何味にするかで変わります。
蜜柑の蒸しパンは、牛乳の代わりに蜜柑の缶詰のシロップを使いました。シロップが甘いので、砂糖は控えめ。


蒸す前。缶詰一個分の蜜柑の粒が入っています。


しかし、蒸しあがってみたら、粒が全部沈んでしまっていたのでした。


サツマイモのジャンボ蒸しパンです。


サツマイモが咽喉に詰まりそうになるので、生地の牛乳を多めにしています。


ココアのジャンボ蒸しパン。
チョコチップを混ぜたのですが、蒸しあがってみたらものすごく偏っていました。


生クリームを添えて。


芋チーズ団子。
蒸したジャガイモをつぶして、ピザチーズと混ぜて、団子状にして焼いただけ。簡単だけど、焼きたてはホクホクで美味しいです。

ここからはコンビニスイーツ。
全部セブンイレブンです。


ピエール・エルメ・シグネチャーのエクレアストロベリーオレンジ。
オレンジ風味のホワイトチョコとストロベリーソースが爽やかでした。
前に添えているのは、頂き物のゴディバのクッキー。


焦がしキャラメルと林檎の隠し山椒。
一番下の層に山椒を効かせた林檎のコンポートが入っているのですが、隠し山椒と言っているのにぜんぜん隠れていません(笑)。食べた後、暫く口の中に熱感が残りました。娘は美味しいと言っていましたが、私には少し刺激が強かったです。キャラメルの部分は美味しかったですよ。


宇治抹茶とイチゴのパフェ。
白ピンク緑の三層が可愛い。万人受けする味だと思います。


北海道産牛乳使用みかんの牛乳寒天。
これを食べて、蜜柑の蒸しパンを思いついたのでした。


とろけるくちどけ杏仁豆腐。
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ホフマン短篇集

2021-12-14 08:34:09 | 日記
池内紀編訳『ホフマン短篇集』

「クレスペル顧問官」「G町のジェスイット教会」「ファールンの鉱山」「砂男」「廃屋」「隅の窓」の6編収録。

一ヶ月ほど前に、ジェローム・K・ジェロームの『骸骨』を読んだのだが、その後無性にホフマンが読みたくなった。やはり私にはドイツロマン派がしっくりくる。
ホフマンは、ドイツロマン派を代表する作家だ。ホフマンと聞いてピンとこない人にも、「くるみ割り人形」の原作者と言えば伝わるだろう。
本書収録作の中では、「砂男」が最も有名だと思う。この短編は、ドイツロマン派アンソロジーや恐怖短編アンソロジーなどに取り上げられることが多い。

“わたくしたちの心に意地悪い糸をたらしてうまうまとひっかけて、普段なら足を踏み入れないような危険きわまるところにわたくしたちをひきずっていく暗い力があるとしましょう。もしそういう力があるとしたら、自分のなかにあって、自分自身と同じかたちをとり、つまりはわたしたちそのものになるにちがいありません”

“魔性の力にうつつをぬかしていると外の世界が投げかける異様な心を自分のなかに見るものだし、それはつまるところ、自分で自分に興奮しているだけなのだが、ついに妙な錯覚におちいって、その姿が語りだすように思うものだと。自我の幻影とでもいうのかしら、それがぴったり寄りそったり働きかけたりする結果、地獄に落ちることにもなれば天国に舞いのぼることにもなると”

夜いつまでも眠らない子供の目に砂を押し込み、血まみれの目玉を持ち去る砂男の伝説に、ナタナエルの子供時代に暗い影を落とした弁護士コッペリウスが重なる。
コッペリウスとナタナエルの父親は、深夜に度々怪しげな実験を繰り返していた。
実験の最中に爆発事故が起き、父親は惨い死に方をした。コッペリウスは事故直後から失踪し、ナタナエルとは縁が切れたかに思えた。

青年になったナタナエルは、遠縁のクララと婚約を結ぶ。
ところが、ナタナエルが大学に進学すると、下宿に晴雨計売りのコッポラが訪れるようになった。コッポラの風貌は、あのコッペリウスを彷彿とさせた。
晴雨計などいらないと断るナタナエルに、コッポラはしゃがれ声でいうのだった。

“晴雨計はいらんとな!――ならば目玉はどうかな――きれいな目玉だがな!”

