佐保川北方に平城京羅城門跡。
佐保川から右手東側が添上郡。
川を挟んだ左手西側は添下郡なので、その境界に架かる橋ということで郡界橋と名付けられたという。
文禄五年増田長盛が郡山城外廻り堀の普請に佐保川の流路を大きく変え、平城京朱雀大路の道両側に築堤して新しい川道とした。
そのため大路を南下する下ツ道は川に変容してしまった。
大路上にあった羅城門礎は今でも川底に眠っている。
郡界橋の東側は下三橋町。
下ツ道に沿う「三橋」の名は古く、続日本記に記載されている古地名。
新羅の使節が平城京を訪れた際、三橋で出迎えたという記事がでているそうだ。
(H19. 7.23 Kiss Digtal N撮影)
佐保川から右手東側が添上郡。
川を挟んだ左手西側は添下郡なので、その境界に架かる橋ということで郡界橋と名付けられたという。
文禄五年増田長盛が郡山城外廻り堀の普請に佐保川の流路を大きく変え、平城京朱雀大路の道両側に築堤して新しい川道とした。
そのため大路を南下する下ツ道は川に変容してしまった。
大路上にあった羅城門礎は今でも川底に眠っている。
郡界橋の東側は下三橋町。
下ツ道に沿う「三橋」の名は古く、続日本記に記載されている古地名。
新羅の使節が平城京を訪れた際、三橋で出迎えたという記事がでているそうだ。
(H19. 7.23 Kiss Digtal N撮影)
平城京の時代、羅城門近くの佐保川には水運利用の船着場があった大和郡山市の高田町。
ここは矢田寺地蔵尊参りの分岐点。
行基菩薩が道標として地蔵尊を設け周囲に枳殻(からたち)の木を植えたことからその地蔵尊はきこく地蔵と呼ばれ親しまれたという。
昭和九年に佐保川の大改修が行われた際、旧堤防から数多く地蔵さんが出土したので地区の人らは大切にしなきゃと地蔵堂に建立して枳殻の木を植えた。
当時は戦時中。「きこく」を「帰国」と言い替えて無事に帰国できるようにと願いをかけてお百度参りが絶えなかったという。
それから後の平成16年に再び佐保川の改修工事がはじまり、架かる郡界橋も架け替えすることなり地蔵堂を退避させていた。
平成18年7月に完成して元の位置に戻った地蔵堂。
その傍らには枳殻の木が一本残されている。
今日はそのきこく地蔵尊に阿弥陀さんの掛け軸を掲げて地蔵盆数珠繰り法要。
自治会が大切にしている地蔵尊では稗田の常楽寺の住職を迎えると、輪になって五穀豊穣、身体健康、地区安全を願い数珠を回していく。
元々は23、24日であった地蔵盆は効率化のため今日一日になっている。
数珠繰りを終えたらお下がりのお供え物をもらって帰ります。
(H19. 7.23 Kiss Digtal N撮影)
ここは矢田寺地蔵尊参りの分岐点。
行基菩薩が道標として地蔵尊を設け周囲に枳殻(からたち)の木を植えたことからその地蔵尊はきこく地蔵と呼ばれ親しまれたという。
昭和九年に佐保川の大改修が行われた際、旧堤防から数多く地蔵さんが出土したので地区の人らは大切にしなきゃと地蔵堂に建立して枳殻の木を植えた。
当時は戦時中。「きこく」を「帰国」と言い替えて無事に帰国できるようにと願いをかけてお百度参りが絶えなかったという。
それから後の平成16年に再び佐保川の改修工事がはじまり、架かる郡界橋も架け替えすることなり地蔵堂を退避させていた。
平成18年7月に完成して元の位置に戻った地蔵堂。
その傍らには枳殻の木が一本残されている。
今日はそのきこく地蔵尊に阿弥陀さんの掛け軸を掲げて地蔵盆数珠繰り法要。
自治会が大切にしている地蔵尊では稗田の常楽寺の住職を迎えると、輪になって五穀豊穣、身体健康、地区安全を願い数珠を回していく。
元々は23、24日であった地蔵盆は効率化のため今日一日になっている。
数珠繰りを終えたらお下がりのお供え物をもらって帰ります。
(H19. 7.23 Kiss Digtal N撮影)