青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

夏バテツライ

2021-07-31 09:03:52 | 日記
地獄のような溽暑が続いております。
一昨日、用事があって外出していたら、途中から全身に異様な重力を感じるようになって、帰ってから寝込んでしまいました。

オリンピック開催中ですけど、この酷暑の中で屋外競技を行うのは、鍛え上げたアスリートでも危険ではないかと思うんですよ。テニスやトライアスロンなどは、特に試合時間が長いですから。
ジョコビッチやメドベージェフが不満を漏らすはずだ……命が大事だもの。全然アスリートファーストじゃなくて、見ているこっちも、感動より心配が先に立ちました。


もう夏が終わるまで冷たいものしか食べたくない気分ですけど、それじゃ益々暑さにやられてしまうので、滋養強壮のために鰻と豚肉を取りました。


鰻の蒲焼き&鰻肝の串焼き。


豚の角煮&煮卵。
こちらは夫が作りました。

いつもより食が進まず、当日食べきれなくて、翌日に持ち越してしまいました。でも、とても美味しかったです。夫、ありがとう。


予約していた『PUI PUIモルカー』のDVDを受け取りました。
さっそくエンドレスリピート機能で無限モルカーを楽しんでいます。PUI PUIヾ(≧∇≦)

モルカーたちの表情がくるくる変わるのが可愛いし、背景の小ネタを見つけるのも楽しい。
メイン以外のモブモル達も画面の彼方此方で走ったり働いたりしていて、町全体が生き生きしています。
カラフルなのに目が痛くならない色彩設定もセンスが良いですよね。

本放送時から、毎週PUI PUI言いながら楽しく視聴していました。
受け取る頃には飽きてるんじゃないかと思って、DVDの予約を躊躇っていましたけど、注文しておいて良かったです。


予約特典の免許証は、テディちゃんです。

「なんでも食べる」(๑'ᴗ'๑)


「条件変更:友を守るためなら武器の装着可」(゜Д゜;)

テディちゃんね、初見からこんなに印象の変わったモルカーは他にいないですよ。
最初はもう少しおっとりした子だと思っていました。それが、武装するわ、体内で爆弾を生成するわで(^_^;

モルカーは全キャラ大好きです。
強いて推しモルを挙げるとすれば、武闘派食いしん坊女子のテディと、ヒーローに憧れる初心者マークのアビー君かな。
アビーはテディ姉貴に弟子入りすればいいと思いますが、テディには既にチョコちゃんがいるか……。
この作品、女の子の方がヤンチャですな。

グッズもいくつか予約しています。届くのはだいたい秋頃。
こういうのって、予約を開始してから製作するんでしょうか。受付開始から結構日にちが開くんですね。
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『江の島浮世絵大集合』に行ってきました

2021-07-27 08:40:43 | 日記

藤澤浮世絵館で開催中の『江の島浮世絵大集合』を観に行ってきました。
会期は7月20日~9月5日です。
葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳などが描いた江の島の浮世絵、屏風、掛け軸などが、全部で48点展示されています。

上の画は、歌川広重「相州江の嶋弁財天開帳詣本営岩屋の図」弘化4年~嘉永5年(1847~52)

会期中、毎日13:00~17:00の間に、ドローンで撮影された現在の江の島や藤沢の景色と、浮世絵に描かれた江戸時代の景色を楽しむ、「翔んで!浮世絵 空から藤沢」が繰り返し上映されています。それに合わせて入館するために、午前中は浮世絵館近くのテラスモール湘南で買い物をしたり、昼食をとったりしました。






腹ごしらえが済み、ちょうど良い時間になったので、浮世絵館に移動。


浮世絵館入り口。

江の島は、江戸からおよそ十三里(52キロ)の近場にあり、富士山や房総半島を見渡せる景勝地として人気がありました。そのため、浮世絵の格好の題材となって、多くの絵師たちに描かれてきたのです。

浮世絵に描かれる江の島の典型的な例として、「七里ヶ浜から江の島へ向かう人々」の構図が挙げられます。この企画展で紹介されている浮世絵もその構図の作品が多かったです。


歌川広重「相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図」弘化4年~嘉永5年(1847~52)