コッポラが机一面に眼鏡を並べていく。ガラスの眼差しが入り乱れて交錯し、光の束となってナタナエルの胸を貫く。
コッポラは眼鏡をしまうと、今度は大小様々な望遠鏡を取り出した。
強すぎる光を放つ眼鏡レンズと比べると、それらは変哲のないものに見えたので、一つ買ってやることにした。

ナタナエルの父親が夢中になっていたのは錬金術だった。
その狂気の血はナタナエルに受け継がれていた。彼を正常な世界に留めていたのは、一重にクララの愛情だったのだ。
だが、ナタナエルの心に長年染みついていた「砂男=コッペリウス」のイメージに、更に晴雨計売りコッポラが重なった。そのコッポラから買い取った望遠鏡を用いて、向かいのスパランツァーニ教授宅の窓を覗いたことから、彼の精神は秩序を失っていく。

望遠鏡越しに見る、教授の一人娘オリンピアの美しさといったら――ナタナエルはオリンピアの虜となり、クララへの愛を忘れた。
しばらくして、教授宅でオリンピアのお披露目の宴が催された。
ナタナエルは本人と対面して幻滅するどころか、ますます熱を上げていった。
オリンピアは、彼の語る詩や物語に退屈そうな素振りを見せることなく、黙って聞いてくれた。彼の詩心に水を差し、理性の世界に押し留めようとするクララとは正反対だ。
オリンピアこそが真の恋人であると、ナタナエルは確信した。
しかし、ナタナエル以外の招待客の目には、オリンピアは好ましく映らなかった。
ぎこちない仕草と異様な沈黙が、人々に違和感を抱かせた。教授の娘は愚鈍に違いないとの意見で一致した。

鏡、ガラス窓、望遠鏡、眼鏡。そして、人形の眼球。
ガラスを通して見る世界は、裸眼で見るそれとは異なる色彩を帯びている。
ホフマンの作品においては、特に望遠鏡が重要な役割を果たしていて、望遠鏡越しの世界は主人公の心模様とともに目まぐるしく変化する。
彼は望遠鏡越しに見たものに耽溺し、狂気の世界に引きずり込まれる。いや、元々病的な気質だからこそ、現実の世界を捨てて望遠鏡の向こう側に誘い込まれるのか。

ナタナエルの目には、望遠鏡越しに見たオリンピアが理想の女性と映り、実際に彼女と対面しても幻滅するどころか、幻想から逃れることが出来ない。むしろ、オリンピアに違和感を感じる友人たちや、ナタナエルの詩心に理解を示さないクララを魂の無い人間のように感じてしまう。
オリンピアの瞳から彼への愛の眼差しを感じ取った。数少ない言葉から永遠の彼岸のありかを教わったような気がした。見つめ合うと、その眼差しはますます熱く生き生きとしてくるのだ。
オリンピアの瞳の中にあるのは、クララが言うような「自我の幻影」にすぎないのか。或いは、ナタナエルが信じるような詩的な人間にのみ開かれている深い秘密なのか。
生・秩序・理性の体現者クララと、死・混沌・妄想の体現者オリンピア。
ナタナエルの心が後者に傾くのは、砂男に怯えていた幼い頃から決まっていたのだ。

ナタナエルはオリンピアに結婚を申し込むことにした。
ところが、教授の屋敷に辿り着くと、教授とコッポラがオリンピアの体を引っ張り合いながら激しく争っていた。
コッポラがオリンピアの体で教授を殴りつけたから堪らない。
オリンピアの顔から目玉が零れ落ちた。血塗れになった教授は目玉を掴むと、ナタナエルに投げつけた。オリンピアは生身の人間ではなく、自動人形だったのだ。
ガラスの目玉はナタナエルの胸に命中し、彼の心を狂気の炎で焼き尽くした。

