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<四国八十八箇所> 第71番札所 弥谷寺

2024-06-10 06:37:38 | 巡礼

 「弥谷寺」

 弥谷寺(いやだにじ)は、香川県三豊市三野町にある大本山の寺格を持つ真言宗善通寺派の寺院。剣五山 (けんござん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は千手観音菩薩。四国八十八箇所第七十一番札所。

 本尊真言:おん ばさら たらま きりく
 ご詠歌:悪人と行き連れなむも弥谷寺(いやだにじ) ただかりそめもよき友ぞよき
 納経印:本尊印、奥之院御学問所、七ヶ所参り大黒天
 概要
 弥谷山(標高382 m)の中腹225 m辺りに本堂があり、その背後の岩盤には創建時に千手佛が納められた岩穴が残る。また、山全体が霊山であるとの信仰があり、日本三大霊場(他は恐山・臼杵磨崖仏)の一つに数えられたといわれる。

 歴史
 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 – 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。

 807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し獅子之岩屋にて護摩を修し千座満願のとき蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴と五柄の剣を納め、山号を剣五山、仏の住む山である弥山から仏の谷という意味とされる弥谷に改めたと伝わる。

 室町時代には天霧城主・香川氏の庇護を受け、東院・西院・中尊院と6坊を備えて大寺になっていたが、天正期に兵火により荒廃し、現在の中尊院のみが存続、のち丸亀藩主京極氏の帰依により1600年(慶長5年)復興された。

 また、縁起によると「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊壌或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座之護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、これを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師42歳の姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったといわれ、その後(焼失・盗難を恐れたなど諸説あり)、岩屋の中に石仏の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、それまで祀っていた木像を秘仏としたことから、石造と木造の2体の厄除大師像が祀られている。また、澄禅の『四国遍路日記』(承応2年・1653年)には、木像がお祀りされていると記述され、寂本の『四国遍禮霊場記』(元禄2年・1689年)には、「いにしヘは木像にてありけるを石にて改め作り奉る」と記されている。2014年、大師堂厨子内に安置されているその秘仏木造厄除大師像が元禄2年以来320年ぶりに、同時に江戸期以来300年ぶりに本堂に安置されていた木造伝持の大師像、また、金銅四天王五鈷鈴(重文)も公開された。

 伽藍(ここでは下から記する)

 山門(仁王門)
 賽の河原:参道で灌頂川を渡る法雲橋付近で、昼でも暗く鬱蒼としたところ。
 金剛拳菩薩:十六大菩薩最後の一尊・元禄時代建立の約6 mの立像。
 百八階段
 大師堂:堂内に座って参拝できる。納経所もあり。
 奥之院 獅子之岩屋:弘法大師御学問所。大師堂と同じ建物で、秘仏木造厄除大師像の厨子のある内陣の背後に回った空間に拝所と岩屋がある。岩屋には奥之院本尊厄除大師石像、佐伯善通卿石像、玉依御前石像を10体の摩崖仏が囲んでいて、「明星之窓」から明かりを取り込む。「弥谷寺月のさしいる石室に修法大師のみ聲聞かまし」の扁額が入口に掛かる。現在は、中央に木造伝持の大師像、向かって左端に木造行基像、入口両脇には木造増長天と木造持国天。
 洞(ほら)地蔵尊:大師堂の背後の斜面の約10 m上方に鎮座し、大師堂内から拝む。
 護摩堂:大師堂とのつづき棟で、鉄筋コンクリートで造られ、木造不動明王立像と二童子・木造地蔵菩薩立像・木造愛染明王坐像と信者達の夥しい数の位牌が祀られている。
 経堂:石積みの石室で上に修行大師像がいる。
 鐘楼堂
 観音堂:本尊・聖観音菩薩と西国三十三所観音を祀る。
 十王堂:閻魔大王と地蔵菩薩半跏像と諸仏を祀る。
 多宝塔:内部は天女の絵や天井画の装飾が施されている。
 稲荷社(祠)
 岩窟の護摩堂:不動明王・弥勒菩薩・阿弥陀如来・道範の各石像を祀る。
 永代供養堂
 水場の洞窟:須弥山への入口とも極楽浄土の入口ともされ当山の霊山信仰の中心で、枯れることなく流れ出る水で経木を洗い清め願掛けする。
 弥陀三尊磨崖仏(比丘尼谷の磨崖仏)約12 mの岩壁に阿弥陀如来(約1 m)・観音勢至両菩薩(約0.9 m)が陽刻され、その両脇に九行刻まれた南無阿弥陀仏の名号が陰刻。
 本堂:ここまで570の石段がある。当初は、今の本堂の背後の岩壁中央にある四角い窟に大師作の石像の本尊が納められ、現在は獅子之岩屋の中に置かれている不動明王と毘沙門天が彫られた二枚の鉄板の扉が付いていて脇仏としていたといわれ、本堂は岩壁に張り付くように背面の無い建物が建てられ中から岩壁に彫られた仏像や五輪塔を拝んでいた。しかし、火災や落石で何度か再建され、現在の本堂は弘化5年(1848年)建立で背面壁もあり前年に造られた木造の千手観音像を本尊とし両脇仏の不動明王・毘沙門天と共に拝顔できる。向かって右脇陣には秘仏・胎蔵大日如来像、左脇陣には木造伝持の大師像(獅子之岩屋に移されている)。
 鎮守堂:本尊・深沙大将で別名を捲簾大将であるが当寺では蔵王権現と観念する。秘仏、平安時代作、等身大で倚像の大将像は国内唯一。境内で一番高所にある。
 少し上ると山門(標高140 m)があり、灌頂川に沿って長い石段の参道を登っていくと大きな金剛拳菩薩が迎えてくれる。その先に赤い手すりの108階段を上り詰めると目の前に大師堂(標高190 m)がある。右に進むとすぐ左上に多宝塔があって稲荷社はその脇にある。鐘楼は正面にあり、その前の石段を上って行くと途中の右に観音堂、左に十王堂があり、上り詰めると正面に岩窟の護摩堂がある。その護摩堂の右脇の急斜面に荒れた激急坂歩道の上に権現堂が見える。護摩堂を左に進むと水場があり、石段は二手に分かれ右の方に上がると途中、岩壁に弥陀三尊磨崖仏があり、それを過ぎるとやっと本堂がある。納経所は大師堂の中にあり、洞地蔵尊は大師堂中央あたりから山側を見ればある。なお、寺を去るとき、決して振り返ってはいけない、それは死者を背負って帰ってしまうからとの云い伝えがある。

 宿坊:なし
 寺進入路先の石段下の駐車場は無料であり。百八階段下の中腹にある駐車場までなら普通車で500円。大師堂のある400段目への送迎バスは休止中。
 名物の俳句茶屋は2018年閉鎖になった。

 文化財
 重要文化財
 金銅五鈷鈴 (伝空海将来) - 1901年(明治34年)3月27日指定。
 奈良国立博物館寄託。唐時代、弘法大師が唐より請来したとされる。
 国の史跡

