青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

娘誕生日2022

2022-10-25 07:53:39 | 日記

24日に娘コメガネが16歳になりました。おめでと~パチパチ(^^♪
お誕生日会は日曜にしましたよ。
今回の献立は、エビマヨ、チキンロール、サツマイモと豆のサラダ、クラムチャウダー、カボチャのチーズケーキです。


エビマヨ。
練乳ベースのマヨソースは各自で後がけです。


チキンロール。


巻いて縛ってから、3時間ほど酒、しょうゆ、中華だし、蜂蜜で作ったタレに漬け込みました。


焦がさずに中まで火を入れるのが難しい(>_<)


サツマイモと豆のサラダ。
味噌マヨタレです。


具沢山クラムチャウダー。


カボチャのチーズケーキ。


焼く前はこんな状態。




多めに作ったのでカップケーキにも。

今回使ったカボチャがほぼ黄色だったので、出来上がったチーズケーキの色も薄いのが残念でした。
カボチャは割ってみないと中の色が分からないからちょっとした博打ですね。もっと温かみのある橙色になって欲しかったのですが。


飲み物はお気に入りのアデリアレトロの台付きグラスで。


誕生日プレゼントは、ピアスです。
リボンマークの付いたピアスが、今回コメガネが選んだものです。
アナスイのシルバーバタフライは元々私のもので、この度コメガネに譲りました。他にも私がもう使わないもので若い子向きのものは、どんどんコメガネに譲ろうと思っています。




誕プレを買った後、サーティワンに行きました。
夫と私がピスタチオのクレープ、コメガネがスイートポテトのクレープです。
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ケルト人の夢

2022-10-17 08:11:16 | 日記
マリオ・バルガス=リョサ著『ケルト人の夢』

バルガス=リョサの小説は読むと必ず精神のどこかにダメージを受ける。とても疲れる。それなのに、また手に取りたいと思わせる吸引力がある。
『ケルト人の夢』も例外ではない。
バルガス=リョサのエネルギッシュでアグレッシブな創作スタイルは、本書の主人公ロジャー・ケイスメントが、植民地での西欧の蛮行を暴くために、多くの関係者から証言を聞き取り、被害を受けた先住民の写真を撮影し続けた姿と重なるものがある。
主人公が実在の人物で彼の末路を知っているだけに、本作を読み進めるのは辛かった。史実が覆らないことが分かっていても、どこかで彼の努力と孤独が報われて欲しい。そして誰かに愛されていて欲しい。そう願いながらページを捲っていた。

ロジャー・ケイスメントは、二十世紀初頭の大英帝国の外交官。アイルランド人だ。
彼は赴任先のコンゴとアマゾンでの先住民に対する虐待を告発した功績で英雄となった。
しかし、彼は祖国アイルランドの独立を成し遂げるため、第一次大戦中ドイツに接近し、反逆罪で絞首刑となる。同性愛者であったが故に過剰なバッシングも受けた。
バルガス=リョサは、英雄であり、反逆者でもあった百年前の外交官の所縁の地や資料を丹念に取材し、その人生を通して善悪の境界をという人類の普遍的なテーマを追及した。
ただ本書は歴史書でもなければ、評伝でもない。あくまでも小説である。なので、史実そのものではない。作中にはロジャーにとって救いとなる描写がいくつかあるが、実際にはそんなものは無かったかもしれない。

奇数の章が独房で死刑を待つばかりのロジャーの現在、偶数の章が彼の過去の回想と場面が交互に切り替わる。

回想はロジャーの幼少期から始まる。
1864年9月1日、ダブリン郊外サンディウヴでロジャーは生まれた。
父は軽騎兵隊で活躍したロジャー・ケイスメント大尉。プロテスタントで、アルスター県の親イギリスの一族の出だ。
母親のアン・ジェフソンは、結婚の際に見かけ上はプロテスタントに改宗していたが、夫に内緒でカトリックのままでいた。彼女は息子のロジャーにも、夫の一族に内緒でカトリックの洗礼を受けさせていた。

父親を尊敬していたものの、ロジャーが本当に愛していたのは母親だった。
アン・ジェフソンの青白く繊細な容姿と子供たちを撫でる優しい手つき、彼女の歌うアイルランドの古いバラードは、ロジャーの中で故郷の象徴として刻まれたのだろう。彼女は若くして亡くなるが、ロジャーのその後の人生で何度も夢の中に現れた。
一方で、父親の語る冒険譚、とりわけアフガニスタン人やシーク教徒との戦いに魅了されつつも、父親から受ける折檻(女の子にも容赦なかった)は、ロジャーの心の傷となった。暴力をふるう父親の記憶は、後にコンゴやアマゾンで嫌というほど見ることになるヨーロッパ人が先住民に加える凄惨な虐待と結びついたのかもしれない。
1873年にアン・ジェフソンが亡くなった時、ロジャーは9歳だった。
ケイスメント大尉は妻の死のショックから立ち直れないまま、子どもたちを顧みることなく三年後に亡くなった。

1900年、外務省からボマ駐在領事に任命されたロジャーは、ベルギー国王レオポルド二世と言葉を交わした折に、相手に対して強い不信感を抱いた。
コンゴ自由国が建国されると同時に、現地ではレオポルド二世の公安軍やゴム会社によるコンゴ人の虐待と搾取が始まった。
ロジャーは真相を究明し、告発するために、現地で働く様々な立場の人々から聞き取りをするとともに、自らも現場に足を運んだ。
密林が生み出す黒い黄金、ゴム。それは現地のコンゴ人にとっては不幸の種でしかなかった。
村落は、一週間ごと或いは二週間ごとに公安軍に食料を提供し、先住民自身が蔓で編んだ籠に集められたゴムの一定量を納めなければならなかった。
提供した食料やゴムが規定量を下回る場合には、鞭で撃たれ、罰を受けた者の多くが出血多量で死んだ。性器や手足を切断されたり、叩き潰された者もいた。
逃亡者は家族が犠牲になった。
労働者の妻たちは、公安軍がすべての駐屯地に持っていた〈人質の家〉に収容される。逃亡者の妻はそこで鞭打たれ、食事や水が与えられなかったり、時には自分や監視の糞尿を飲み食いさせられたりする拷問を受けた。
どの村落でも、軍人と政府の代理人が、食料やゴムの一部を自分たちの手元に残し、それを横流しして利益を得るために、割当量を水増ししていた。
このまま暴虐を放置していたら、ゴムより先にコンゴ人が尽きてしまうだろう。

ロジャーが訪れたどの村でも、首長たちが訴えることはよく似ていた。
村のすべての男たちがゴム採取に従事してしまったら、当局に提供する食料を集めるために、どのようにして狩猟に出たり、キャッサバなどの栽培をしたりするのか?
しかも、乱獲のせいでゴムの樹が減ってきているので、採取者たちはますます奥地まで入り込まなければならない。そのような場所で猛獣や毒蛇に襲われた者も多い。どんなに努力してもすべての要求に答えることは不可能だ。

コンゴ人の多くが骸骨のように痩せ細り、背中や尻が真新しい傷跡だらけで、開いた傷口から血を滲ませていた。一体どんな権利があって、よそ者たちは彼らの土地を侵略し、搾取し、彼らを虐待するのだろう?
そして、ロジャーは思うのだ。
コンゴと同じくアイルランドも植民地ではないか?
ベルギー人がコンゴ人に行ったように、侵略された側に意見を求めることもなく、イギリス人はアイルランドを併合したのではなかったか?時が経つにつれて、当時ほど暴力的ではなくなったが、それでもアイルランドは相変わらず植民地で、主権は消滅してしまった。これは多くのアイルランド人が見ようとしない現実だ。
ロジャーはコンゴで植民地主義の噓を発見し、自分がアイルランド人、すなわち大英帝国に搾取され占領されている国の民であると感じ始めていた。

ロジャーのまとめた『コンゴ・レポート』が刊行されるや否や、新聞、国会、政界、世論において凄まじい反響があった。
コンゴのキャンペーンは新たな推進力を得た。
新聞、教会、イギリス社会の最先端を成す層は、『コンゴ・レポート』が暴露した事実に慄き、イギリスが同盟諸国に対し、コンゴをベルギー国王に委譲した西欧諸国の決定の取り消しを求めるよう要求した。ロジャーの元には、新聞のインタビューや反植民地主義・自由主義のサロンからの招待が殺到した。

世論はロジャーを正義と自由の闘士と持ち上げたが、名声は彼を孤独にした。ロジャーの父方の親族は相変わらず新英家だった。彼は自分と父方の一族の間に距離が生じた気がした。
コンゴのおかげでアイルランドを発見した今、ロジャーは真のアイルランド人になり、祖国を知り、その伝統、歴史、文化を自分のものにしたいと強く願うようになった。
ロジャーはアイルランドの伝統や伝説についての読書に多くの時間を費やし、ゲール語も学ぼうとした。アントリム県の新しい考え方をする人々と親しく付き合うようになり、アイルランド語とアイルランド文化の復興を図っていたゲール同盟と結びついた。
その頃、国王陛下が彼に聖マイケル・聖ジョージ勲章を授けることが決定した。が、彼は膝に疾患があるため国王の前で跪けないというのを、授与式を欠席する口実にした。