“ヒュー!火の輪だ、火の輪がまわる――まわれ、まわれ、どんどんまわれ!――人形もまわれ、すてきな美人の人形もまわれ”

ナタナエルは精神病院に入れられたが、クララの献身で正気を取り戻した。
彼は母親とクララとクララの兄ロタールと共に、郊外の別荘に引っ越すことにした。

引っ越しの日。
新居に向かう前に、ナタナエルたちは市庁舎の塔から山を見に行った。
しかし、望遠鏡越しにクララの姿を見た途端、ナタナエルは狂気を再発してしまう。

“まわれ、まわれ、木の人形。まわれ、まわれ、お人形さん!”

ナタナエルはクララを塔の見晴らし台から投げ落とそうとしたが、寸でのところでロタールに阻止された。見晴らし台に取り残されたナタナエルは、塔の下に駆けつけた群衆の中にコッペリウスの姿を見つけた。

“わーい、きれいな目玉だ――きれいな目玉だ”

それを人生で最期に見た光景として、彼は塔から墜死した。


現実を象徴する女と、幻想を象徴する女。
二人の女の間を揺れ動く男の物語という点は、「ファールンの鉱山」も同様だ。

まばゆい太陽の輝いた7月。
イェーテボリの港で、若い船乗りエーリスは悲嘆に暮れていた。
母親孝行をするために船乗りになったのだ。なのに長い航海から戻ってみれば、既に母親は亡くなっていて、葬儀も済まされていた。目的を失ってしまった。

悄然とするエーリスに、一人の老人が声をかけてきた。ファールンの鉱山で鉱夫をやらないかというのだ。
エーリスには、明るい太陽を捨てて、地下でモグラのように働く人生など考えられない。が、老人に言わせればそれは、無知のなせる見解というもの。
黒褐色の壁の続く壮大な鉱脈、鉱床に埋もれている限りない宝。坑道を巡り歩けば、やがて岩は息づき化石が生を受け、鉄鉱石やザクロ石がランプの明かりに照り映え、水晶は玄妙な輝きを放ち始める――長年鉱夫を務めてきた老人の語る地下の世界は、孤独な青年の心を幻惑し、今まさに自分が地底にいるような気がした。

その晩。
老人と別れてから、エーリスは宿で不思議な夢を見た。
水晶の床に立っていて、頭上には黒光りする岩盤がそびえている。あたりが一斉に揺らぎ始めると、足元からキラキラ輝く金属の草花が生えだした。地面は水晶なので、その下がはっきり見える。草花の根のはるか下に数知れない白い女が犇めいていて、その心臓から草花が生え出て葉を伸ばし、花をつけているのだ。
エーリスは地下に降りる決意をする。すると、眼前にあの老鉱夫が現れ、エーリスに呼びかけてきた。

“いいかね、エーリス・フレープム、あれが大地の女王様だ。顔をあげて拝みなされ”

老鉱夫が示す方向を見ると、虚空に手を差し伸べて、もの悲しげな声で彼の名を叫んでいる、一人の愛らしい女が見えた――。

朝、目覚めたエーリスには、海や港町が随分と味気のないものに見えた。彼は老鉱夫の話と、昨夜の夢に導かれるようにしてファールンに向かった。

ファールンの町は、彼が思っていたよりもずっと風紀が良かった。
彼はそこで美しい少女ユッラと恋に落ちた。その一方で、彼は坑道に降りるたびに、地下の女王の幻に囚われていった。
自分が二人いるような気がする。本来の自分は地下にいて、女王の腕に抱き留められているような気がしてならない。地上の生活がだんだんと色褪せていくようだ。ユッラが愛と将来の幸せを口にするたびに、坑道の奥の壮麗さを思わずにはいられない。
結婚式の当日、聖ヨハネの祝日にエーリスは姿を消した。