 讃岐遍路道 曼荼羅寺道 - 弥谷寺へ向かう石段下分岐(三豊市三野町大見)から蛇谷池の堤(善通寺市碑殿町蛇谷)までの0.9 km。2014年(平成26)10月6日指定。
 香川県指定有形文化財
 仏説観仏三昧海経 巻第二 - 2007年(平成19年)3月30日指定。
 香川県指定史跡
 弥谷寺信仰遺跡 - 1968年(昭和43年)6月4日指定。以下、遺跡。
 賽(さい)の河原 - 仁王門から法雲橋までの参道
 獅子窟
 比丘尼谷の磨崖仏
 比丘尼谷の墓地大小無数の五輪塔

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第70番札所 本山寺

2024-06-09 07:52:55 | 巡礼

 「本山寺」

 本山寺(もとやまじ)は香川県三豊市にある高野山真言宗の寺院。七宝山(しっぽうざん)、持宝院(じほういん)と号す。本尊は馬頭観音菩薩(秘仏)。四国八十八箇所第七十番札所、四国三十六不動霊場第29番札所。鎌倉時代再建の本堂は国宝。

 本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか
 ご詠歌:本山(もとやま)に誰か植江(うえ)ける花なれや 春こそたをれたむけにぞなる
 納経印:当寺本尊、導(みちびき)不動、阿閦如来、五如来、本尊馬頭明王
 歴史
 寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。この時、本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。

 中世には寺領2,000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。

 永安から天正年間(1573年 – 1593年)の戦乱により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けたが、当寺は香川氏の勢力下にあり、早くに長宗我部と婚姻同盟しており「不戦協定」が結ばれていて、また、埋蔵文化財センターによる発掘でも焼かれた跡は見つかっていない。しかし、伝承ではこの境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入ったが、本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き、本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるとある。 澄禅『四国遍路日記』(1653年)や真念『四国辺路道指南』(1687年)には、本堂と仁王門と鐘楼しか記されていないが『四国遍礼名所図会』(1800年)には、大師堂(1795年建立)・十王堂(1759年建立)・大日堂・鎮守堂・庚申堂(1730年建立)が描かれ、1700年台に五重塔以外は現在とほぼ同じ伽藍が造られた。

 江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、天保年間(1830 – 1844年)には地名から本山寺と改称された。

 文化2年(1805年)3月3日より4月3日まで本尊および全ての堂宇と仏像が開帳され村をあげてのイベントが行われた。

 嘉永7年(1854年)には方丈・庫裏が全焼するが、慶応3年(1867年)に再建された。

 明治29年(1896年)8月五重塔着工、同31年11月一層、同33年9月二層、同36年2月三層、同43年3月四層五層完了、同年12月10日には五万人の観衆を集めて落慶法要が行われた。

 五重塔の修理が2019年4月9日竣工し、本尊の五智如来のうち失われていた中尊胎蔵大日如来が新造され令和5年11月5日落慶法要。

 伽藍

 大門:旧伊予街道側からの入口にある門。大正3年(1913年)宝光寺(岡山県瀬戸内市牛窓町)より移設。
 二王門
 本堂:毎年7月の土用の丑の日にきゅうり加持があり、その時に本堂内陣まで入れる。本尊と脇仏は宮殿に密閉され開くことができない。
 * 本尊前仏(お前立ち)の馬頭観音:善通寺金堂本尊を造った仏師・北川運長が当寺に来て、本尊馬頭観音を横に置き、姿大きさを写したと云われる馬頭観音像が2014年に公開された。平素は本堂宮殿の向って右横に秘仏として安置されている。江戸時代中期作
 大師堂:2014年に大師像が開帳された。その後は、毎月21日開帳。
 五重塔:明治29年(1896年)着工、明治43年(1910年)完成。2015年9月17日解体修理着工、2019年4月9日竣工。初層に明治期作の五智如来(檜材一木造り、彫眼、古色)が祀られていた。
 赤堂(大日堂):室町時代中期建立。金剛界大日如来と持国天・多聞天(いずれも鎌倉時代作)を祀る。
 鎮守堂:五所権現を祀る。

 十王堂(護摩堂):宝暦9年(1759年)建立、護摩堂は平成8年建立。向かって右に十王像、左に説法阿弥陀如来坐像と三面大黒天を祀る。奥は護摩堂で、近藤泰山が昭和10年に刻んだ不動明王立像(四国三十六不動霊場の本尊)で毎月28日午前9時より護摩が焚かれる。
 四国三十六不動霊場お砂触れ道場:2020年12月11日開眼。
 満州開拓慰霊堂(阿弥陀堂):奥殿の阿弥陀如来坐像は阿弥陀院本尊の客仏。
 一畑薬師堂:舟形石仏を祀る。島根県の一畑寺から勧請。
 鐘楼: 釣鐘は戦争供出により失われたため昭和24年に再鋳造された。
 客殿: 江戸時代末期の嘉永5年(1852年)焼失後の再建
 庫裏: 江戸時代末期の嘉永5年(1852年)焼失後の再建
 句碑歌碑:三浦恒禮子「ゆるぎなき空輪しぐれ雲の面」が大師堂の左背後に、その左に歌碑「五重の塔老樹のしけり鐘楼も 法のみ乃里の満てる寺庵」がある。
 二王門をくぐると正面奥に本堂があり、その手前右に大師堂がある。納経所は本堂の左側を通過し奥に進み本坊の門をくぐり中に入って左にある。

 宿坊:なし
 駐車場:仁王門前に無料あり。
 文化財

 国宝
 本堂(附 厨子3基、棟木の部分1枚):昭和30年6月22日指定。
 正安2年(1300年)に京極氏と佐々木氏の寄進によって再建された。棟木と礎石に残された墨書から、正安2年の建立が裏づけられる。桁行(正面)五間、梁間(側面)五間の寄棟造、本瓦葺(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す用語)。円柱を用い、建築様式は純和様に近いが、側面と背面に桟唐戸(さんからど)を用い、外陣に渡した虹梁上に大瓶束(たいへいづか)を用いる点など、細部には禅宗様を取り入れている。平面構成は手前の梁間二間分を外陣とし、奥は中央の桁行三間・梁間二間を内陣、その周囲を脇陣ならびに後陣とする。正面の五間の柱間装置はいずれも蔀戸(しとみど)である。外陣は中央よりに2本の大虹梁(だいこうりょう)を渡し、その上に大瓶束を立て、入側柱2本を省略している。内陣は大型厨子内にさらに3基の厨子を置き、中央に本尊馬頭観音、左右に薬師如来と阿弥陀如来を安置する。いずれも秘仏であるが、文化2年(1805年)3月3日から4月4日までこの本尊脇仏ほか全ての堂宇の諸仏を盛大に開帳した記録がある。1955年に修復工事を実施。
 重要文化財

 二王門(重要文化財)
 二王門:明治37年8月29日指定。
 室町時代中期建立の三間一戸八脚門。切妻造、本瓦葺。主柱、前後の控柱ともに円柱とする。建築様式は和様を基調とするが、柱の下部に礎盤を設ける点など細部に禅宗様を取り入れている。
 香川県指定有形文化財

 鎮守堂(県の有形文化財)
 鎮守堂:天文12年 (1543)・16年の墨書、平成元年2月28日指定
 木造善女龍王像 :檜の寄木造り、玉眼、像高47.5 cm、南北朝時代作、彫像としては稀有の作、鎮守堂に祀られていたが宝蔵に移されている。昭和63年2月26日指定
 木造金剛力士立像:平成9年5月23日指定
 木造愛染明王坐像:檜の寄木造り、彫眼、彩色や飾りは江戸時代のもの、本堂の向かって左奥に鎮座、平安後期作、平成9年5月23日指定
 本山寺蔵経文板木 83枚:平成11年2月23日指定
 本山寺蔵経文板木 4枚:平成22年3月30日追加指定
 三豊市指定有形文化財