1906年~1910年までの、ブラジルの港湾都市サントスでの駐在領事時代を挟んで、1910年の8月、ロジャーはペルー北東部のイキトスに派遣された。
この地方のゴム会社、フリオ・C・アラナのペルー・アマゾン・カンパニーに関する告発の調査がロジャーの主な仕事だった。
既にジャーナリストのサルダニャ=ロカと技師のウォルター・ハーデンバーグによる告発が、ロンドンでプトゥマヨのゴム農園に関するスキャンダルを引き起こしていた。
現地での告発者への迫害は想像以上だった。ロジャーが現地で調査を開始した時には、すでにロカは行方不明になっていた。おそらく殺害されたのだろう。

プトゥマヨはこの世の残虐の見本市のようなありさまだった。
ゴム産業が奴隷制度を実施し、武器を携えた破落戸どもの《原住民狩り》によってゴムの採取人や使用人を獲得している。
先住民をゴム農園でこき使い、三ヶ月ごとに最低30キロの割り当て分を差し出さなければ、彼らをさらし台にかけて吊るし、火とナイフでマークを付け、死ぬまで鞭打つ。耳や鼻を削ぐこともある。極端な場合には、妻子を採取人自らの手で拷問したり、殺すことを強いられる。死体は埋葬されず、森に運ばれ、動物の餌食になる。

先住民は会社の専売所から作物の種や生活必需品とともに、ゴム採取に必要な道具を受け取る。
値段は会社によって決められ、先住民は常に借金を背負い、それを払い終えるために一生働かなければならない仕組みになっている。
チーフたちの給料は集めたゴムに対する歩合制なので、彼らは採取量を増やすために虐待という手段を用いる。
先住民の妻子は人質に取られ、ゴム採取人が密林で働かされている間、チーフたちの家事や性欲を満たすために利用される。チーフたちのハーレムの中には、思春期に達していない少女も多い。
ありとあらゆる仕事が先住民に負わされている。先住民はそれらの苦役の合間に、種を蒔いて畑を耕す。そうしないと自分たちの食べる物が無いのだ。
アラナの会社がこの地域における支配権を維持しているので、彼らの蛮行は処罰を受けることはなく、サディズムの傾向が天井知らずになっているのだ。

コンゴとアマゾンが「同じ臍の緒で繋がっている」と知った時にロジャーが抱いた怒り。そして告発のための精力的な活動。『プトゥマヨ・レポート』の作成。
活動が妨害され、脅迫されるたびに、ロジャーは無気力に陥るどころか逆に闘志が沸いた。植民地問題は彼の中で他人事ではないのだ。植民地主義の矛盾と弊害、その根底にある差別の構造、それらはすべて彼の故郷アイルランドに繋がっている。
告発は容易ではなく、ロジャーと志を同じくするカルロス・A・バルカルセル判事は失脚させられた後、行方不明になった。殺されてしまったのだろうか?サルダニャ=ロカの悲劇が繰り返されつつあった。当然ロジャーの身も安全ではなかった。
しかし、先住民に対する拷問、拉致、強姦、殲滅などを止め、責任者を裁判にかけることに向けて、ロジャーは精力的に活動を続けた。

プトゥマヨに関する『ブルー・ブック』は、1921年に出版された。
それは初日から衝撃をもたらし、波紋は全ヨーロッパ、アメリカ、そして世界各地とりわけ、コロンビア、ブラジル、ペルーへと広がっていった。
『タイムズ』は、〈偉大なる人道主義者〉としてロジャーを激賞し、奴隷制度と拷問の実施によって先住民を殲滅させつつある産業から利益を得ている株主たちに、反対する行動を直ちにとるように要求していた。
ウエストミンスター寺院では、この問題について特別な礼拝があり、ハーバード・ヘンソン司祭は、ペルー・アマゾン・カンパニーの株主たちを厳しく非難した。
ペルー政府は、西欧諸国のボイコットを恐れ、改革及びプトゥマヨに軍と警察の派遣を直ちに行うと発表した。
アラナの会社の株価はロンドン市場で下落し始めた。ロイズ銀行は融資を停止し、欧米全域で多くの銀行がそれに続いた。反奴隷制度協会と幾つもの団体によって促進された不買運動は、会社から多くの顧客や協力者を離反させた。
アラナ自身もペルー・アマゾン・カンパニーの残虐行為を調査するための特別委員会の審議を受けた。委員会の報告書の公表をもってアラナの失墜は決定的となった。