歌川広重「相州江之嶋岩屋之図」天保4年(1833)


歌川広重「江のしま参詣の図」嘉永6年(1853)


歌川広重「東海道之内江之嶋路 七里ガ浜 江ノ嶋遠望」天保5年(1834)頃
青ぼかしを多用することによって、爽やかな印象になっています。


歌川広重「相州江之嶋金亀山」安政2年(1855)
団扇絵と呼ばれる判型のものです。全体が青色の色調で刷られていることから藍擦りと呼ばれる作品、海の表現にピッタリですね。


歌川広重「相州江ノ島」天保年間
中短冊。「楽山楽水情末休、清風名月是悠々」という漢詩が添えられています。


二代目喜多川歌麿「江之島鮑猟之図」文化年間
海女が鮑取りをする姿が描かれていますが、実はこれは見立絵。実際には江の島には海女は存在せず、男の海士が鮑取りを生業にしていたのでした。
絵の題材として女性の方が色っぽいと改変したのでしょうか。


二代目喜多川歌麿「諸国名所風景 相州江ノ島漁船」文化年間
こちらも浮世絵ならではのアレンジです。


喜多川月麿「相州江ノ嶋巌屋の図」文化5年(1808)
作者の月麿は歌麿の弟子です。
江の島岩屋の前で宴会を開く人々が描かれています。岩屋付近の俎岩と呼ばれる平たい岩盤の上で食事をするのが、当時の江の島詣の粋な遊び方でした。


歌川広重「六十余州名所図会 相模江ノ嶋岩屋ノ口」嘉永6年~安政6年(1853~56)
日本各地の名所を描いた広重晩年の揃物です。
相模の名所としては、江の島岩屋が選ばれました。


歌川広重「諸国勝景 相州七里ヶ浜」天保11年~13年頃(1840~42頃)


歌川広重「不二三十六景 相模七里が浜風波」嘉永5年(1852)
七里ヶ浜から見る富士の風景です。
江の島付近の波は比較的穏やかに描かれることが多いのですが、こちらの絵は山のように荒ぶる波が大迫力で描かれています。


北尾重政「浮絵江ノ島金亀山幷七里ヶ浜鎌倉山ノ図」天明年間。
西洋からの遠近法を利用した浮絵と呼ばれる浮世絵の一様式です。
浮絵の流行によって、浮世絵における風景表現は大きく発展しました。


葛飾北斎「富嶽三十六景 相州江の嶌」文政年間


葛飾北斎「江島春望」寛政9年(1797)
この絵は、元は狂歌絵本『柳の糸』挿絵であり、本作はその一部が抜粋されたものと考えられています。


歌川国芳「相州江之嶋之図」弘化4年~嘉永5年(1847~52)
大判三枚続の画面いっぱいに描かれた江の島の全景と、岩屋の付近にこまごまと描かれた参拝客の対比が効果的です。


歌川国芳「七里ヶ浜より江のしまの遠景」弘化4年~嘉永5年(1847~52)


歌川広重「相模江のしま風景」制作年不詳。

展示作品を一通り見学してから、「翔んで!浮世絵 空から藤沢」を鑑賞しました。
現在の藤沢の風景の所々に、意外と江戸時代の名残が偲ばれることを知り、もう一度展示作品を見て回って、一層の学びを得ました。面白い企画だと思います。


帰宅してからおやつタイム。


紅茶はピーチ&ペア―。
缶の猫イラストがとても可愛い。

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中学最後の夏休み

2021-07-20 08:42:57 | 日記
コメガネ、明日から夏休みです。
前回の模試の成績があまり良くなかったので、第一志望校は諦めて、今のところ合格圏内にいる第二志望校を本命に繰り上げました。
でも、同じことを考えている子もそれなりの数いるでしょうから、ここも絶対安全とは言えません。
コメガネ頑張って!!