 五輪塔 5基:大師堂の背後にある。昭和42年1月1日指定。
 五重塔:礎石から相輪先端までの高さ31.75 m。当時の住職は頼富実毅(よりとみじっき)総工費10万111円22銭7厘、平成改修の費用は4億円と云われている。平成26年1月指定。
 国の登録有形文化財
 大師堂:寛政7年 (1795) 建築、明治16年改修、入母屋造屋根の三間堂。平成26年12月19日指定
 十王堂:宝暦9年 (1759) 建築、平成5年改修、五間堂。平成26年12月19日指定
 大日堂:江戸時代中期建築。平成26年12月19日指定
 宝蔵:天保4 (1833) 建築。平成26年12月19日指定
 鐘楼:江戸時代中期建築。平成26年12月19日指定
 大門:江戸時代後期建築、大正3年岡山県から移築。平成26年12月19日指定
 冠木門:明治43年建築。平成26年12月19日指定

 行事
 「きゅうり加持」毎年 土用の一ノ丑、土用の二ノ丑
 一人につきキュウリ1本を持参し。本堂外陣で法話とお勤めの後、内陣にてお加持。

 本山寺  香川県三豊市豊中町本山甲1445番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第69番札所 観音寺

2024-06-08 07:24:55 | 巡礼

 「観音寺」

 観音寺(かんのんじ[1])は、香川県観音寺市(かんおんじし)にある真言宗大覚寺派の寺院。七宝山(しっぽうざん)と号す。本尊は聖観音菩薩。四国八十八箇所第六十九番札所。六十八番札所神恵院(じんねいん)と同じ境内にある。なお、市名は「かんおんじし」であるが、寺名は「かんのんじ」である。

 本尊真言 : おん あろりきゃ そわか
 ご詠歌 : 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引きあげてたべ
 納経印:当寺本尊、愛染明王
 歴史
 伝承によれば、大宝年間(701年 – 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として当寺は建立され神宮寺宝光院と称していた。

 寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂(ちゅうこんどう)に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、丈六の薬師如来を納めた西金堂(さいこんどう)や弥勒菩薩を納めた東金堂(とうこんどう)など七堂伽藍を整備し、さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋め地鎮したことから、名称も七宝山観音寺と改めたという。その後、院号は神恵院に改められている。 そして、桓武天皇はじめ三代の天皇の勅願所となり、室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が45年間住職を務めるなど隆盛を誇った。

 伽藍

 山門(仁王門):日本遺産の石碑が当山門には日本で唯一両脇に2つ設置されている。
 本堂:中金堂で本堂。本尊は秘仏で、文化財調査の時でも住職はわざに外出していた程の秘仏であったが、2014年記録の無い初めての開帳がされ、さらに2023年12月に開帳、今後は10年に一度開帳予定。
 大師堂:大師像を拝顔できる。
 愛染堂:愛染明王は修復され2017年5月14日開眼法要が行われた。真言は「うんたきうんじゃく うんしっち」。
 薬師堂:元神恵院本堂で、西金堂である薬師堂。本尊は大きな薬師如来坐像、向かって右脇には胎蔵大日如来坐像。
 心経殿:コンクリート製の多宝塔で、本尊は金剛界大日如来坐像
 五智如来石像
 開山堂(東金堂):弥勒菩薩が祀られている。
 大日堂:開山堂の向かって右にある。
 経塚堂:薬師堂の向かって右にあり。文化財級であるが指定はされていない。
 宝物館:重文の涅槃釈迦涅槃像が収められている。
 鐘楼堂:天井裏に細かな彫物がされている。
 西国三十三所の写し石仏:天保11年(1840年)建立。本堂の向かって右より本堂背後の上の壇から薬師堂の左までにかけて配置されている。
 仁王門をくぐり参道を進み石段を上りきると正面に愛染堂、その左に大師堂、右手に鐘楼堂、さらに右奥に本堂がある。愛染堂の右の五智如来石像の右の石段を上ると正面に薬師堂がある。

 梧桐庵:Cafe&遍路グッズ販売
 宿坊:なし
 駐車場:山門前に無料であり。

 文化財
 重要文化財
 本堂(附:厨子、棟札):昭和34年6月27日指定
 寄棟造、本瓦葺き。室町時代建立の前身堂の部材を用いて延宝5年(1677年)に建立されたもの。重要文化財指定名称は「観音寺金堂」。
 木造釈迦涅槃仏像 :明治34年3月27日指定
 藤原時代末期作、像長74.0 cm、像高18 cm、ヒノキ材、寄木造り・目は彫眼・頭は蜾髪、彫像の涅槃仏で中世にさかのぼる稀有な例である。
 絹本著色不動明王二童子像:明治34年3月27日指定
 香川県立ミュージアム寄託。
 県指定有形文化財
 木造大日如来坐像(伝・聖観音)・薬師如来坐像・釈迦如来坐像:昭和44年4月3日指定
 大日如来坐像は当寺の本尊(伝・聖観音)で像高103.0 cm、平安時代(11世紀)の作。法界定印に蓮華を持し胎藏大日如来と聖観音が一体となる姿であるという。その左右に安置される薬師如来坐像(向かって左)と釈迦如来坐像はともに像高75.0 cm、平安時代(11 – 12世紀)の作。以上3躯ともに木造漆箔で、1基の宮殿(扉はそれぞれ別)に安置され開扉記録のない秘仏であったが、2014年に一般公開された。
 絹本著色両界曼荼羅図:昭和44年4月3日指定
 観音寺市指定有形文化財
 木造金剛界大日如来坐像:昭和41年1月13日指定
 浄土九品曼荼羅図:昭和53年12月19日指定
 弘化録:昭和53年12月19日指定

 観音寺  香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第68番札所 神恵院

2024-06-07 07:20:37 | 巡礼

 「神恵院」

 神恵院(じんねいん)は、香川県観音寺市にある真言宗大覚寺派の寺院。七宝山(しっぽうざん)と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第六十八番札所。

 ご本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
 ご詠歌:笛の音も松吹く風も琴弾(ひ)くも 歌うも舞うも法(のり)のこえごえ
 歴史
 法相宗の日証上人が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を山上に祀り琴弾八幡宮と名付けた。行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が訪れ、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描き安置した。その後、琴弾八幡宮は四国八十八箇所が成立したとき札所とされ、納経は別当の観音寺で行われた。なお、観音寺も札所として選ばれたので、琴弾八幡宮の納経は神恵院の院号で「琴弾八幡宮 別當神恵院」、観音寺自身の納経は寺号で「聖観音 右同所 別當観音寺」と納経をすることとなった。

 しかし明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮に安置されていた本地阿弥陀如来図は観音寺境内の西金堂(さいこんどう)に移されたため西金堂は神恵院本堂となった。2002年、境内の別の場所に神恵院本堂が鉄筋コンクリートで新築され、元の本堂は薬師堂に戻され、その横にあった神恵院大師堂は台風で失われたので、十王堂の右半分が大師堂になった。

 伽藍

 山門(仁王門):観音寺と共通。
 沓音天神祠:山門からの参道左上にある。庵に誰かが訪ねて来たが沓の音のみで姿が見えず後を追うとこの社で消えたとの伝説から
 本堂:阿弥陀来迎図は中央、向かって左脇陣に阿弥陀如来立像と日光月光像、右に地蔵菩薩。
 大師堂:大師堂棟の向かって右側。大師像を拝顔できる。
 太子堂:大師堂棟の左。聖徳太子を祀る。
 回遊式日本庭園「巍巍園(ぎぎえん)」:第45世太政大僧正道尊の作庭
 預修殿(よしゅうでん):閻魔大王を祀り、納経所・客殿・寺務所の機能を備えた堂宇。『預修十王経』に因んだ名前。
 仁王門をくぐり参道を進むと石段があり上り切ると右に鐘楼があるが、左に折れまた右を見るとお堂の向こうにコンクリート打ちっぱなしの建造物があり、その中の石段を登ると本堂がある。大師堂は戻って降りた右手にある。庭園は観音寺の方であるが、神恵院の本堂に上がった左側から眺めることができるのでここで紹介する。

 宿坊:なし
 駐車場:山門前に無料であり。

 文化財
 重要文化財
 絹本著色琴弾八幡本地仏像:本尊で秘仏。左上に阿弥陀三尊が来迎し、右下に釈迦三尊が立つ姿を描く。鎌倉時代作、明治34年3月27日指定
 絹本著色琴弾宮絵縁起(ことびきのみやええんぎ):香川県立ミュージアム寄託。瀬戸内海を背景に山頂に琴弾宮が鎮座する琴弾山周辺の景観を描いている。鎌倉時代作、明治34年3月27日指定
 行事
 えんま様縁日:毎年1月16日と8月16日、観音寺を含めた各堂が開かれ、十王堂では先祖追善法要、薬師堂では護摩祈願が催行される。
 釈迦涅槃像公開:毎年2月15日(涅槃会)と4月8日(花祭り)

 神恵院   香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第67番札所 大興寺

2024-06-06 07:30:12 | 巡礼

 「大興寺」

 大興寺(だいこうじ)は、香川県三豊市にある真言宗善通寺派の寺院。小松尾山(こまつおざん)、不動光院(ふどうこういん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第六十七番札所。

 本尊真言 : おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌 : 植えおきし小松尾寺(でら)を眺むれば 法(のり)の教えの風ぞふきぬる
 沿革
 寺伝によれば、天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立された。その後、最澄の影響で天台宗となる。火災により焼失していた諸堂を、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に熊野三所権現を鎮護する霊場として再興し、また、本尊に薬師如来と脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで堂宇を建立し安置したという。その後も東大寺の末寺として真言宗24坊、天台宗12坊の僧堂が連ね、空海と最澄の教えを修行する道場として栄えた。

 寺の説明では、天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失したとあるが諸記録では1596年に大破(理由は未記載)したとあり長曾我部元親は関係ないと思われる。慶長2年(1597年)に南東約1 kmの現在地である小松尾の末坊(泉上坊や乗林坊)があった所に移転し仮本堂が建てられ、寛文9年(1669年)に本堂が建立されたものの再び焼失、現在の本堂は寛保元年(1741年)に再建された。 なお、境内南側の熊野三所権現は明治の神仏分離までは当寺住職が別当を兼ねていた。また、昭和の末までは地元でもっぱら、地名から小松尾寺と呼ばれていたが、現在は正式名の大興寺に統一されている。

 境内
 山門(仁王門):文保2年(1318年)建立され、寛政8年(1796年)に8年かかって現在地に再興。仁王像は鎌倉時代中期に造られ寛政2年(1790)に彩色修繕されたもので四国で一番大きい。
 本堂:寛保元年(1741年)に再建されたもの。宮殿には本尊および脇仏・不動明王立像と毘沙門天立像が扉は別であるが同じ空間に入れられている。また両脇陣には十二神将(堪慶の作)が6体ずつに分けられ置かれている。また宮殿背後の左側には閻魔大王とその脇侍がいる。60年に一度、本尊の御開帳が行われており、近年では2017年3月26日から5月8日まで行われた。なお、前回御開帳時に本尊修復が行われたが今回は修復の必要はなく、御開帳後は本堂後ろに新設された収蔵庫に置かれる。
 大師堂:脇陣には、胎蔵大日如来坐像と如意輪観音。春秋の彼岸の日開帳される。
 天台大師堂:天台大師坐像を祀る。
 石造五輪塔:正面からの石段の中段にある。元はここに大師堂があった
 相生の松:三鈷の松は本堂側の前にある。
 熊野三所権現:向かって右に熊野三所権現、左に少し小さい荒魂神社の祠がある。
 鐘楼
 本坊
 句碑:石段を上り切った鐘楼前に「へんろ笠さぬき路となり古びけ里」がある。
 小さい川をわたり仁王門をくぐると石段があり、94段上り詰めると右に鐘楼左に手水舎、正面に本堂、本堂の左奥に弘法大師堂、右奥に天台大師堂がある。本堂の向って左側が納経所になっている。なお、本堂の裏側からなら階段を登らずに本堂に至ることができるが、納経をお願いすると仁王門から入り直しなさいと断られる。熊野三所権現は、境内の東側に一段高くなっていて祀られている。

 宿坊:なし
 駐車場:山門の横に無料で、普通車10台。大型5台。

 文化財
 香川県指定有形文化財
 木造薬師如来坐像(本尊):檜の寄木造り、像高84 cm、平安時代後期作、昭和44年4月3日指定。
 木造天台大師坐像:像高77.2 cm、檜の寄木造り、天台宗第三祖智顗の像、1276年法橋佐慶作、昭和44年4月3日指定。
 木造「大興寺」扁額:縦76.3 cm、横45.4 cm、厚さ5.2 cmの桧材、文永四年(1267年)藤原経朝の書、昭和49年6月15日指定。
 木造金剛力士像:3.14 m、伝・運慶作(実際の作者は不明)、鎌倉時代、昭和51年6月29日指定。
 木造弘法大師坐像:像高74.0 cm、1276年佑慶作、平成29年4月4日指定(木造天台大師坐像に追加指定)。
 三豊市指定有形文化財
 梵鐘:貞享2年 (1685年) 鋳造、昭和45年11月6日指定。

 三豊市指定史跡
 あみだ地:大興寺の草創期の仏堂跡と伝えられ、近辺に大興寺、大円坊などの小字名がある。昭和60年12月山本町教育委員会が石碑を建立。昭和4年11月3日指定。

 香川県指定自然記念物
 小松尾寺のカヤ:樹高20 m、胸高幹周3.92 m、樹齢およそ1,200年、山門を入ってすぐ右にある。昭和51年3月23日指定。
 香川県保存木
 小松尾寺のクス :樹齢700年余、樹高24 m、胸高幹周7.5 m、昭和55年3月11日指定

 大興寺  香川県三豊市山本町辻字小松尾4209番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第66番札所 雲辺寺

2024-06-05 07:39:38 | 巡礼

 「雲辺寺」

 雲辺寺(うんぺんじ)は、徳島県三好市(もと三好郡)池田町白地ノロウチの雲辺寺山山頂(標高927 m)近くに位置する真言宗御室派の寺院で、巨鼇山(きょごうざん)千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第六十六番札所、阿波西国三十三観音霊場(西部)第二十一番札所。

