田上新次郎はボクシングの世界チャンピオンである。数年の下積みを経て希有な才能が花開いた数少ないボクサーの一人だった。その田上が世間の爆笑に翻弄(ほんろう)されていた。彼は先天的な生理上の問題を抱えていた。これは問題視されるような病的なものではなかった。彼は対戦中、あることで緊張したとき、必ず尿意を催すのだった。それは突然やって来た。対戦相手と打ち合っているときであろうと、ラウンドが終わりゴングでコーナーへ戻ったときであろうと関係なくやって来るのだった。
解説席では、アナウンサーとゲスト解説者のボルテージが、かなり上がっていた。アナウンサーが訊(たず)ねた。
「もう、そろそろ出ましょうか?!」
「ええ! 間違いないでしょう! ダダ漏れアッパー!!」
解説者は興奮気味に返した。リング上の両コーナーでは対戦者が分かれて座っている。
「よし!! その調子だ!」
ベンチサイドは田上を見ず、観客席をそれとなく見渡した。偶然を期待する密かな視線だ。ゴングが鳴り、マウスビースを口に入れられた田上はチェアーから勢いよく立ち上がった。そのとき、観客の一人が腕組みをした。田上の両眼は無意識にその男を見た。その瞬間、田上に異変が起きた。急激な尿意に襲われたのである。すでにファイトは始まっていた。尿意は小刻みの一定間隔で激しさを増した。田上は相手のジャブをガードし続けた。少しフットワークが変則気味になりだした。
「あっ! これは…」
アナウンサーも固唾(かたず)を飲んで話すのをやめた。
「出ますよぉ~~!!」
解説者の声が高まった。もう駄目だ! と思ったとき、田上はリング上で失禁していた。それと同時に相手はダウンし、気絶していた。失禁と同時に田上のカミソリアッパーが炸裂(さくれつ)したのだった。田上が得も言われぬ生理的な解放感に包まれ我に帰ったとき、レフェリーのカウントする声が聞こえた。
「2! … 3! … …」
レフェリーは挑戦者が気絶していることを確認すると、試合を停止した。ゴングが激しくなった。その瞬間、田上とレフェリーの目があった。レフェリーは笑顔で両手を広げジェスチャーし、手で床(フロア)を指さした。さも、汚いねぇ~、あんた…とでも言いたげなジェスチャーだった。
「出ましたねぇ~~!! ダダ漏れアッパー!!」
アナウンサーも興奮していた。
「期待どおりでした!! しかし、笑える試合は、彼だけでしょうねぇ~!」
解説者が言うとおり、場内は拍手と爆笑の渦になっていた。田上はグローブをはめたまま、後頭部を掻いて苦笑した。数人の係員がモップで床を拭きまわる。
「やりましたね!」
「ええ、また掃除させてしまいました!」
リング上の勝利者インタビューに、ふたたび観客の大爆笑と拍手が起こった。
「いやいや、メンテナンスされる方も生活がありますから…」
アナウンサーの嫌味に益々、爆笑のボルテージは高まった。
完