誰でも世界一になれる。
1 人生は負け惜しみ
人生は負け惜しみ。金や権力では一番になれない。
どんなに金持ちになっても、アラブの富豪や、イーロン・マスクには叶わない。
どんなに権力者になっても、始皇帝やフビライ・ハーンには叶わない。
どんなにバッティングがうまくても、イチロー以上はヒットはたくさん打てまい。
だから、自分が輝けるフィールドを探す。そこに存在意義を見出す。そこで、自分が勝てるところで、我々は承認欲求を満たしている。
「そっちの分野では勝てないけど、オレにはこっちがある」って負け惜しみで、我々は生きている。消去法で、我々は強みを見出している。
2 フランクルの態度価値
アウシュヴィッツから生還した精神科医・ヴィクトール・フランクルは、人生には3つの価値があると説いた。
- 創造価値
- 体験価値
- 態度価値
何かを創造する。すばらしい。
素晴らしい体験をする。いいね。
でも、それ以外ではない。
ひっどい境遇で、それでも「彼らは何も分かっていないのです。赦してあげましょう」的な、イエス的な「態度」を取る。
その驚くべき「態度」自体に、価値がある。
アウシュヴィッツの、餓死寸前な状況で、他人のパンを盗む人非人もいれば、自分のパンを分け与える聖人君子もいた。
自分がひもじいのに、他人を助けんとする素晴らしい「態度」を示した人がいた。
それが、我々が、死ぬ寸前まで示すことができる、「態度価値」。
今この瞬間にも、そのみなさまの「態度」自体が、人生における一つの価値。
そうフランクルは言っている。
3 内村鑑三「勇ましく高尚なる生涯」
この負け惜しみとか態度価値って、内村があの有名な講演で「勇ましく高尚なる生涯」を問いたのと同じ文脈。
金持ちは金を遺せ。
事業家は事業を遺せ。
芸術家は芸術を遺せ。
それもできない普通の一般人は何を遺せるか?
勇ましく高尚なる生涯が遺せるじゃないか。
これが内村の論旨。
その逆境で、その辛い境遇で、そんな邪険な扱いをされて、それでもまだそんな聖人君子みたいな態度を取ることができるのか。驚きだ。
その素晴らしい「態度価値」は、ほとんど内村の「勇ましく高尚なる」生涯へ向かった、勇ましく高尚なる態度、だろう。
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ちょっと高踏的で上滑りしました。抽象にすぎました。
最近の私の考え。
お金はほしいけど、孫正義以上のお金持ちにはなれそうにない。
大きい家に住みたいけど、アラブとかアメリカの富豪より大邸宅に、ってのは、狭い東京に住む日本人には、天地がひっくり返っても無理。
世俗的な、資産とか金とか家とかクルマとか、そういう物質的なものでは、絶対に、世界一になれない。
でも、精神的な、「態度」では、世界一になれる。それをどう判断するか、明確な基準はないんだけど、まぁ「基準がない」ってのが精神的であるってこと。
精神的なことは定量的に判断できない。
だから、「オレ世界一」って思っておけばよい。自分世界一。
例えば。
妻になじられた。友に裏切られた。敵に出し抜かれた。後輩に馬鹿にされた。詐欺師に騙された。
そういうときこそ、どんな態度を示すか。
みな、態度価値が、問われている。
最悪の状況で、最悪の体調で、最悪のタイミングで、最悪の事態が起こったとしても、我々には、とても美しく、人々をして驚嘆せしめるような「態度」を取ることができる。
「うゎ、この状況でそうするかぁ」と大向うを唸らせる、態度。『塩狩峠』で長野信夫が自らの命を投げ出したように。
我々は、物質的には、絶対に世界一になれない。
でも、精神的には、常に、世界一になるチャンスが与えられている。
そんな「態度価値世界一の負け惜しみ」でいいんじゃないか。それが内村の「勇ましく高尚なる生涯」につながるはずだ。
物質的にはイーロン・マスクに世界一を譲ります。
でも、精神的には、心の美しさでは、イーロン・マスクには負けない。世界一を目指す。
それが「古今第一等」を目指せと言った佐藤一斎が考えていたことなのかもしれない。
内村の「勇ましく高尚なる生涯」を含む『後世への最大遺物』は、古いので、以下の佐藤優さんの超訳がオススメ。
以下のフランクルの「それでも人生にイエスと言う」自体に態度価値が載っているかは不明。
でもこのタイトル自体、フランクル独特の態度価値を示していますよね。好きなタイトル。
ちなみにこの「俺世界一」論は、ゴミ拾い仙人吉川充秀さんの「宇宙一」論に影響されてるかも。
吉川充秀宇宙一理論は追って紹介します。