 本尊真言:おん ばさらたらま きりく そわか
 ご詠歌:はるばると雲のほとりの寺に来て 月日を今は麓にぞ見る
 納経印:当寺本尊、毘沙門天(阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神霊場めぐり)、最高峰四国高野のナス形の朱印
 概要
 四国八十八箇所霊場第66番札所で、所在地は徳島県(阿波)であるが霊場としては讃岐の札所として扱われ、「涅槃の道場」の始まりで、八十八箇所中で最も標高が高い位置(本堂の位置で標高900 m付近)にあり、最後の「関所寺」である。夏は紫陽花が全山一面に咲き、晩秋には紅葉の名所となり、冬はロープウエイ利用が可能なため、雪の風景となる。

 沿革

 寺伝によれば、789年(延暦8年)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする。空海はまた、807年(大同2年)には秘密灌頂の修法を行い、さらに818年(弘仁9年)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行ったという。後に「四国高野」と呼ばれ、僧侶の修行道場となり、貞観年間(857年から877年)には清和天皇の勅願寺ともなった。

 1098年(承徳2年)火災で全山焼失するも、その後に鹿を追って当地に入った猟師の与成(よなり)は樹上に現れた観音菩薩の威厳にうたれ発心し堂宇の再建を果たした。 平安末期の中興の祖と云われるにふさわしい願西上人が住職のとき、現存する本尊千手観音と毘沙門天が造られた。 鎌倉時代には、阿波守護の佐々木経高(経蓮)の庇護を受け、七堂伽藍が整えられた。 1311年(応長元年)には、京都西園寺家により寺領が寄進される。 1363年(貞治2年)には足利氏より法華経真読を依頼される。

 1577年(天正5年)に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。

 1987年(昭和62年)に香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれ、訪れやすい寺となった。

 2019年(令和元年)に雲辺寺開創1,230年記念として一般公開の本尊開帳が本堂背後の宝物館で行われた。なお、四国霊場開創1,200年(2014年)にも行われた。

 境内

 山門(仁王門)
 本堂:2009年落成。中央に前立本尊の石造千手観音が鎮座し、向かって右前に黒不動明王立像と左に黒毘沙門天立像、その背後に地蔵菩薩立像。
 宝物館二棟:本堂の背後の斜面の棟には、本尊の木造千手観音坐像(重文)・木造毘沙門天立像(重文)と鋳造金剛界大日如来坐像および四天王立像、初代本尊の一部である仏頭や手(その大きさから初代本尊は丈六仏だったと考えられている)などが収蔵。護摩堂の背後の斜面の棟には不動明王立像(重文)が収蔵。

 大師堂拝殿、奥殿:拝殿の外回廊を廻って裏から奥殿を参拝する。
 鐘楼
 護摩堂

 五社大権現(祠)
 おたのみなす:頼みごとが成す「なす」ようにとのことで願い事を書いた紙を石のモニュメントに貼る。またお守りがある。
 五百羅漢・涅槃釈迦仏・千手観音・不動明王ほか:石造が境内に点在している。
 三大巨木:大師乳銀杏、霊木三位一体(カシ・ハンノキ、カエデ)、夫婦杉
 毘沙門天展望館:標高927 mの最高地点に建ち、屋上に立てば360度見渡せる。北東に約0.6 kmの位置に二等三角点「雲辺寺山」標高911 mがある。
 句碑:山頭火「石佛濡佛けふも秋雨」と「雲辺や瀬戸の秋景ほしいまゝ」が山上ロープウェイ駅の近くにある。
 本坊
 仁王門の脇に手水舎があり、仁王門をくぐり石段を上がると右手に鐘楼、正面奥には大師堂拝殿があり履物を脱いで回廊を回って裏に行くと、大師堂奥殿がある。大師堂拝殿の左手前のスロープーを降りていくと、コンクリートの本堂側面が見え、左に納経所がある。本堂の左に護摩堂さらに本坊がある。

 宿坊:なし
 駐車場:20台(道路維持管理費として通常時は普通車で500円を納経所で支払うが、紅葉期には納経遍路以外の参詣者も境内入口で支払う。駐車場から境内まで徒歩約10分。なお、さらに1 km下の県道脇に10台の駐車スペースがあり、そこから徒歩なら無料)
 ロープウェイ山頂駅から境内まで徒歩約10分(山麓駅無料駐車場:800台、大型10台)

 文化財
 重要文化財
 木造千手観音坐像 - 檜の一木造り、素地、42臂、103.3 cm、平安時代後期、経尋作。作者は11番札所・藤井寺の釈迦如来(寺伝薬師如来)像の作者と同じ。明治44年(1911年)8月9日指定。
 木造不動明王・毘沙門天立像 慶尊作- 木造、彩色、毘沙門天像154.5 cm、寿永3年(1184年)作。毘沙門天は明治44年(1911年)8月9日指定、不動明王は2018年10月31日追加指定。
 絹本著色聖衆来迎図 - 明治43年(1910年)8月29日指定。
 史跡

 阿波遍路道 雲辺寺道 - 雲辺寺に至る遍路道のうち、古道の景観を色濃く留める3つの区間の総計約2.16 km。平成29年2月9日指定。
 三好市池田町佐野の集落から上る道で頂上ラインを走る高原道路に合流するまでの区間の1.数 km
 県道268号からの車道の先と高原道路からの合流地点から上がる徒歩道で有料道路に上がるまでの区間の数百 m
 有料道路のヘアピンカーブにある石段から車道に上がるまでの区間の数十 m

 雲辺寺 徳島県三好市池田町白地ノロウチ763-2

*Wikipedia より 

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<四国八十八箇所> 第65番札所 三角寺

2024-06-04 08:04:09 | 巡礼

 「三角寺」

 三角寺(さんかくじ)は愛媛県四国中央市金田町三角寺75にある高野山真言宗の寺院。由霊山(ゆれいざん)、慈尊院(じそんいん)と号す。本尊は十一面観世音。四国八十八箇所第六十五番札所。

 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
 ご詠歌:おそろしや三つの角にもいるならば 心をまろく慈悲を念ぜよ
 概要

 龍王山(標高465 m)の中腹、標高355 m辺りにあり、かつてはかなり厳しい山道を登らねばならぬ難所寺であった。さらに大師像の参拝には、背後の法皇山脈のピークの平石山(標高825 m)の東尾根の地蔵峠(標高765 m)を越えて行かねばならなかった。現在でも、段差の大きい73段の石段を息を切らして上り、仁王門をくぐって審判を受ける伊予の関所寺(別の寺が関所寺という説もあり)で伊予国の最後の札所である。

 歴史
 寺伝によれば天平年間(730年 – 749年)に聖武天皇の勅願により行基が弥勒浄土を具現化しようと開基したとされる。その後、弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が来訪した際に十一面観音を刻んで本尊とし、さらに、不動明王を刻んで三角形の護摩壇を築き21日間「降伏護摩の秘法」を施したとされる。この降伏護摩は、この地に棲む悪い龍に対し空海が農民のために水を提供するように約束させたもので、この護摩壇の跡が境内にある三角の池(みすみのいけ)の中の島として現存し、寺院名の由来とされる。また、嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたという。