行方不明になったエーリスを待ち続けたユッラが哀れだ。
五十年後の聖ヨハネの日に、坑道から石化した若い鉱夫の遺体が発見された。
長い歳月のうちに、「ヨハネ婆さん」とあだ名されるよぼよぼの老婆になったユッラを、地下の女王が哀れんだのだろうか。しかし、遺体だけ返されたところで何になろう。エーリスの魂は、地下の女王の腕に留まっているのに違いないのだから。
それでも、金輪際手放さないというように、石になった花婿を胸に抱いてユッラは息絶えた。


憧憬、予感、不安、期待、郷愁、流離、夢想などのワードで表現されるドイツロマン派の文学は、孤独で病的な様相を帯びやすい。
昼より夜を愛し、現実より夢想を愛し、生身の女より自動人形を愛する。が、結局は健全な世界の前で消滅してしまう。そんな儚い夢物語だ。

普通の生活に喜びを感じることの出来ない彼らは、我知らず日常の秩序からはみ出し、混沌と夢想の世界に溺れていく。その結果の狂気と死だ。
しかし、正常とは、幸福とは、何であろうとも思う。お定まりの秩序に従って、誰の目にもわかる安定を手に入れることが、正常で幸福な人生なのだろうか。
ホフマンの主人公達は、錯覚を現実と信じ、「自分で自分に興奮しているだけ」だったかもしれない。しかし、そこには常人が見ることの出来ない別世界が本当にあったかもしれない。
正常な世界の基準では、彼らは安全な場所から闇へ、狂気へ、死へと転落していったことになる。
だが、見方を変えれば、彼らは退屈な現実の世界を捨てて、もっと上位の、憧れを知る人だけが見ることの出来るの世界にシフトしたのかもしれない。人形の瞳の奥に夢幻を覗きたい私には、そう思えてならないのだった。
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万両・千両2021

2021-12-08 08:32:16 | 日記



今年も我が家の万両が赤い実をたくさんつけました。


黄色い千両。




赤い千両。
千両はお正月料理の飾り付けに重宝しています。

この地域も最低気温が15度を割りましたし、そろそろ寒さに弱い植物は枝を切り詰めて室内に入れたいところです。
元々花の咲かないガジュマルやだいぶ花の落ち着いてきたランタナはばっつり三分の一くらい切り詰めましたが、花のついている樹木を切るのは少々忍びないです。


木立性ブーゲンビレア。
まだ、枝の先に花房が残っています。


ハイビスカス。
こちらもまだ日々新しい花を咲かせているところです。夏に比べると二回りくらい小さくて、これはこれで可愛い。




夜に植物を撮影したのは初めてかも。


ご覧の通り、樹形がだいぶ乱れてきているので、室内に入れる前に剪定したいのですが。
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黒い蜘蛛

2021-12-03 08:25:55 | 日記
ゴットヘルフ著『黒い蜘蛛』

スイスの国民的作家ゴットヘルフの代表作。
民話的な素朴さを漂わせつつも、いつの時代、どこの国でも通じる人間のどうしようもなさを抉り出した傑作だ。

美しい自然、賑やかな祝宴など牧歌的な場面の間に、祖父が語る村の恐ろしい過去が挟まれている。そのギャップがおぞましい。
悪魔にキスされた女の頬から黒いシミが浮き出し、そのシミがじわじわと大きくなり、やがて蜘蛛の形を作り、女の頬肉を破って這い出て無差別に人々を襲う。
その様の妙にモダンなリアルさに、この小説はいつ書かれたのかと本作の発表年と作者の生年を見返した。
『黒い蜘蛛』の発表年は1842年。ゴットヘルフの生年没年は1797年-1854年である。そんな昔の作品なのか。
作者が牧師ということで、説法じみた内容かと構えていたら、意外なほど冷めた視点で人間心理を描く、古臭さを感じさせない怜悧な作品だった。
村を襲う蜘蛛の大群には生理的な嫌悪感を抱いたが、それ以上に人間の忘れっぽさと身勝手さに暗澹たる気持ちにさせられたのだった。

陽光と肥沃で安全な台地に恵まれた谷あいの農村。その中央には、とりわけ裕福な家が美しく輝いている。
今日は昇天祭。この家では主の孫の洗礼式が行われた。
たくさんの招待客がご馳走の並んだテーブルを囲む。招待客の中の一人が、この家の素晴らしさを褒めた後、赤ん坊の祖父に尋ねた。