そんなわけで、今夏はあまり遊びに行く時間はないのですが、一度くらいはお出かけしたいなと考えています。
神奈川県内は独自の緊急事態宣言が発令中ですので、あまり遠出は出来ないのですが、県内でどこかに行ければいいなと。

だがしかし!!
藤沢は江の島ヨットハーバーでセーリング、横浜は横浜スタジアムで野球とソフトボール、横浜国際総合競技場でサッカー、相模原は国道413号ほかが自転車競技(ロード)の通過地点と、県内四か所でオリンピックの競技が開催されるので、県内も色んな意味で身動きが取り辛い日が多いです。
あと県内で実施される事前キャンプの数が思ってたより多くて、そういうのも考慮すると今年の夏は本当に行ける場所が限られてしまう。でも、県内でのライブサイト・パブリックビューイングが取りやめになっただけでもマシかなぁ……ウ~ン……。
オリパラの日程と、コメガネのスケジュール、それから天候を考慮しながら、一日でいいから、お出かけに良い日を見つけたいと思っていますよ。


我が家の庭では、サンゴバナがまたたくさん花を咲かせています。


サンゴバナは花が終わるたびにまめに切り戻しをすると、結構長く楽しめるのです。




ニチニチソウとマリーゴールドは最近植えたばかりなので、まだ嵩が少ないです。これから夏休みの間にモッサリ育つはず。


種から育てているクリサンセマム。
しかし葉っぱばかりで花数が寂しい。苗から植えるほうが手軽に楽しめますね。


同時期に種を蒔いたヘリクリサムは、もっと葉っぱばかりです。これちゃんと花が咲くのかな?


万両の花。
実は真っ赤なのに、花は白い。


コムラサキは涼し気な薄紫の花。






ハイビスカスは元気。


ランタナも元気。


ブーゲンビレアはボチボチ。




アサガオ。
玄関前に置いている鉢は、毎日そこそこの開花数です。


でも、庭に置いているプランターの方は非常に育ちが悪いですね。あわよくばグリーンカーテンにと思っていたのですが。


フウセンカズラのグリーンカーテンは、順調に育っています。
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土葬の村

2021-07-14 08:34:30 | 日記
高橋繁行著『土葬の村』

“この本はおそらく、現存する最後といっていい土葬の村の記録である。”

1990年代初めから2020年までの約30年に渡る土葬に関する聞き取り調査の記録に合わせ、土葬と同様に消えゆく風習である野辺送り、野焼き火葬、風葬などの実態を知る人々への取材を通して、日本の葬儀形態が火葬に絞られていく過程と日本人の死生観の変遷をまとめ上げたルポルタージュだ。

手始めに古い因習の残る滋賀県の村を訪ね歩いた著者は、それぞれの土地の古老の証言から、彼らは土葬の風習は鮮明に覚えているが、土葬そのものはほんの少し前に消滅していることを知った。
日本三大霊場の一つ恐山や、ミイラで名高い出羽三山の村、熊野古道の村や九州の霊山、福岡県の求菩提山でも同様だった。

そのような中で、奈良県に土葬が残存しているエリアを発見した。エリア内の複数の村で土葬が常時、継続して行われているのだ。
その場所は、奈良盆地東側の山間部一帯と、隣接する京都府南山城村である。
奈良市柳生の里を起点に半径約一キロの円を描くと、円内に北東には南山城村、月ケ瀬、島ケ原が並び、南西には奈良市田原地区が、南には、大保町、南東には奈良県山辺郡山添村と、土葬の村が集中する。
現存する土葬の村を数年かけて調査した結果、どの村でもその時点では村全体の8~9割が土葬をしていることが分かった。
2017年秋、京都府南山城村の高尾地区で観音寺の住職によって行われた土葬、2018年9月、奈良県十津川村の武蔵地区でフリーの神官によって行われた土葬の神葬祭など、本書に出てくる証言はごく最近のものだ。

ところが2019年冬に土葬の村を再び訪れた著者は、土葬が急激に減少し、いくつかの村ではすでに消滅していることを知る。
古代から千年以上続いてきた土葬が、なぜたった数年でここまで激減してしまったのか。
近い将来、日本の墓地から土葬は完全に消滅するかもしれない。その前に、ここ数年で何が起こったのかを明らかにし、日本の伝統的な文化を記録として残しておきたいと思ったのが本書執筆のきっかけであると、著者は語る。

日本は世界一の火葬大国だ。
日本の火葬率は、1970年代には80%を超え、2005年は99.8%。イギリスの75%やアメリカの45%、フランスの35%に比べるとダントツの高さである。
私などはむしろ日本の火葬率の高さよりも、未だにこの国に土葬の地域が残っていることに驚いた。どういう訳か、日本では火葬以外の埋葬が法律で禁止されていると思い込んでいたのだ。本書でもそのように誤解している人が多いことについて触れている。
火葬が主流になったのは明治以降。もっと言えば、近年までは土葬の地域はそれなりの割合で残っていた。
であるからこそ、本書には親族や友人の土葬や野辺送りに参加した人たちの証言が多数取り上げられているのだ。

本書は、「第一章 今も残る土葬の村」、「第二章 野焼き火葬の村の証言」、「第三章 聖なる放置屍体」、「第四章 土葬、野辺送りの怪談・奇譚」の四つの章に分かれている。そのうち第一章に全体の約半分のページ数が割かれている。

本書には、しばしば柳田国男の著書『葬送習俗語彙』からの引用が出てくる。
自分の足を使っての聞き取り調査や読みやすい文体に柳田の影響を強く感じる。明瞭な構成や知りたい箇所がすぐに見つかる目次も好印象だ。

土葬が廃れた地域と、今でも土葬の習慣の残っている地域とでは、どのような差があるのか。
宗教観とか土地の広さとか色々な要因があるが、一番大きいのは、土葬に関する知識を有する者、墓穴掘りや棺担ぎを行う体力を有する者など、土葬という手のかかる葬儀を行える人員が確保できるかどうかだろう。

土葬の棺桶には座棺が用いられる。
棺の中の遺体は、膝を折り胡坐座りした格好で納棺される。

「亡くなった親の膝を折っておくのは、息子ができる最後の親孝行といわれました」(滋賀県東近江市石塔町の住人)

湯かんが済んだ遺体を座棺に納棺する際、その作業をする者は心身ともに大変な負担を強いられる(湯かんも重労働ではある)。
現在一般的に用いられる寝棺の平均的なサイズは、縦約1.8メートル。
それに比べて、土葬で用いられた座棺のサイズは地域によってまちまちだが、だいたい三種類に分けられる。
一つは、滋賀県の調査でよく見かけられた、高さ二尺三寸(約70センチ)、幅一尺(約54センチ)四方。
二つ目は、神奈川県津久井郡の報告に見られる、高さ二尺四寸四分(約73センチ)、幅一尺四寸四分(約43センチ)四方。
三つ目は、滋賀県高島郡西庄村(現・高島市)の葬礼として報告されている、高さ四尺(120センチ)、幅二尺(60センチ)四方。
三つ目はわりとゆとりがあるが、上二つは人体を収納するのには、明らかにサイズが小さい。この中に死後硬直を気にしながら、遺体を胡坐か正座の姿勢で固定し納める。
すると、以下のような証言が出てくる。

「胡坐座りをした親の体をさらに前屈させ、狭い座棺に入るように背中を力いっぱいに押しました。背骨が折れそうで、納棺の様子を見ていた子どもらを外に追い出したほどでした」(滋賀県長浜市川道の村の住人)

「縄で幾重にもがんじがらめに縛ってね。とても素面じゃできないので、酒をあおって皆で納棺しました」(富山県氷見市の村の住人)

腕が胴にめり込むほどに締めくくるので、骨が音を立てて砕けることがあるという。
土葬にまつわる作業は煩雑かつ重労働で、納棺などその入り口に過ぎないのだが、この時点でもう心が折れそうだ。
南山城村では、納棺作業を「与力」という村の構組織の面々が行っていたので、遺族がこのようなストレスに晒されることはなかった。また、座棺の寸法を亡くなった人のサイズに合わせて作っていたことも幸いし、土葬の風習が長く残ったのだろうと推測される。

土葬の風習で何よりも特徴的なのが野辺送りだ。
野辺送りの作法・しきたりは村それぞれだが、参列する近親者が白い装束を身に着ける点はだいたい一致している。白装束は故人の死に装束と同じものであり、これを纏うことで死のケガレを引き受けるのである。
四つモチ(法界弁当)を入れる木箱や、輿車(手押し霊柩車)など、野辺送りに使用される専用の道具や、白い幟を立てて野原を練り歩く野辺送りの葬列などが、写真入りで解説されている。実際に見たことがないのに、なぜか懐かしさに捕われる。清浄で美しい光景だ。