 天正9年(1581年)の長宗我部元親軍の兵火で本尊以外は焼失したが、寂本の『四国遍礼霊場記(1689年)』には、単層の本堂、弥勒堂、鎮守堂、庫裡が描かれていて復興している。現在の本堂は嘉永2年(1849年)に再建されたもので二層。昭和46年には基礎部分の木造をコンクリートに変更し修復した。

 本尊と大師像
 本尊・十一面観音は、子安観音として厄除観音としても信仰されている。以下の習わしがあった。それは、妊婦が寺の庫裡にある杓子(しゃもじ)をひそかに持出し、出産の際に床下へ置くと安産になるという。寺では妊婦が杓子を持ち帰るのを見てみぬふりをし、妊婦は安産の後は新しい杓子を持ってお礼まいりにくるという。また、子宝に恵まれない女性は裏の入口で杓子をもらい、自宅に持ち帰り使用して子授けを祈願するというものである。
 現在は、納経所に本人が申し出ると杓子を授けてもらえる。また、腹帯も扱っている。
 大師像が元禄時代に当寺に新造されるまで、大師像の参拝は、山を越えた仙龍寺に行っていた。その後も仙龍寺に参拝する者は絶えず、近年まで隆盛は続いたと言われている。なお、現在の大師堂は、中心に弥勒如来(空海が本尊を十一面観音とする以前は弥勒如来が本尊だったとされている)、向かって右側に大師像が祀られている。その弥勒如来坐像と大師像は2014年に初めて開帳された。
 境内

 山門(鐘門・仁王門):仁王像は2014年に修復から帰ってきたものである。
 本堂:本尊厨子の両脇には胎蔵大日如来坐像と文殊菩薩坐像、さらに、不動明王立像と毘沙門天立像を安置する。
 大師堂
 三角の池:三角形の池の中の島に弁財天が祀られた祠がある。
 薬師堂
 延命地蔵菩薩:総高約7 mの青銅製の立像。昭和52年11月建立。ここに大師堂が建っていたが本堂と近く万一の際、相互の類焼を避けるために大師堂を移動した。
 鎮守社祠:客殿の裏の山際にある。
 庫裏・客殿
 西国三十三観音の写し石仏
 山桜と四季桜:樹齢約三百年といわれる山桜で4月中旬ころ境内が充満する。また、年中チラホラと咲く四季桜が遍路の間では有名で、御衣黄桜もある。
 句碑:上記の山桜は小林一茶ゆかりの桜で寛政7年(1795年)に来訪したとき「是でこそ登りかひあり山桜」と詠んだ句碑が本堂の前に、また、近藤篤山の句碑「大杉と尊像並び時雨なり」が薬師堂の前に昭和12年10月に建てられている。
 境内下の駐車場から見上げるような石段を上って釣鐘が架かる山門を入ると右に納経所があり、左に進むと右手に弁財天のある三角池や薬師堂、一番奥に本堂がある。大師堂は本堂手前の右の丘に建っている。

 宿坊:なし
 駐車場:40台(民営で有料、普通車で200円)、身体障害者同乗は寺に電話をすれば納経所裏まで通行可。

 文化財
 国の史跡
 伊予遍路道 三角寺奥之院道:当寺から仙龍寺を経て雲辺寺に至る雲辺寺道の一部で、当寺境内を出たところから4丁石までの間約3.8 km、平成29年10月13日指定。
 本堂の前に58丁石、地蔵峠には中務茂兵衛の通夜を勧める21丁石が左側に首のない地蔵が右側に(三角寺から2.6 km、仙龍寺から2.1 km、標高765 m)、樹齢200年の馬場の桜(エドヒガン桜、樹高20.4 m 胸高樹周6.05m 旧新宮村指定天然記念物)、8丁に不動堂、4丁に不動滝への道と直接寺への道の分岐で史跡指定はここまで。

 県指定有形文化財
 木造十一面観世音立像:昭和40年4月2日指定。
 60年に一度甲子の年に開帳される厳格な秘仏で、前回の開帳は昭和59年 (1984年) だった。像高1,684 cm檜の一木造りで天冠の直下のみ緑青彩で髪全体は墨彩され他は漆箔が施され、顔は重厚で躰は厚く張りのある力強い感じで10世紀も早い時期に造られたもの。
 行事
 「諸病封じ きゅうり加持」毎年 土用丑の日(7月下旬頃)
 一人につきキュウリ1本を持参。本堂で住職による加持。

 三角寺  愛媛県四国中央市金田町三角寺75

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第64番札所 前神寺

2024-06-03 06:54:55 | 巡礼

 「前神寺」

 前神寺(まえがみじ)は、愛媛県西条市洲之内にある真言宗石鈇派総本山の寺院。石鈇山(いしづちさん)、金色院(こんじきいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第六十四番札所。日本七霊山の1つ、霊峰石鎚山 (1982m) の麓に位置する。

 ご本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
 ご詠歌:前は神後(うしろ)は仏(ほとけ)極楽の よろずの罪をくだくいしづち
 納経印:当寺本尊、奥前神寺石鈇山蔵王大権現、四国(東予)七福神・寿老人
 概要

 西日本最高峰石鎚山の7合目標高1,400 mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷により、麓の西田(標高50 m付近)に本拠を移すも、その後の神仏分離令により廃寺の憂き目に遭あったが苦難の末再興し現在の隆盛に繋げている。本堂前での柴燈護摩は節分・お山開き開闢・閉闢の年三回あり、さらにお山開き開闢時には石鎚登山ロープウェイ下谷駅前でも行なわれる。

 歴史
 役の行者(役小角)が石鎚山の頂上を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「為せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇蔵王権現となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は石鎚神社中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。

 後に石仙(しゃくせん)が当地に堂を建て常住舎と云われた。そして、弟子の寂仙[注釈 2]が山頂への登山道を整備した。桓武天皇(782年〜805年)が病気を患った時、常住舎で平癒の祈願をし成就したことによって当地に七堂伽藍が建てられ勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに空海(弘法大師)が19歳(793年頃)の時に石峯(石鎚山)に跨りてと『三教指帰』に自ら記しているように当山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られ、当寺(常住)に1591年伊予の領主となった福島正則が参籠した。徳川家にも崇敬され1610年豊臣秀頼が神殿を修築、福島正則がその普請奉行となる。そして、西条藩主・小松藩主も厚く遇した。なお、当寺は山頂の弥山に存在する石鈇蔵王権現社(現在の石鎚神社奥宮頂上社)の別当寺で、東の遥拝所でもあった。

 江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓の橘郷に出張所として里寺納経所で通称里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置したため、本寺を通称として奥前神寺と呼ぶようになった。真念の『四国遍路道指南(1687年刊)』には、里前神寺は前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれていて、寂本の『四国遍礼霊場記(1689年刊)』には、奥前神寺は本堂護摩堂その他堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂社がありと壮大な伽藍であったことを表している。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった。1657年西条藩主一柳直興が里前神寺に仏殿を建立し、西条藩主になった松平家の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)東照宮を里前神寺にまつり、高三石を寄附し、三葉葵の寺紋を許した。1752年には徳川家重が1778年には徳川家治が、里前神寺に厄除け祈祷を命じたと記録がある。

