水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

短編小説集(47) 越える

2014年01月20日 00時00分00秒 | #小説

 また! …と里香は思った。ヘアサロンへ行ったまではよかったが、どうしても先を越されるのだ。今度こそは! と意気込んで出かけた今日も、やはり先客が二名いて、優雅にカット中であった。この前も見たおばさん世代の顔ぶれだ。決してこの客達が憎いということではないが、こういつも先を越されると里香の鬱憤(うっぷん)も相当程度、溜(た)まり、心は澱(よど)んでいた。二人が、さっき食べた揚げパンに見えた。食らいついてやろうかしら…などと思え、余計に自分が惨(みじ)めになった。
「これはこれは! 里香ちゃんじゃないか。随分、大きくなったな!」
 里香が腹立たしく舗道を歩いていると、突然、後ろから抜き去った中年男が声をかけた。興奮気味の里香は多少、冷静さを欠いていた。
「あの! どちらさま? 心当たり、ないんですけど…」
 怒り気味の声で、里香はつっけんどんに言い放った。
「俺だよ俺!」
 オレオレ詐欺じゃあるまいし、俺だよ、俺はないでしょ! と、また怒れた里香だが、それは言わず、心に留めた。
「そうか、そりゃ分かんないよな。あの頃は2才…いや、3才だったかな」
 そう言われて、里香はその中年男の顔をジッ! と見つめた。そういや、どこかで見た憶えのある顔だったが、どこで出会ったのか、名前も何も浮かばなかった。
「耕一だよ。母さんの弟の…」
「あっ、耕一おじさん?」
 外国で暮らす叔父(おじ)がいる、は聞かされていた里香だったが、もの心ついてからは、一度の面識もなかった。その叔父に偶然、逢えたのだ。先ほどまでの怒りは消え、里香の心は俄かに和んだ。里香は怒りの峠を越えていた。
「これから、家へ行くところだったんだ。まあ、立ち話もなんだ。歩こう」
 そう耕一に言われて、里香は耕一に続いた。そのとき、さきほどヘアサロンにいた揚げパンが二つ、いや、おばさんが二人、里香と耕一を賑やかに話しながら抜き去った。里香は、また怒れてきた。
「どうした? 里香ちゃん」
「おじさん、あっち行きましょ!」
 道は左右に分かれていた。里香は右の近道を選んだ。
「んっ? ああ…」
 耕一は里香に従った。数分、歩くと、左右に分かれた道は一つになった。10mばかり後ろに揚げパンおばさんが二人、見えた。家はすぐそこだった。もう、追い越されることはない。腹立たしさも消えていた。里香は越えたのだ。
「おじさん、お腹、空(す)いてない?」
「ああ、そういや、まだ昼、食ってなかった」
 買い置いた揚げパンが二つ、冷蔵庫に残っていたことを里香は想い出して笑った。
「んっ? どうした?」
「いえ、別に…」
 揚げパンおばさんが二人、愛想笑いして里香の家の前を越えた。里香は大笑いしながら家へ入った。耕一は訝(いぶか)しげに里香を垣間(かいま)見た。その頃、里香の家の棚では、買い置かれた揚げパンが二つ、冷蔵庫で何やら話し合っていた。

                      THE END


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする