
※ 写真は那覇空港に駐機する日本航空機と子会社のトランスオーシャン航空(旧南西航空)機
【なぜか記憶が鮮明な…あの日】
昨日、8月12日は日本航空123便が御巣鷹山に墜落して乗客乗員4名を除く全員が死亡した、痛ましい事故から35年目の日…でした。
皆さんは、35年前のこの日、何処で何をしていて…どのようにしてこのニュースを知りましたか?
当時、私は二十歳の短大生で…←私にもそんな時代がもちろん、ありました😅
短大の仲間で小樽の海水浴場にほど近い仲間のお家で、昼は海水浴を楽しみ、疲れたカラダをお風呂で癒やして、みんなで今から晩ご飯をお呼ばれする…
そんな時でした。
茶の間に置いてあるテレビから悲報の第一報が届き…
誰ともなく「大変だ!」と叫んでいたのを思い出します。
その次に流れてきたのが、乗客の中にあの坂本九さんがいたコト…
結局、この事故は多くの人々の命を奪ってしまいましたが、奇跡的に助かった人たちの救出劇は、新聞やテレビ、当時の週刊誌で皆さん、記憶にあるかと思います。
生存者の中で当時、一番若かった川上慶子ちゃんを自衛隊のヘリから降りてきた搭乗員がしっかりと抱きかかえ、ヘリの中へと消えて行きました。
翌年、短大を卒業して自衛隊の面接試験を受ける際、志望の動機について、当然の如く、私はこの救出劇と旧ソ連による大韓航空機撃墜事件を挙げたものでした。
【関係者による話】
実は、私の周りにこの事故の関係者が居ます。
一人は、私が北海道千歳市の部隊で勤務していた時の後輩で、直接的な関係者ではありませんが、ナント、あの日の123便に登場予定だったとか…
それが何らかの理由で前の便に乗るコトになり、命拾い?したのだとか…
彼は乗っていた自衛隊のトラックが横転して一命を取り留めたり…
と、なかなか運が強く、イラク派遣が決まった時も、「アンタの悪運の強さ?なら大丈夫👍」と送り出したコトを覚えています。
もう一人の関係者は、実際に現場の捜索&救出に加わった知り合いの元自衛官(確か私より一つ年上ですから、もう現役を退いているかと思います)の話です。
彼の話によれば、警察・消防・自衛隊…で現地を捜索して、遺体を毛布にくるんで運ぶのは自衛隊の仕事だそうです。
その中で、ナント彼は生存者の一人、あの川上慶子ちゃんを発見したのです。
以下、彼から直接聞いたコトバです。
「大丈夫?って声をかけたら小さくうなずいていた…そうして何度も励ましながら、上から来たヘリの隊員に引き渡した…写真はヤツの全身がクローズアップされてるけど、実際に見つけて渡したのはオレなんだ。写真の下に写っている手はオレの手だ!」
そう力説していました。
【結局、真相はわからぬままに?】
その後の調査では、何点か不審な点が見られ、一時は相模湾で同時期に演習していた海上自衛隊のミサイルによる誤射説も浮上し、本になって出版されました。
しかしながら、私は思うのです。
同じミサイル部隊に(海上自衛隊のと種類は違うが)勤務していた者として、果たしてそんなコトがあるだろうか?と🤔
仮に海上自衛隊が相模湾で演習をしていたにせよ、民間機を誤射して撃墜した…とするには無理な点があります。
① そもそも、お盆の時期、人や物が動く時期に、しかも、航空機&船が頻繁に行き交う相模湾で実弾演習はあり得ない。
② ミサイルの能力&性能…コレは羽田から離陸後間もない、高度もそんなに高くはなく、相模湾を旋回するようにして上昇する段階でレーダが捉え、追尾して発射したモノが、日航機の本体に当たり、致命傷となって安定した飛行を継続できない、と判断したパイロットが、本来の関西方面へ向かうルートから御巣鷹山方面の山肌へ退避するルートを選択した可能性はある。
②は可能性としては否定できない。
しかし、その前に…①
実弾を使った訓練は、必ず民間を含めた船舶や付近を航行する航空機に通達が行くワケであり、そもそも、なんでお盆の相模湾…という時期的にも場所的にも密密な状況下で実弾を使った訓練をやるか?
あり得ない!
です。
【今一度、搭乗者名簿を調べる必要があるかもしれません】
だとしたら?
誰が、何の目的で?撃墜したのか?←単なる機体の異常で墜落した、とするには不自然な点が多く、何者かによって撃墜された?という説を仮にとった場合…の話をしています。
ココで、新たな説が浮上してきました。
当時、この便には国を挙げたある開発に関わるメンバーが、学会に参加する為に乗っていて…それが進行するのを防ぐ為に撃墜を命じた…とする説
では、誰が撃墜したのか?
ソレは皆さんのご想像にお任せします。
わが国で、日本国内において法的に武器を使用できるモノは限られています。
いずれにせよ、35年経った今も…
真相は闇に包まれたまま…です。
このまま闇に葬り去られるのではなく、何らかのカタチで明らかにされるコトが、亡くなられた方々に対する最大の供養ではなかろうか?