 明治初年の神仏分離令により神仏混淆を禁止し権現号菩薩号が廃止、廃寺となり明治22年(1889年)前神寺の旧称に復した。奥前神寺は、今宮道の最終地点に再興され、さらに石鎚登山ロープウェイの開通(1969年開業)の翌年に山上駅の上の現在地に移転される。 昭和22年(1947年)御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となった。 その後、本堂は本尊とともに火災で焼失、昭和47年(1972年)本堂は再建され、本尊も新造された。その本尊は古来より秘仏。

 境内
 本堂:入母屋造で屋根は青い銅板葺き。本尊は蔵王権現の本地仏である阿弥陀如来立像で秘仏。四国(東予)七福神の寿老人を合祀。
 石鈇権現堂:石鈇山蔵王大権現を祀る。三体の権現像が毎月一度開帳され、加持される。12月と1月以外は本堂に祀っており権現堂には蔵王権現は不在。
 薬師堂:本尊薬師如来は秘仏、向かって左脇陣には賓頭盧像。
 護摩堂:毎月20日護摩が焚かれる。
 お滝不動:大師堂右の石段を登った場所にあり、滝打修行が行われていた。現在は水量も乏しく、1円玉を投げて滝下の岩肌に張り付くとご利益があるといわれる。
 弁財天祠
 稲荷社祠
 浄土橋

 十三仏像(舟形石仏)
 水子地蔵菩薩像(鋳造像)
 修行大師像(レリーフ石像)
 金毘羅堂(小堂)
 穴薬師(側面に掘られた祠)
 大師堂:全身真っ黒い大師像。玉眼。不定期で拝観できる。
 鐘楼堂
 庫裡・納経所
 極楽橋

 句碑:白象(高野山元管長森寛紹)「石鎚の麓の寺の秋遍路」が山側にあり、小林一茶「御百度や花より出て花尓入」が向かいにある。
 駐車場:30台、大型5台、無料。
 山門(惣門)
 惣門をくぐって参道を進み左に折れて薬師谷川をわたると右手に手水場、鐘楼が左手に庫裏・納経所がある。そして 右に折れると左に大師堂、穴薬師が右には金毘羅堂、修行大師像、水子地蔵菩薩像が並び、浄土橋を渡ると右に水が滴り落ちるお滝不動明王像、弁財天祠、稲荷社祠がある。石段を上がるとすぐに護摩堂、薬師堂があって、最も奥に本堂が建つ。本堂右の丘に石鉄権現堂がある。参道の鬱蒼とした杉・檜の木立や古い灯籠が何基も立ち並ぶ境内には、老樹が生い茂り、深山幽谷の佇まいを見せている。

 新四国八十八:明治25辰年3月21日開設。64番は石鈇権現堂への石段下。本堂背後の薬師谷川の砂防ダムの石段を上がった右斜面に88番その先に1番から順に上がって行きぐるっと回って不動堂右奥に63番へと下りてくる。65番以降は大師堂左背後の境内進入口から山の上へ上がって行くと順打ちである。
 宿坊:無し

 文化財
 西条市指定書跡

 石鎚修験道に関する古文書 今から約二百年余前の文書 昭和51年3月10日指定
 横峯寺出入(御室御所ご裁許後道後先達中の披露の節定書):巻物一巻
 修験道に関する綴:一冊
 行事
 毎月20日 権現様縁日
 石鉄権現堂で、20時00分から開帳される3体の蔵王権現に体の悪い部分をこすりつけて病気平癒を祈願する。
 御開帳後は護摩堂にて護摩祈祷で御縁日を締めくくる。
 7月1日からの10日間 山開き
 6月30日午前7時に前神寺本堂前で柴灯護摩を催行後、開創以来脈々と受け継がれた三体の権現様と一緒に信者達はバスで石鎚山ロープウェイ下谷駅に向かう。
 午前9時ごろ下谷駅の後方広場で柴灯護摩を行い、ロープウェイで山上駅へ上がり奥前神寺に到着後、権現様の御開帳が行われ午前10時頃には本日の行事は終了。
 7月1日から10日は、奥前神寺で朝5時より護摩が焚かれ参拝者を迎え入れる。この期間は志料で権現様の開帳を受けることができ、特別護摩も随時催行される。
 7月11日午前6時に奥前神寺を出発した権現様と信者達はロープウェイで下山。一方、前神寺を午前6時にバスで山に向かった信者達と下谷駅で合流後、3つの唐櫃(からびつ)に入れられた権現像を担ぎ黒瀬峠を越え前神寺へ列をなし約22 kmを歩いて帰る。途中、御旅所で待ち構えた一般信徒は拝戴を受ける。帰寺後、待ち構えた信徒たちと昼頃本堂前で柴燈護摩が行われる。

 前神寺  愛媛県西条市洲之内甲1426番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第63番札所 吉祥寺

2024-06-02 06:08:59 | 巡礼

 「吉祥寺」

 吉祥寺(きちじょうじ)は、愛媛県西条市にある真言宗東寺派の寺院である。密教山(みっきょうざん)、胎蔵院(たいぞういん)と号す。本尊は毘沙門天(当寺では「毘沙聞天」と表記)。四国八十八箇所第六十三番札所。毘沙門天を本尊とするのは、四国八十八ヶ所では当寺のみである。

 本尊真言:おん べいしら まんだや そわか
 ご詠歌:身の中(うち)の悪(あ)しき悲報を打ちすてて みな吉祥(きちじょう)を 望み祈れよ
 納経印:当寺本尊(四国八十八ヶ所六十三番、四国(東予)七福神)
 沿革
 寺伝によれば弘仁年間(810年 – 823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。

 そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元川谷間の山中[2][3]の現在は吉祥寺藪と呼ばれている箇所にあり、塔頭を21坊も有するようになっていたが、豊臣秀吉の四国征伐の際、天正13年(1585年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火され、全山焼失した。本尊は助けだされ麓の大師堂のあったところに移されていたが、万治2年(1659年)に塔頭の檜木寺(かいぼくでら)と合併して現在の地に再建された。

 昭和51年(1976年)、当時の住職が発起して周辺の札所にて「四国東予七福神霊場」を開創した。開創に至っては周辺の七福神が奉安されている寺院にて江戸時代末期ごろから信仰があった為である。なお、四国東予七福神霊場の専用納経色紙は当寺にて1枚1,000円にて授与している。

 なお、インドのVaiśravaṇaにあたる尊格は、日本では漢訳経典(不空訳『毘沙門天王経』など)に基づき「毘沙門天」と表記するのが普通だが、当寺では毘沙門天の別名、多聞天の聞の字を充て「毘沙聞天」としている。

 境内

 山門
 本堂:本尊・毘沙聞天坐像は60年に一度開帳の秘仏で次回は西暦2038年。本尊前仏(毘沙聞天王・吉祥天女・禅尼師童子)を開帳し毘沙聞天王増益護摩法を、また雙身敬愛天浴油法(毘沙聞天浴油法)を厳修している。
 大師堂

 吉祥寺 福聚閣
 福聚閣:七福神のうち寺本尊の毘沙聞天を除く六神を祀る。
 鐘楼
 庫裏
 くぐり吉祥天女:この像の下をくぐると、あらゆる貧困を取り除き、富貴財宝を授かると伝わる。
 成就石:本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き、石に開いてある穴(直径約30 cm)に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わる。
 句碑:松尾芭蕉「婦留池や蛙飛びこむ水能音」が成就石の後ろにあり、吉田真照「有難や美阿登慕うて二十五歳」がその右にある。
 山門を入って左側に鐘楼、手水場があり、少し進んで右に庫裏と納経所、左に本堂、その左に大師堂である。

