……ごぉぉぉぉぉぉん……
……ごぉぉぉぉぉぉん……
……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……
……沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす…… この先は忘れた!
読者諸賢、ご機嫌よう。ハウリンメガネである。
のっけから己の阿呆ぶりを曝け出してしまったが、冒頭の文はご存知、平家物語の有名な一節からの引用。
私はこの「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という言葉の響きが好きで、時折口から零すことがある。
鐘の音に諸行無常を感じる、という感覚は日本の鐘、和鐘の持つ響き、あの、ごぉぉぉぉぉぉん……という一音の響きが延々と続き、ゆっくりとフェードアウトしていくあの音でないと生まれないように思う(西洋の鐘は薄く(といっても勿論ある程度の厚みはあるのだが)作られた鐘を内側の舌(金具)が振り子運動で叩き続けることで音を鳴らすが、和鐘は分厚く鋳造された鐘を外側から撞木で撞くことで音を鳴らす)。
何故こんな話をしているのか。
先日、ディレイについて書いていた際にふと思ったのである。
ディレイとリバーブの違いはある種、西洋の鐘と和鐘の違いに例えられるのではないか、と。
先に述べた通り、西洋の鐘は内部の舌が繰り返し鐘を叩く事で音を繰り返す。
繰り返す=ディレイである。
これに対し和鐘は一音の響きが延々と引き延ばされ、ゆっくりと失せていく。
響きを引き延ばす=リバーブである。
こう捉えてみると私がディレイよりリバーブを好むのは、もしかすると日本人的な好みなのではないか。
思うに和鐘の残響音、リバーブの響きは『音の面影』なのである。
先程まで鳴っていた音が消えゆくまでの残響と間。
ここに日本的な侘び寂びがある。
祭りのあと、皆いなくなった境内の静けさに人々の賑わいを観るように。
岩と砂利で作られた枯山水の景観に流々たる川の流れと瀑布を観るように。
そこに在ったもの、その面影だけが残ることで、在ったものの存在が強烈に鮮明に想起される。
これが残響、リバーブが生み出す魅力なのではないか。
鐘の音は長く響けどやがて消え失せ、諸行は無常であり、往く河の流れは絶えずしてもとの水にあらず。
我々の奏でる音もまたその瞬間に発生した空気の振動に過ぎず、鳴った音はすぐさま消え失せども、その残響は音の面影として誰かの心の琴線を震わせる…… なんてなことをリバーブの量を調整しながら考えた、物思いにふける秋の夜でありましたとさ。
以上!御粗末様!また次回!
<ハウリンメガネ筆>
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