しかし、その頃にはロジャーの中では、プトゥマヨは過去の出来事となりつつあった。
アイルランドが再び彼の第一の気がかりとなっていた。
彼はもう英王国のいかなる任務にも二度と就かないと心に決めていた。自分の知性と精力のすべてを、今後はアイルランド独立のために注ぐのだ。彼はアイルランド共和国同盟(IRB)との結びつきを深めていった。

ロジャーの過激化する愛国主義を古い友人たちは憂い、忠告してきた。目的のために手段を択ばない勢いのロジャーと縁を切る者も多かった。
ロジャーは、コンゴとアマゾンで目の当たりにした凄惨な暴力の記憶に突き動かされるように、アイルランド独立のための武装闘争に身を投じていく。
そして、敵の敵は味方として、第一次世界大戦中の1916年、ドイツ帝国と手を組むという暴挙に出た。イースター蜂起の直前、彼は武器密輸のためにベルリンに渡り、帰国後逮捕された。国家反逆罪で絞首刑の判決を受けた。

ロジャーの抱えるもう一つの問題、それは彼が同性愛者だということだ。
同性愛が不道徳と糾弾され、国によっては刑事罰の対象でもあった時代だ。『コンゴ・レポート』と『ブルー・ブック』の成果は彼を英雄にしたが、憎悪を買ってもいた。ロジャーはこの点に無防備だった。
ロジャーは友人夫婦の仲の良さを祝福しつつも、羨みもしていた。夫婦円満や我が子の成長を見守る楽しみは、同性愛者の彼とは無縁のものだったから。
彼は孤独で資産も無かった。収入の多くをアイルランド独立運動や貧民支援基金につぎ込んでいて、粗末な下宿にしか住めなかった。
メモ魔の彼は、金で買った相手との淫行や妄想を日記に付けていた。それは彼の心の隙間を埋めることはなく、いっそうやりきれない気持ちにさせるのだった。
そして、彼がマンハッタンで知り合い、恋人となったノルウェー人のアイヴィント・アドラー・クリステンセンは、実は英国の秘密情報部から送り込まれたスパイだった。

「ブラック・ダイアリー」と呼ばれるロジャーの日記は、スキャンダルとして喧伝された。
彼を中傷するキャンペーンは、品位ある社会を守るには絞首台にかけるしかない堕落した男のために誰も涙を流さないようにすることが目的だった。
1916年8月2日午前、歴史家のアリス・ストップフォード・グリーンらが集めた減刑の嘆願は、閣僚会議での投票の結果、満場一致で却下された。

イースター蜂起で逮捕された、ピアーズ、コノリー、クラーク、プランケット、その他のIRBのメンバーは、銃殺されることでヒロイズムと殉教の光輪を与えられた。
その輝きは独立運動に無関心だったアイルランド人の共感を呼んだ。独立への希求は、日々自然発生的に広がっていった。
イギリス軍がイースター蜂起で処刑された者達の遺体を家族に返還せず、彼らの墓が聖地となることを防ぐために密かに葬ったらしいということは、これまで急進派に冷淡だった層までも怒りの渦に巻き込んだ。
その一方で、ロジャーは、かつて彼を称賛した世間から汚物のように軽蔑され、強盗や殺人犯などと同じ扱いで絞首刑になるのだ。
確かに本書に抜粋された「ブラック・ダイアリー」の内容は、眉を顰めたくなるくらい明け透けだ。同性愛が不道徳とされていた当時には、ロジャーの先住民解放運動を称賛していた人達ほど裏切られた気持ちになったのかもしれない。

1916年8月3日午前9時、ロジャー・ケイスメントの絞首刑が執行された。
ロジャーの遺体は《倒錯性癖》に関する検査を受けた後、墓碑はおろか十字架もイニシャルさえもないまま、殺人犯のやはり無名の墓の隣に埋葬された。
こうして、イェイツから《世界市民》と称えられたロジャー・ケイスメントの名は、忘れ去られた。アイルランド独立運動の英雄たちを祀ったパンテオンに、彼が加えられるのはずっと後のことだ。

“我々の一人ひとりは、それぞれ一人ではなく、連続する多数の人間なのだ。そして次々と現れるこの連続する人格は、互いにもっとも奇妙で驚くべき対照を見せるのが常である。
ホセ・エンリケ・ロドー『プロテウスのモチーフ』”