と個人的には思っています。
【なぜか記憶が鮮明な…あの日】
昨日、8月12日は日本航空123便が御巣鷹山に墜落して乗客乗員4名を除く全員が死亡した、痛ましい事故から35年目の日…でした。
皆さんは、35年前のこの日、何処で何をしていて…どのようにしてこのニュースを知りましたか?
当時、私は二十歳の短大生で…←私にもそんな時代がもちろん、ありました😅
短大の仲間で小樽の海水浴場にほど近い仲間のお家で、昼は海水浴を楽しみ、疲れたカラダをお風呂で癒やして、みんなで今から晩ご飯をお呼ばれする…
そんな時でした。
茶の間に置いてあるテレビから悲報の第一報が届き…
誰ともなく「大変だ!」と叫んでいたのを思い出します。
その次に流れてきたのが、乗客の中にあの坂本九さんがいたコト…
結局、この事故は多くの人々の命を奪ってしまいましたが、奇跡的に助かった人たちの救出劇は、新聞やテレビ、当時の週刊誌で皆さん、記憶にあるかと思います。
生存者の中で当時、一番若かった川上慶子ちゃんを自衛隊のヘリから降りてきた搭乗員がしっかりと抱きかかえ、ヘリの中へと消えて行きました。
翌年、短大を卒業して自衛隊の面接試験を受ける際、志望の動機について、当然の如く、私はこの救出劇と旧ソ連による大韓航空機撃墜事件を挙げたものでした。
【関係者による話】
実は、私の周りにこの事故の関係者が居ます。
一人は、私が北海道千歳市の部隊で勤務していた時の後輩で、直接的な関係者ではありませんが、ナント、あの日の123便に登場予定だったとか…
それが何らかの理由で前の便に乗るコトになり、命拾い?したのだとか…
彼は乗っていた自衛隊のトラックが横転して一命を取り留めたり…
と、なかなか運が強く、イラク派遣が決まった時も、「アンタの悪運の強さ?なら大丈夫👍」と送り出したコトを覚えています。
もう一人の関係者は、実際に現場の捜索&救出に加わった知り合いの元自衛官(確か私より一つ年上ですから、もう現役を退いているかと思います)の話です。
彼の話によれば、警察・消防・自衛隊…で現地を捜索して、遺体を毛布にくるんで運ぶのは自衛隊の仕事だそうです。
その中で、ナント彼は生存者の一人、あの川上慶子ちゃんを発見したのです。
以下、彼から直接聞いたコトバです。
「大丈夫?って声をかけたら小さくうなずいていた…そうして何度も励ましながら、上から来たヘリの隊員に引き渡した…写真はヤツの全身がクローズアップされてるけど、実際に見つけて渡したのはオレなんだ。写真の下に写っている手はオレの手だ!」
そう力説していました。
【結局、真相はわからぬままに?】
その後の調査では、何点か不審な点が見られ、一時は相模湾で同時期に演習していた海上自衛隊のミサイルによる誤射説も浮上し、本になって出版されました。
しかしながら、私は思うのです。
同じミサイル部隊に(海上自衛隊のと種類は違うが)勤務していた者として、果たしてそんなコトがあるだろうか?と🤔
仮に海上自衛隊が相模湾で演習をしていたにせよ、民間機を誤射して撃墜した…とするには無理な点があります。
① そもそも、お盆の時期、人や物が動く時期に、しかも、航空機&船が頻繁に行き交う相模湾で実弾演習はあり得ない。
② ミサイルの能力&性能…コレは羽田から離陸後間もない、高度もそんなに高くはなく、相模湾を旋回するようにして上昇する段階でレーダが捉え、追尾して発射したモノが、日航機の本体に当たり、致命傷となって安定した飛行を継続できない、と判断したパイロットが、本来の関西方面へ向かうルートから御巣鷹山方面の山肌へ退避するルートを選択した可能性はある。
②は可能性としては否定できない。
しかし、その前に…①
実弾を使った訓練は、必ず民間を含めた船舶や付近を航行する航空機に通達が行くワケであり、そもそも、なんでお盆の相模湾…という時期的にも場所的にも密密な状況下で実弾を使った訓練をやるか?
あり得ない!
です。
【今一度、搭乗者名簿を調べる必要があるかもしれません】
だとしたら?
誰が、何の目的で?撃墜したのか?←単なる機体の異常で墜落した、とするには不自然な点が多く、何者かによって撃墜された?という説を仮にとった場合…の話をしています。
ココで、新たな説が浮上してきました。
当時、この便には国を挙げたある開発に関わるメンバーが、学会に参加する為に乗っていて…それが進行するのを防ぐ為に撃墜を命じた…とする説
では、誰が撃墜したのか?
ソレは皆さんのご想像にお任せします。
わが国で、日本国内において法的に武器を使用できるモノは限られています。
いずれにせよ、35年経った今も…
真相は闇に包まれたまま…です。
このまま闇に葬り去られるのではなく、何らかのカタチで明らかにされるコトが、亡くなられた方々に対する最大の供養ではなかろうか?
と個人的には思っています。