田原地区沓掛町の野辺送りは、約二キロの道のりを歩いた後、埋葬地に到着する。
野辺送りには少なくとも20~30人の遺族、近親者が関わり、葬儀を手伝う村人は、松明や灯篭、飾り用品などの葬具を竹細工や紙細工で、通夜・葬儀に間に合うように用意する。葬儀会館での葬式に比べてはるかに手間がかかる。

「みんなで“ムダ”をいっぱいして故人を送ることが供養になるのです」(田畑地区・十輪寺の森崎住職)

今、その“ムダ”に丹精を込められる人が激減している。

「遺族は遺言で土葬を決意したものの、誰も土地風習を知らなくなっていました。遺族に細かな指示をしなければ何もできなかった。おそらく私が南山城村の最後の導師なのでしょう」(南山城村・観音寺の後住職)

「この時節だから自粛で人を呼べないということもありますが、そうでなくても縁故関係が疎遠になってきている。それが土葬が減った理由です」(大柳生町・東福寺の村岸住職)

土葬にまつわる風習は美しいもの、心鎮まるものばかりではない。奇習と呼べるようなものも少なからずある。
もっとも壮絶なのが、三重県伊賀市島ケ原という村の「お棺割り」だ。
島ケ原は、京都府と奈良県の県境、木津川断層帯に位置している。

「四十九日の法要の朝、親族はめいめい鍬を持ち、埋葬された墓を掘り返していくんです。掘り進むうちに思わぬ白骨が出てきました。目当てのお棺の主より以前に埋葬された遺体が二体、三体……頭蓋骨をそっと取り出し、地面に並べたものです」(島ケ原・天台宗寺院のI住職)

「お棺割り」は、故人の遺族・親族が行った。
親族たちは墓を掘り起こし、鉈で棺ぶたを叩き割る。ふたが割れると、中からまだ白骨化しきっていない遺体の顔がのぞく。髭や髪が伸びていることもあったという。
死に顔を拝んだら、棺の中に土を入れ始める。棺の中の隙間が土で埋まると、墓穴全体に土を入れる。地上まで埋まると、土を固く踏みしめる。
その後、よけてあった石塔を上に置く。「お棺割り」の最中に出てきた別の頭蓋骨は、丁寧に横に並べて、手を合わせたという。

「お棺割りのたびに石塔は移動させられるので、石塔の角は傷だらけでぼろぼろでした」(島ケ原・天台宗寺院のI住職)

あまりの壮絶さににわかに信じがたい「お棺割り」であるが、これをしなければならなかった理由は当然ある。
島ケ原は、土地が狭いために両墓制がとれず、単墓制だった。つまり埋め墓と参り墓を別々に設けることが許されず、埋め墓の上に石塔の参り墓を建てねばならなかった。
埋葬後、数年経つと石塔墓の下の土が凹む。まず棺が朽ち、棺の中の遺体も朽ち、棺の中の空洞が押し潰され、その結果、埋め墓全体が陥没する。
木津川断層帯にある島ケ原の地質は、特に柔らかく陥没しやすい。
放置しておくと、先祖代々の石塔墓が倒壊してしまう。そのために、遺体や棺が朽ちる前に、棺を割って中に土を入れ、強く踏み固めるのだ。

「お棺割り」のために土を掘り返すと、遺族たちは「ゴウランが出たな」と言い合ったという。
ゴウランとは頭蓋骨のことだ。
「お棺割り」は四十九日に行うので、まだ完全に白骨化していないことも多く、その場合、ゴウランは目をそむけたくなるような惨状だったという。
また、島ケ原は、砂地、砂利層、その下は粘土層という地質のため、高温高湿になりやすく、遺体が白骨化しないで死蠟化していることも多かった。

島ケ原は、近畿の土葬地帯の中で比較的早く、1975年頃に土葬を行わなくなった。「お棺割り」の凄惨さが、土葬消滅の引き金を引いたと考えられる。
人の行き来が容易くなった現代、よその土地の葬儀事情を知った人々から、「お棺割りはかなわん」という不満の声が噴出したのも当然と言えば当然だ。
「お棺割り」の聞き取り調査は、証言者を見つけるのに苦労したようだが、あまり話したくないという心情も何となくわかる。
それでも、島ケ原で土葬と「お棺割り」が消滅したのは、50年も昔のことではない。

核家族化が進み、葬儀会社の提供する葬儀プランはどんどん手軽になっていく。
土葬の村が完全になくなってしまうのは、我々が思うよりもずっと早いかもしれない。
土葬や野辺送りの消滅とともに、消えていく風習は多い。
著者は、過去の弔いの歴史を紐解き、土葬・野辺送りの調査を比べることで、どのような土葬の風習がなくなり、どんな風習が現在まで残り、今後の葬儀に受け継がれていくか、見通せるようになって来たと言う。
「魂呼ばい」、「耳ふたぎ」、「泣き女」などは、現在の葬儀では見かけることはない。
その一方で、伝統的な湯かんの作法は、葬儀社の湯かんサービスや看護師によるエンゼルケア、エンバーミング技術などに受け継がれた。
今でも、死のケガレを忌むサカゴトの風習は、全国に残っている。死の枕辺に魔よけの刀を置く風習も途絶えていない。第三章に紹介されているような墓場の幽霊譚、地獄の審判や蘇生譚、輪廻転生の死生観も、まだ力を失っていない。
消えていく風習と、形を変えながら継承されていく風習を比べることは、日本人の心の在り方の変遷を考えるうえで、大きな手掛かりとなるのではないだろうか。
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メダカの赤ちゃん

2021-07-08 08:33:14 | 日記

知人からメダカを貰いました。
全部で七匹。楊貴妃が三匹。あとは品種名を忘れましたが、黒メダカ二匹、白メダカ二匹です。
白メダカ一匹を除いて、あとはみな稚魚。
楊貴妃が生後二週間目で、ほかの三匹は三~四週間目です。
楊貴妃は一番小さい子が、体長三ミリ足らず、厚みも一ミリもなさそう。そんな小さな体で元気にピョコピョコ泳ぎ回っているので、とても可愛いです。




空き瓶に入れられてやってきました。
金魚の餌をやってみましたが、さすがに大きすぎたみたい。成魚の白メダカが一生懸命つついていましたが、稚魚たちは見向きもせず。


メダカが気になる桜。
カブトムシを飼っていた時も観察に余念がありませんでした。


前足でそっと瓶を触っていました。
その後、柏も様子を見に来ていましたが、蓬はさっぱり関心を示さず。蓬、男の子なのに狩猟本能薄いのかなぁ?去勢しているから?あんまり関係ないか。






この日はもう遅い時間だったので、ちゃんとした水槽や餌などは翌日に買いに行くことにして、娘コメガネが小一の時にザリガニを飼っていた籠に仮住まいさせました。
みんな元気よく泳いでいるので、画像がブレブレです。


水作りをして、水槽を設置。
四年ほど前まで、睡蓮鉢でメダカを飼っていたので、その時に入れていた小物をこちらに移しました。

メダカは睡蓮鉢で飼った方が風情があるのですが、今回は稚魚が多いので管理がしやすいように屋内の水槽で育てることにしたのでした。


水が合わないと死んでしまうので、お引越しには少し神経を使いましたが、四日経っても元気にしているので大丈夫なんだと思います。


上から写すとますますどこにいるのかわからない。


金魚の水槽と並べています。


金魚先輩。
多い時には八匹いたのですが、今は三匹だけになってしまいました。今いる金魚たちは、蓬と柏がうちに来た年に購入したので、四歳です。


以前、メダカを飼っていた睡蓮鉢です。
同時期に植えた睡蓮も全然花を咲かせなくなって、葉っぱがヘロヘロしているだけ。
すっかり放置状態ですが、もし、メダカがうまく繁殖したら、幾らかはこちらに移そうかと思っています。
その際には、鉢底の土も総入れ替えして、新しい睡蓮か水草を植えよう。
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