今日アイルランドでは、性の領域の変化とともに、ロジャー・ケイスメントはありのままを受け入れられるまでになった。
同性愛者であることは、反植民地運動の英雄、先住民文化の擁護者、アイルランド独立に身を捧げた闘士としての彼の魂を損なうものではない。それらの人格はロジャーの中で矛盾することなく連続し、複雑な魅力を発揮している。
むしろ同性愛というマイナー性を抱えていたからこそ、ロジャーは、階級・宗教・民族の垣根を超え、植民地主義の欺瞞と残虐に気づき、我が事のように憤り、これを改めるために死に物狂いで働くことが出来た。アイルランド独立運動に身を投じたことも、また。
過激な愛国主義者である一方、生涯を通して利己性に縛られることのない《世界市民》でもあった。

1965年、ハロルド・ウィルソン内閣は、ついにロジャーの遺骸の返還を認めた。
彼の遺骸は軍用機でアイルランドに運ばれ、市民の歓迎を受けた。英雄の遺骸として、四日間に渡りアーバーヒルの聖心教会の礼拝堂に安置されると、何十万もの人々が訪れ、弔意を表した。イースター蜂起の総司令部となった中央郵便局の前では、彼のために軍の礼式が執り行われた。その後、棺は故郷の墓地に埋葬された。
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新涼どころじゃない

2022-10-11 07:54:00 | 日記
先週半ばから急に気温が下がって、このまま一気に冬に向かうのかなと思ったら、昨日はジメジメ蒸し蒸しした暑さ。もう着ないと思った半袖をまた出しました。今日は夏日になるそうで。
年々新涼という初秋の季語にふさわしい日が少なくなっている気がします。
澄み渡った青空を爽やかな風が吹き抜け、鰯雲が群れをなし……私が子どもの頃の初秋は、そんな感じだったように記憶しています。
それと、今年の秋刀魚は高くて小さいですね。味はいつもの年と変わらなかったけど、ちょっと吃驚しましたよ。


そんな訳で(?)、スイートポテトを焼きました。


焼く前はこんな感じ。
作るのが久しぶりだったので材料の分量を忘れてしまって、だいぶ甘さ控えめな仕上がりになりました。材料の配分・オーブンの温度は要調整です。
前回作ったのは、多分このブログを始める前だと思います。薩摩芋はだいたい大学芋にするので。




今回初めて作った芋羊羹です。


羊羹専用の型を持っていないので、パン用の型で固めました。


我が家の秋冬の定番おやつ、大学芋。


これは、コメガネが高校の学祭で作ったバルーンアートです。
可愛く出来ていると思います。
コロナの影響で今年の学祭も入場制限がされましたが、コメガネたちはそんなことは関係なく楽しんで来たようです。コメガネのクラスの男子たちは、元気が有り余って、窓ガラスを割ったり、天井に穴を開けたりしちゃいました (^-^;
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ジャンボ南瓜と瓢箪

2022-10-04 07:53:21 | 日記

「ひょうたん展」を見た後の大船フラワーセンターで撮った画像です。

「ひょうたん展」をブログにアップしたあと、間に「小出川の彼岸花2022」と「おはぎと散歩と彼岸花」の記事を挟んだので大分日にちがあいてしましました。


エントランスの瓢箪。








コメガネの顔くらいのサイズから掌サイズまで色々ありました。
ひょうたん展のパネルに瓢箪は育てやすいと書いてあったので、うちでも鉢植えで育てたいと思いました。大船フラワーセンターの売店には売ってなかったけど、何処に行けば苗を買えるのかな?


エントランスの寄せ植えたち。


















この日(9月17日)はまだハロウィンまで1ヶ月以上あったので、ディスプレイはハロウィン仕様にはなっていませんでした。

エントランスから離れ、遠回りして、ジャンボ南瓜の転がしてある広場へ向かいました。


ボタンクサギ。


パンパスグラス。


ロックガーデンの花。名前は忘れました…


薔薇園は春薔薇の残りが少し咲いているくらいで、寂しい感じでした。
今月半ば頃には秋薔薇が咲くと思います。


百日紅。












広場の花壇が見えてきました。


ハロウィンのジャンボ南瓜です。






ジャンボ南瓜を見に来るのは今年で三年目だと思います。
今年はこれまでの年より南瓜の数が少ないような…?
ハロウィン間近に行けば数が増えているかもしれませんが。


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