“だけど、こんなことを聞いて気を悪くなさっちゃ困りますけど、とっつきの窓の横の窓枠柱に、汚い黒い木が使ってあるのはどうしてですの、家全体にそぐわないじゃありませんか”

祖父は難しい顔をして、急場しのぎに古い家の木材を使ったなどと述べるが、招待客たちは納得しない。そこで、祖父はしぶしぶ黒い柱にまつわる昔話を始めるのだった。

600年ほど昔。村には、今病院がある場所に城が建っていた。
黒い柱にまつわる凶事が最初に起きたのは、ドイツからやって来たハンス・フォン・シュトッフェルンが領主だったころだ。
この男は歴代の領主の中でも特に凶暴で見栄っ張りだった。ある時、彼は、ベールへーゲンの丘に大きな城を立てることを思いついた。
農民たちの窮状など、フォン・シュトッフェルンの頭にはなかった。ただでさえ重税にあえぐ農民たちを異教的な暴力でこき使った。

やっとのことで城が出来上がった。
農民たちは畑を見て回り、呪わしい建築のために本来の仕事がどんなに遅れてしまったかを確認してため息をついた。今は冬に備えて食べ物を蓄えようと思えば、畑で必死に働かなければならない五月なのだ。
しかし、そんな彼らを集めて、フォン・シュトッフェルンは、更に命令を下したのだった。

“まもなく夏がくるが上には木陰の道がない。ひと月のうちに並木道を作るのだ。百本のぶなの木を根も葉もつけたまま、ミュンネベルクからはこんでベールへーゲンに植えるのだ。ただの一本でも欠けようものなら貴様らの命も財産もないものと思え。”

帰り道、曲がり角に来て城が見えなくなると、農夫たちはさめざめと泣いた。
ろくな道もない三時間も離れたところからぶなの木を運び、険しい山を引き上げなければならない。しかも、この山のそばにはぶなの木がいくらでもあるというのに、それに手を付けてはならぬというのだ。
彼らが打ちひしがれていると、どこから来たのか、緑色の服を着た背の高い瘦せた男が声をかけてきた。

“私の馬車は国中に二つとないようなものだが、あんた方が、ズミーズヴァルトのこちら側のキルヒシュタルデンまでぶなの木を持ってくることができれば、あとは全部私がベールへーゲンの上まで運んであげよう”

そこで、農民の一人が取引をしたいと言うと、男は次のような交換条件をあげた。

“まだ洗礼を受けておらん子供が欲しいだけなんだよ”

三日後にこの曲がり角に返事を聞きに来ると言う。この男は悪魔に違いない。
農夫たちは真っ蒼になって逃げ帰ると、女たちに事の次第を語った。女たちは領主の横暴に呪いの声を上げ、緑の男の神をも恐れぬ申し出に慄いた。

農民たちは緑の男の申し出を拒絶しようとしたが、ぶなの木の運び出しは思うように進まなかった。二日経っても一本も植えられない。フォン・シュトッフェルンは怒り狂い、近隣の騎士たちは嘲笑し、農夫たちは恐ろしい無気力にとらえられた。

そんな中、農家の女房の一人、リンダウ生まれのクリスティーネが、緑の男と契約してしまう。
クリスティーネは、自らの意思で緑の男に会いに行ったのではなかった。
彼女は何人かの村人たちと道を歩いている時に、曲がり角に突如現れた緑の男の前に一人取り残された。そのため、殆ど成り行きで、単独で緑の男と交渉せざるを得なくなったのだ。
クリスティーネにはわかっていた。

“彼女が何を言っても彼らは悪くとるだろう、うまく事が運んでも誰も感謝はしないだろう、悪くなれば、罪と責任はみんな彼女に負わせるだろう“

契約に儀式めいたものはなかった。
緑の男は優雅な物腰で彼女の勇気を称え、前もって子供を寄こせというのではない、これから生まれる最初の子供でいいのだと言い、彼女の頬にキスをしただけだった。
緑の男の言動が随分と友好的だったので、クリスティーネは気軽に考えた。
村では暫くは子供が生まれないことを彼女は知っていた。緑の男が約束通りにぶなの木を植えてしまえば、何者もこの男に与える必要はない。今後村で生まれる子供は、みな片っ端からミサをあげて守ってもらえばいい。

