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CNN /ペルー• ナスカ、巨大な猫の地上絵 発見 ; 10月20日09:37分、 2000年前に描かれた巨大な猫の地上絵、ナスカで新発見 ペルー

2020-10-20 21:28:15 | 歴史、考古学、地学; 宝石・鉱石・化石、恐竜・ミイラ…

 

 ◎◎    2000年前に描かれた巨大な猫の地上絵、ナスカで新発見 ペルー

 

ナスカで見つかった巨大な猫の地上絵

ナスカで見つかった巨大な猫の地上絵/Jhony Islas/AP

 

□□☞☞ 南米ペルーの文化省は、同国南部で2000年以上前に描かれた巨大な猫の地上絵が見つかったと発表した。

  丘陵の斜面に描かれた猫の地上絵は全長37メートル。乾燥した平原の大地に何百もの作品が刻まれた「ナスカ地上絵」の一部で、観光施設のメンテナンス作業中に発見された。

  ナスカでは猫のほかにもハチドリ、サル、ペリカンといった動物の地上絵が多数見つかっている。

◆◆  文化省の発表によると、猫の地上絵はかなりの急斜面に描かれていて、自然浸食のために消えかけており、ほとんど目に見えなかった。

猫の絵は丘陵の斜面で見つかった/Jhony Islas/AP
猫の絵は丘陵の斜面で見つかった/Jhony Islas/AP

 

◇◇  しかし清掃・保全作業を行った結果、幅30~40センチの線が浮かび上がった。作品が描かれた様式から、制作されたのは紀元前200年~100年ごろのパラカス後期と推定している。

□□⇨⇨  ナスカの地上絵は、地表を覆う岩石を取り除いて明るい色の岩盤を露出させる様式で描かれている。人のような姿を描いた少数の作品のほか、多数の動物や鳥類、植物、日用品、さらには螺旋(らせん)構造や三角形といった幾何学模様が見つかっている。

◇◇  ユネスコによると、地上絵は450平方キロの範囲に点在していて、描かれたのは紀元前500年~紀元500年ごろだった。1920年代にペルーの考古学者が発見し、1994年にユネスコの世界遺産に登録されている。


 信長・秀吉・秀忠 天下人3人の書状/朱印状(動画有) 9月14日05:22分、 信長・秀吉・秀忠 天下人3人の書状 「朱印状」と確認

2020-09-15 23:01:38 | 歴史、考古学、地学; 宝石・鉱石・化石、恐竜・ミイラ…

 

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◎◎   信長・秀吉・秀忠 天下人3人の書状 「朱印状」と確認

 

□□⇨⇨  織田信長、豊臣秀吉、それに徳川秀忠が、京都の警察業務を担当していた組織に対して権益を認めることなどを記した「朱印状」と呼ばれる書状が3点まとまった形で確認され、調査を行った専門家は「この組織と天下人との関係が総合的に分かり、非常に貴重だ」としています。

 
 
¤¤¤⇨  室町時代から江戸時代の京都では、4つの家からなる「四座雑色(しざぞうしき)」と呼ばれる組織が、ろう屋の管理や要人の警護などの警察業務を担当していました。

  このうち1つの家に伝わったとみられる、およそ80点の文書を東京都内の男性が古美術商から購入し、東京大学史料編纂所が調査しました。

◇◇  調査を行った村井祐樹准教授によりますと、このうちの3点は、織田信長、豊臣秀吉、それに徳川秀忠の3人の天下人が出した書状の原本と判断されました。

  それぞれ後世の写しが残されていますが、立場の上の人が目下の人に出す「朱印状」だったことが新たに分かったということです。

□□⇨⇨  このうち信長の書状は、それまで室町幕府から認められていた権益や税の免除を引き続き認めるという内容で、秀吉と秀忠のものは土地の所領を認める内容が記されています。

○○ 村井准教授は「四座雑色」の能力を各権力者が認めたうえで業務を指示していたことがうかがえるとして、「四座雑色と天下人との関係が総合的に分かり、天下人の朱印状がよい状態でまとまって見つかったことも非常に貴重だ」と話しています。
  

 世界遺産登録目指す/北海道•伊達市 北黄金貝塚、縄文遺跡群  9月13日21:42分、  世界遺産登録目指す「縄文遺跡群」 専門家が調査 北海道 伊達

2020-09-14 18:31:14 | 歴史、考古学、地学; 宝石・鉱石・化石、恐竜・ミイラ…

 

 

 

世界遺産登録目指す「縄文遺跡群」 専門家が調査 北海道 伊達

 

◎◎  世界遺産登録目指す「縄文遺跡群」 専門家が調査 北海道 伊達

 

◇◇  ユネスコの世界文化遺産への登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」の1つ、北海道伊達市の北黄金貝塚にユネスコの諮問機関、「イコモス」の専門家が訪れ、現地調査を行いました。

 
 
□□⇨⇨  「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、北海道と、青森、秋田、岩手の東北3県に点在する合わせて17の遺跡で構成され、世界文化遺産の国内候補地として来年の登録を目指しています。

¤¤¤⇨  この遺跡群の1つである伊達市の北黄金貝塚に、13日、世界遺産にふさわしいかどうかを評価するユネスコの諮問機関、イコモスからオーストラリア人の専門家が訪れました。
¤¤¤⇨  北黄金貝塚は、およそ6000年から5000年前の縄文時代前期の遺跡で、貝類をはじめオットセイやクジラの骨、さらには埋葬された人骨も見つかり、墓地としての性格を持っていたことも示しています。

⇨⇨  専門家は、自治体の担当者から説明を受け、メモを取ったり写真を撮ったりしながら、30分ほどかけて遺跡を見て回りました。

□□☞☞  調査は遺跡群すべてを対象に今月4日から始まり、15日までに終了する予定で、イコモスは調査結果を踏まえ、来年には世界遺産にふさわしいかどうかの勧告を行う見通しです。

岩手県 久慈市/8500万年前地層、新種のこけ発見 9月10日19:08分、 8500万年前の地層から新種の「こけ」見つかる 岩手 久慈

2020-09-11 13:04:52 | 歴史、考古学、地学; 宝石・鉱石・化石、恐竜・ミイラ…

  

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    8500万年前の地層から新種の「こけ」見つかる 岩手 久慈

     

    ◎◎  8500万年前の地層から新種の「こけ」見つかる 岩手 久慈

     

     

    ■□■⇨  岩手県久慈市のおよそ8500万年前の地層から、新種のこけが見つかりました。発見された場所にちなんで「クジフタマタゴケ」と名付けられ、この一帯の植物の生態系の解明につながると期待されています。

    ○○⇨  おととし7月、こはくを使った装飾品の製造・販売を行う会社の社員が、久慈市内の採掘場で採れたこはくの中に、植物のようなものが入っていることに気付きました。

    ⇨⇨  こけの研究機関、服部植物研究所が調査したところ、新種のこけであることが分かり、10日、久慈市の遠藤譲一市長などとともに発表しました。
    ◇◇  それによりますと、新種のこけはおよそ8500万年前の白亜紀後期の地層から見つかり、長さは11ミリ、幅は2ミリから4ミリで、円盤状の枝がついているのが特徴です。

    ¤¤¤⇨  発見された場所にちなんで「クジフタマタゴケ」と名付けられ、当時のこの一帯の植物の生態系の解明につながると期待されています。

    ⇨⇨  服部植物研究所の片桐知之所長は「久慈の地層の学術的な価値の高さを改めて感じた。こけを分析すると、当時は深い森だったことが推測され、今後も研究を進め生態系を明らかにしたい」と話していました。

    ○♡ 遠藤市長は「ロマンあふれる話題を発信できてうれしく思う。市としても研究の支援を続けたい」と話していました。

 
 

歴史/浅井長政 VS.織田信長 8月21日16:03分、 浅井長政 姉川の戦い後も信長にとって脅威か 書簡見つかる

2020-08-22 22:26:55 | 歴史、考古学、地学; 宝石・鉱石・化石、恐竜・ミイラ…


◎◎  浅井長政 姉川の戦い後も信長にとって脅威か 書簡見つかる


2020年8月21日 16時03分


◇◇  NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する戦国時代の大名、浅井長政が、姉川の戦いで織田信長に敗れたあと京都の寺に送った文書が見つかりました。寺への支配を示す内容で、専門家は、「長政が敗れたあとも京都に影響力を残し、信長にとって脅威になっていたことを示す貴重な資料だ」と指摘しています。

□□⇨  この文書は京都市左京区の寺、勝林院で見つかり、近江の戦国大名、浅井長政の研究を続けている滋賀県長浜市の太田浩司学芸専門監が調べた結果、花押や内容から長政がこの寺に送った「安堵状」と判断されました。

⇨⇨  安堵状は、幕府や領主が支配下にある寺院などに対し、領地を保証するために発行したもので、今回見つかった文書には「領地異議あるべからず候」と記されています。

⇨⇨  この文書が書かれたのは西暦1570年にあたる元亀元年の11月で、長政はこの5か月前に姉川の戦いで織田信長と徳川家康の軍勢に敗れています。

¤¤¤⇨  中世の歴史に詳しい関西学院大学の早島大祐教授は、今回の文書は長政が敗れたあと衰退の一途をたどったのではなく、近江にとどまらず一定の勢力を保っていたことを裏付ける内容だとしています。

⇨⇨  そのうえで早島教授は、「長政が京都に影響力を残し、上らくしていた信長にとって脅威になっていたことを示す貴重な資料だ」と指摘しています。

□□  信長の延暦寺焼き打ちの背景は軍事戦略の可能性も

  今回見つかった文書について、専門家は、織田信長による延暦寺焼き打ちの背景についても、新たな解釈を示す可能性を指摘しています。

◇◇  文書が見つかった京都市左京区の勝林院は、比叡山の北西のふもとにある天台宗の寺で、延暦寺とも深いつながりがあります。

¤¤¤⇨  関西学院大学の早島大祐教授によりますと、この一帯は、京都からびわ湖や北陸地方に抜ける交通の要所にあたり、今回の文書から、信長と敵対する長政がこの地域に支配力を持っていたことが裏付けられるということです。

⇨⇨  また、文書が送られた翌年の元亀2年=西暦1571年に、信長は延暦寺を焼き打ちします。
これについて早島教授は、「これまで信長の中世的権威の破壊や自身の残虐性を表すものとして説明されてきたが、実際は、軍事戦略上の冷徹な判断によって、手っとり早く延暦寺を焼き打ちして、軍事的に不利な状況の打開を図ったと考えるのが正しいのではないか」と話しています。