 宿坊:なし
 駐車場:なし。付近に民営駐車場あり 普通車:300円(1時間)。
 寺宝
 マリア観音像 - 純白の高麗焼の像、高さ約30 cm、長宗我部元親が救出したスペイン船長より託されたとされる。
 黒漆塗梅唐草金銀蒔絵女乗物 - 江戸時代、高鍋藩主秋月種徳女照子(潤性院)が小松藩主一柳頼親へ輿入れの際に乗った女乗物(身分の高い女性用の駕籠)。2015年1月3日公開された。

 吉祥寺  愛媛県西条市氷見乙1048

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第62番札所 宝寿寺

2024-06-01 06:57:39 | 巡礼

 「宝寿寺」

 宝寿寺(ほうじゅじ)は、愛媛県西条市小松町にある真言宗善通寺派の寺院(元高野山真言宗→単立を経て)。天養山(てんようざん)、観音院(かんおんいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所第六十二番札所。なお、元札所の一之宮神社もここで記述する。

 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
 ご詠歌:さみだれのあとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かわ
 納経印:当寺本尊、四国(東予)七福神・布袋尊
 縁起と歴史

 聖武天皇の勅願によって天平年間(729年 – 748年)大国主大神の信託により大国主大神ら三神を白坪の里(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)に奉斎したという、その際、道慈によって、その法楽所として傍らに建立され金剛宝寺と名付けられた。

 大同年間(806年 – 810年)空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、寺名を宝寿寺に改めた。またこの頃国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼み、空海は境内の玉ノ井(現存しない)の水を加持し越智夫人に与えたところ、夫人は玉のような男子を無事出産したことから、喜びの余り2首の歌を詠じて献納した。その1首が今も伝わる御詠歌である。これにちなみ、本尊は安産の観音として信仰を集めるようになった。

 たびたび中山川の氾濫に遭っており、1145年(天養2年)に堂宇を再建した際に山号を「天養山」と改めている。

 天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国攻めで荒廃した。寛永13年(1636年)宥伝上人によって当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなった。この際に本尊と同じく安産の仏として在家信者より奉納された布袋尊像が現在も本堂に合祀されており、四国(東予)七福神霊場の本尊となっている。その後の延宝7年(1679年)藩主の命により洪水を避けるために今度は神社が当寺の横に移転された。その後に残っている納経帳によると、納経は本尊名ではなく「伊豫國一宮大明神 別當寶壽寺」と書かれていた。

 明治初期の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって1877年(明治10年)に神社の南隣に移し再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した。

 霊場会退会と再加入
 2015年3月に四国八十八か所巡りの寺院(札所)でつくる「四国八十八ヶ所霊場会」(以下「霊場会」)は宝寿寺の住職に対して同会の運営要領を遵守することおよび未払いの会費の支払を求めて民事提訴した。訴状では宝寿寺側が参拝者への暴言などで遍路巡礼を妨害したと霊場会が主張する一方、宝寿寺側は妨害行為は無く、退会しているため運営要領を順守する必要は無いと主張していた。

 2017年3月22日に高松地方裁判所丸亀支部において霊場会の請求は棄却され、宝寿寺の霊場会からの退会が認める判決となった。同年3月30日に霊場会が控訴を断念して判決が確定した。

 納経時間は判決確定後しばらくは、納経時間が8時~12時・13時~17時、納経料+白黒御影料(1体200円)の負担となっていたが、2018年6月1日から、納経時間は8時~17時(昼休み無し)で、白黒御影は納経帳と納経軸へ納経した場合は従来通り無償での授与であった。

 ただし、カラー御影は霊場会のものではなく、従来の白黒御影を黄色で着色して印刷した宝寿寺オリジナルのカラー御影であり(1体200円)、納経料は、納経帳:600円、掛軸:800円、白衣:300円だが、納経をしない場合は拝観料(車遍路の場合は駐車料金)として、300円の徴収であった。

 なお、霊場会は宝寿寺が退会して空き番になった62番札所について、納経や朱印の拒否を防ぐことを目的として、61番札所の香園寺の駐車場に「六十二番礼拝所」として納経所を設置していた。

 2019年12月1日より宝寿寺の全ての運営を86番札所の志度寺(真言宗善通寺派)が当面の間の仮措置として引き継ぐ(住職籍も志度寺の住職が兼務する)ことになり、改めて霊場会に再加入した。それに伴って霊場会は同年12月15日をもって「六十二番礼拝所」を閉鎖した。これにより霊場会に再加入後の参拝時間や納経料は他の札所と同様になり、駐車料金は無料となった。

 境内
 本堂内陣正面:本尊・十一面観音立像(総高約二尺、玉眼)秘仏※平成30年(2018年)1月~令和元(2019年)年12月1日まで特別開帳された。本尊前仏・十一面観音立像、地蔵菩薩立像、内陣左:脇侍千手観音立像、布袋尊立像(四国(東予)七福神)他。内陣右:脇侍・不動明王立像(長い間正面に鎮座していた時期があったが、元の位置へと移された)。
 大師堂:大師坐像(木造彫眼彩色。像高36.0 cm。木造素地の厨子(宮殿)に安置されており、右手に金剛杵を逆手にとり、左手は数珠をとって膝上におく通例の像容である。足元の水瓶と沓は固定しないで台上に置かれており、厨子と大師像は江戸時代初期のものといわれている。)、修行大師立像。※大師堂の開帳は不定期であるが、平成30年(2018年)1月~令和元年(2019年)12月1日まで終日開帳された。連なって大師堂右隣は仏像収蔵庫となっている(非公開)。厄除けに霊験があるといわれており、年齢の数だけ「南無大師遍照金剛」と唱えると良いとされている。
 香炉:天井に風鈴を吊れるようになっており、願い事を書いた風鈴を奉納できる。1個1,000円。
 一宮稲荷社(祠): 明治10年(1877年)に大石龍遍上人によって寺が再興された際、京都の伏見稲荷・岡山の最上稲荷・愛知の豊川稲荷を護法神として勧請し、寺門の興隆・人々の護世安楽を祈願して建立された。「失せ物」・「合格祈願」にご利益有り。
 厄捨て場:投厄玉の穴に願いを一言云って厄石に投げて割れたら願いが叶う。一回200円。
 真念遍路道標(愛媛県歴史文化博物館に長期展示中)
 石碑:本堂の対面に昭和期に立てられた前佛奉納記念碑があり、前田伍健の川柳「佛縁の宝寿大寿の観世音」が同氏の筆により刻まれている。また、この石碑の傍に四国(東予)七福神霊場にちなんで布袋尊像が新たに置かれている。
 庫裏
 東側から境内に入ると右手に手水舎、稲荷社、大師堂が、その先に本堂が建っている。納経所は正面奥にあり、その背後は元本堂。

 宿坊:なし
 駐車場:あり(無料)

 文化財
 県指定有形文化財
 孔雀文磬(けい)1面 – 肩幅17.2 cm、裾張り18.8 cm、中央高7.8 cm、縁厚0.8 cm、鋳銅製、鎌倉時代初期、昭和40年(1965年)4月2日指定。

 宝寿寺  愛媛県西条市小松町新屋敷甲428

*Wikipedia より

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