緑の男は約束を果たした。
しかし、並木道が完成してから最初に生まれた子供には、神父が即座に洗礼を与え、悪魔から守った。悪魔をタダ働きさせたのだ。村人たちは調子に乗った。そして、クリスティーネが思った通り、誰も彼女に感謝しなかった。
一人目の子供が洗礼を受けた直後から、クリスティーネの頬は焼き鏝を押し付けられたような痛みを発するようになった。が、それを夫に訴えても取り合ってもらえなかった。

また一人の女がお産を待つばかりになった。
村人たちは気楽に構えていた。間に合うように司祭を呼んできさえすれば、再び緑の男をあざ笑ってやることができる、と彼らは考えた。
クリスティーネだけはそうではなかった。

“お産の日が近づくにつれ、頬の燃えるような痛みはますます激しくなり、黒いふくらみはさらに大きくなった。明らかに脚とわかるものがそこからのび出し、短い毛がはえてきた。背の部分にきらきらする点と線が現われ、そのふくらみは頭になった。その頭にぎらぎらと毒々しい光を放つものがあったが、それは二つの目だった。クリスティーネの顔に現れたまがまがしい鬼蜘蛛を見たものはみな悲鳴を上げた。鬼蜘蛛がクリスティーネの顔にしっかりと居座り、生え出てくるのを見たものは、不安と恐怖にかられて逃げ出した。いろんなことが言われ、誰もが勝手な憶測をならべた。しかし結局は、何が起ころうとみなクリスティーネのせいだということにした。”

よそ者の苦しみなど、彼らには痛くも痒くもない。
クリスティーネの苦しみは、彼女が自ら招いたものなのだ。誰が悪魔と契約しろなどと頼んだ?司祭までもが彼女を見放した。

子供の生まれた家の中では、新たな勝利と悪魔の無力に対する歓声が上がった。
外では、クリスティーネがこの世のいかなる妊婦も味わったことのない苦しみに苛まされていた。無数の蜘蛛が彼女の顔から産み出されていたのだ。

“顔の上でつぎつぎに産み出されるものすべてが動き出し、燃えるような熱さで体中をうようよと這いまわり下りて行くようだった。彼女は稲光の青白い光のなかで、足の長い、毒々しい、無数の黒い蜘蛛が彼女の全身をつたい、闇のなかへ消えていくのを見た。”

黒い蜘蛛の大群が家畜を襲った。それは領主の居城も例外ではなかった。
フォン・シュトッフェルンは怒り狂い、自分が受けた損害を農民どもに償わせると宣告した。事の発端が他ならぬ自分なのだとは考えもぜずに。

農民たちは農民たちで、この惨状の責任を負うべきなのはクリスティーネだと考えた。
が、彼女を叩き殺したところで、蜘蛛の被害が収まらなければ意味がない
とりあえずは、次に生まれてくる子供を緑の男に差し出すことで皆の意見は一致したが、誰もが直接悪魔と交渉するのを怖がった。
ならば、クリスティーネがもう一度緑の男と交渉すればいい。一度悪魔と関わりを持てば、二度関わりあったところでこれ以上悪いことにはならないだろう。

その間も災いは絶えず、人々の恐怖も減らなかった。悪魔を侮蔑する発言をした者には恐ろしい死が齎された。
次のお産の日が近づくにつれて、災いは更に増えていった。人々は哀れな産婦から確実に子供を取り上げる方法を申し合わせた。悪魔に対する恐怖のほうが、神への畏れよりも大きかったのだ。

お産の日、この世の終わりのような惨事が村を襲った。
蜘蛛の群れは村中どこにでも姿を現して、家畜や村人を襲い続けた。司祭は毒蜘蛛と化したクリスティーネと戦い、全身を毒に侵され苦悶の裡に命を落とした。
生き残った人々は寄り集まり、互いに罪を擦り付け合った。

