新渡戸稲造は『武士道』で廉恥(れんち)心に触れた。
でも今、廉恥心については誰も触れず、羞恥(しゅうち)心ばかりが使われる。
廉恥心が内的で道徳的。羞恥心が外的で社会的。
そういう違いがあることからすると、日本人は内的・道徳的に退廃して、周りの目を気にするようになった(外的で社会的になった)ということか。
ってな問いをChatGPTと壁打ちしたら、以下の回答が得られた。
1. 廉恥心と羞恥心の違い
• 廉恥心 (Sense of Dignity):
新渡戸稲造が述べた廉恥心は、個人が自分の内面的な道徳的基準に従い、自己の誠実さや品格を守ろうとする感覚です。これは社会的評価に依存せず、自己の倫理観や内面的な誇りに基づいています。したがって、道徳的で内面的な心情が働きます。
• 羞恥心 (Shame):
羞恥心は外的な視点、つまり社会的評価や他人の目を意識することから来る感情です。自分の行動が他者にどう映るかを気にして、恥ずかしさを感じます。これは社会的、外面的な感情と言えます。
2. 現代における「羞恥心」の過度な強調
現在、日本社会では、社会的な評価や他人の目を過度に気にする傾向が強まっていることが指摘されています。
SNSの普及やメディアの影響により、個人の行動が他人にどう映るかが重要視され、自己表現や価値観よりも「他者からどう見られるか」に重きが置かれる場面が増えてきました。
この現象が意味すること:
• 道徳的な価値観の弱体化:
廉恥心が示すように、かつての日本社会では、自己の内面的な価値観(誠実さ、品格、道徳的な正義)を守ることが重要視されていました。
しかし、社会的評価や他人の目に重きを置く「羞恥心」の強調は、道徳的な価値よりも、外面的な評価を重視する傾向を強めているとも言えます。
これにより、個人が道徳的に自己を律するよりも、他者の目を意識した行動が増えることになり、道徳的な基準が外的に依存しやすくなっています。
• 自己表現の抑制:
現代の日本社会では、失敗や欠点を晒すことが恥ずかしいとされる風潮が強いため、個々の内面的な価値観や誠実な行動が軽視され、他者からの評価が優先される場合があります。
これが道徳的な退廃とみなされる原因の一つです。
3. 道徳的退廃か?
「道徳的に退廃して周りの目を気にするようになった」という見方について、確かに現代社会では外的な評価(他人の目)に影響を受けがちな傾向が強くなっているかもしれません。
これにより、内面的な道徳感覚よりも、社会的な期待や周囲の反応が行動の基準となる場面が多く見られます。
• 個人主義と社会的圧力:
現代日本においては、個人の自由や自己表現を重視する風潮もありますが、**社会的な圧力(例えば、周囲の期待や評価)**が依然として強いため、個人の道徳的な判断が薄れ、外的な基準が強調されることがあるのかもしれません。
• 改善の可能性:
ただし、この傾向が必ずしも「退廃」と直結するわけではなく、社会が進化する中で「外的評価を気にしつつも、内面的な価値観を保つ」方向へ変化することも可能です。
日本でも、道徳的な自立や自己肯定感の重要性が再認識されつつある部分もあります。
4. 結論
要するに、現代社会では社会的な評価や他人の目を気にする「羞恥心」の方が強調される傾向が見られますが、これは必ずしも道徳的な退廃を意味するわけではなく、外的な価値観と内面的な価値観がどのようにバランスを取るかが重要です。
新渡戸稲造が強調した**「廉恥心(内面的な道徳)」**と、現代の「羞恥心(外的評価)」をどう位置づけ、調和させるかが、今後の社会における課題と言えるでしょう。
~~~引用終わり~~~
上記の結論は優等生的な隔靴掻痒で私には不満ですが、私が受け取ったのは、
廉恥心=タテ羞恥心=ヨコ
だっていうこと。
縦と横(参考過去記事)
天を相手にするタテが廉恥心人を相手にするヨコが羞恥心
ってことですね。