“誰もが、自分はやめろと言った、自分は警告した、などと言い張った。誰もが、罪のあるものに罰が下るのは仕方のないことだが、自分と自分の家族は罰をまぬかれたいと思った。そしてこうした恐ろしい危惧と争いの中にあっても、彼らは、新しい、罪のない犠牲が見つかりさえすれば、自分だけは救われることを期待して、その犠牲にたいしてまた罪を犯したことであろう。”

自らを神に選ばれた特権階級であると信じていたフォン・シュトッフェルンや騎士たちは城に閉じこもった。が、そこにも毒蜘蛛が入り込み、灼熱の焔で彼らを焼き殺した。

自らの命を犠牲にして毒蜘蛛を封印したのは、一人の敬虔な女だった。
彼女は毒蜘蛛をつかむと、激痛に耐えながら用意してあった穴に押し込み、穴に栓をあてがって、金槌でしっかりと打ち込んだ。
それが、あの黒い柱であり、この敬虔な女は祖父の先祖だったのだ。

“蜘蛛をとじこめ、安心して暮らせるようになった時、ひとびとは、天国にいて、神さまをかこんでその浄福にあずかるような気持になったということだ。そしてそういう状態が長くつづいた。ひとびとは神をあがめ、悪魔をさけた。新しく城に入った騎士たちも、神の手を敬い、人々をやさしく扱い、援助の手をのべた。”

こうして、村は豊かになり、幸せと祝福のうちに長い年月が過ぎ去った。
しかし、物語はここでめでたしとはならない。
喉元過ぎれば熱さを忘れるで、長い年月の間に人々は平和と豊かさに慣れ、傲慢になった。かつてフォン・シュトッフェルンが彼らの祖先にしたような横暴なふるまいを使用人にし、黒い柱の言い伝えを妄言と軽んじるようになった。

そうなると……である。
今から300年ほど前、再び黒い蜘蛛の大群が村を襲った。
二度目の猛襲もまた、この家のクリステンという若者の犠牲によって退けることが出来た。それ以来、毒蜘蛛は姿を現していない。
人々は、かつてこの家の敬虔な女が身を犠牲にして毒蜘蛛を封印した時と同じように、クリステンに感謝し、神を畏れるようになった。
しかし、反省はしないのだ。
あくまでも自分たちは災厄に巻き込まれた被害者という認識である。あまりにも前回と同じリアクションで薄ら寒くなってしまう。
物語はここで現在に戻るが、黒い柱が今も残っているように、毒蜘蛛の脅威は消えていない。

“心清き人の住む所には、昼といわず夜といわず、蜘蛛のうごめくことはないのである。しかし人の心が変わる時、蜘蛛がどのような力を持つかは、すべてを知り、蜘蛛にも、人間にも、ひとしくその力を分かちあたえ給うものの知るところである。”

最初の凶事が約600年前。2度目が約300年前。このスパンはあえての設定なのだろう。
そろそろ負のゲージが満タンになるころだ。この村の人達、どうせまたやらかすんだろうなと、妙に乾いた気持になって読了した。
ゴットヘルフは複数の民話をもとに、この物語を創作したらしい。また、黒い蜘蛛とはヨーロッパを2度襲ったペスト=黒死病の流行からの連想であろうとされている。
ペストが遠い歴史の出来事となった現代の私には、無数に蠢く黒い蜘蛛は、暴走する集団心理の象徴のように見えた。そして、毒蜘蛛に変化したクリスティーネからは、ギリシャ神話のアラクネを連想したりもした。
最初の惨事も2度目の惨事も、悪魔と直接契約したのは、よそ者の女だった。そして、発端となった無理難題を吹っかけたのは、よそ者の領主だ。
すべての凶事はよそ者のせい。自分たちは何も悪くない。
よそ者が共同体のスケープゴートとして最適な存在なのは、古今東西変わらぬ事実なのだなと、苦い後味が残ったのだった。
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