スペイン 新興左派ポデモスの議員たち。全員、ラフな服装
10月4日、自民党新総裁岸田文雄は、第100代首相に就任し、早速、衆院選を19日公示、31日投開票することに決めた。まだ世論調査は報道されてはいないが、自民党の支持率は大きく上昇していると思われる。いわゆるご祝儀相場で、「後手後手、無能な菅」よりは、何かいいことをしてくれるだろうと期待する国民の支持率が冷めないうちに、1日でも早く、選挙をやってしまえ、というわけである。
マスメディアは、新内閣の顔ぶれといった内容を細かく放送し始めている。野党は、1か月にもおよんだ自民党総裁選の加熱した報道、特にテレビにクレームをつけたが、どだいテレビ局は、カネと権力に弱く、それに視聴率が優先されるので、公平性など期待しても無理な話しなのである。報道の自由とは、他の自由同様に、強者の自由が、弱者の自由の数倍もある世界なので、公平性など当然に後回しにされるのだ。公平性は平等という概念に近いが、そもそも、自由は平等とたびたび衝突し、相反する価値なのである。(「自由と平等の、……一方の実現が他方を制限することなしには、究極の結果がえられない」ノルベルト・ボッビオ「右と左 政治的区別の理由と意味」)
政党の主張を国民が知るのは、メディアから
日本の公職選挙法は、諸外国では類を見ない制度で、戸別訪問を禁止している。欧米に限らず日本以外のどこの国でもこんな制度はない。日本以外では、政治家の主張を国民に伝えるのは、運動員が人びとと出会い、直接話しをして伝える。例えば、英国では、運動員が家々を回り、自分たちの主張を伝え、有権者の賛否両論を聴く。昨日、保守党が来たかと思えば、きょうは労働党、という具合である。このやり方なら、運動員の力が重要なだけで、与党も野党も公平である。しかし日本では、法で禁止されている上に、政治を話題にすること自体を嫌う風土があり、また、あそこの家は、野党寄りなどと思われれば、何かの機会に不利益を被るのではないかという危惧もあり、決して個別訪問は歓迎されない。結局、国民に主張を伝える手段は、演説、ビラ配り、選挙カーといった、支持者以外には、うるさい、煩わしい、迷惑と思えることだけである。
結局のところ、政党の主張を国民が知るのは、メディアからということになる。
テレビを制する者が勝つ
今日のメディアは、テレビ、新聞、雑誌、ネットとあるが、国民の政治的意向に最も大きな影響を与えるのは、テレビである。新聞、雑誌は、そのどれを選んで読むかは、読者の政治的意向に左右され、それはある程度固定化している。右派の産経新聞やHanada、Will,週刊新潮などを読む層が立憲や共産党支持者などとは考えられない。どこの国でも同じで、共和党支持者がニューヨーク・タイムズを読むとは考えれられない。
しかし、テレビ視聴者は、政治的意向、意識とは無関係である。テレビは表向き、新聞や雑誌と比べ、政治的には公平な建て前をとっているので、多くの視聴者は、そのように視る。また、政治的意向は固定化していないが、ある程度政治に興味を持ち、選挙には行く層には、最大の情報源である。また、ネットニュースで流されるのは、動画として流されるテレビからのものが最も見やすく、印象が強くなってしまう。
2009年民主党勝利はテレビが最大の貢献者
2009年に民主党が政権を奪取したが、それは2006年に首相に就任した安倍晋三が体調不良で1年で辞職、その後の福田康夫は自信喪失で、またも1年で辞職し、最期は麻生太郎が数多くの失言・誤読で辞職と、さんざん「みっともない」ことこの上ない失態を演じたからである。その状況を写実に映し出したのがテレビである。当時のテレビのワイドショーは、連日、麻生太郎が「未曾有」を「みぞうゆう」と誤読したことを繰り返し放送していた。そのことが、3人の首相の無能さの象徴として、首相としての能力不足をさらけ出し、自民党の支持率にとどめを刺したのである。
近年の選挙、例えば2020年の都知事選も、2021年の都議会議員選も、メディア、特にテレビでの露出度が高い者が当選する傾向が顕著である。それは、多くの有権者は、政党や候補者の政策などを知らないし、イメージだけで投票するからである。選挙演説を聴くのは、その固定的支持者がほとんどであるし、政党のパンフレットなどは同様に読まれない。政権放送も選挙公報も、ほとんどの有権者は「くそ面白くもない」と見向きもしないのが現実である。実際は、有権者の多くは、テレビを視てイメージを抱き、それによって投票するのである。
テレビ露出度が高ければ、視聴者によって賛否両論があり、プラスマイナスがある。しかし、テレビ主演者の「好きなタレント」の上位者は、「嫌いなタレント」上位者でもあるように、テレビに露出しているからこそ、そこに入るのであり、露出していない者は、意識されない存在であり、「好きなタレント」上位には絶対に入れない。それと同じことが、政治家にも起こるのである。テレビに露出していれば、嫌う者も出るが、支持者も増えるのだ。野党が自民党総裁選の加熱報道にクレームをつけたのは、暗黙にそのことを理解しているからである。
与党政治家と野党政治家のテレビ露出度は、恐らく10対1ぐらいだろう。勿論それは、与党が行政の役職についているからであり、日々行われる行政の動向を報道すれば、そのようになるのは当然のことである。いくらか公平性を保つために、僅かに野党の動向も報道する、というのが実情である。自公政権がコロナ対策に失敗し、内閣支持率が下がっても、野党の支持率が上がらないのは、そのためである。たまにしか顔を見ない人たちの政党が、どんなものなのかを知らないのは当然で、支持率など上がるはずはないのである。メディアに登場する評論家は、野党が「だらしない」からだ、というが、「だらしなく」ても、「だらしなくない」としても、知らない人たちの政党を支持することなどあり得ないのだ。
野党の指導者がテレビに露出する場合の多くは、政府を批判するスピーチだけである。それを熱心に、あるいは肯定的に視聴するのは、野党の固定的支持者だけだろう。それ以外の視聴者には、落語に出てくる「小言幸兵衛」のようなもので、人のミスだけにうるさい人間が、いつものように相変わらず、何か文句を言っている、としか映らないだろう。テレビ局としては、それで視聴率がとれるとは思わない。「面白くない」ものは、テレビには向かないのである。
政治家は見た目のイメージが大事
上の写真は、日本共産党衆議院議員穀田恵二の赤旗開きの着物姿である。穀田は当選9回で、共産党議員としては、異例の人気を誇っている。穀田は、写真のように正月には着物を着る。議員在職25年には、西陣織の肖像画が、京都の「西陣織会館」で披露された。そういう姿は絵になる。人気はそのせいだけではないだろうが、着物を着るだけでメディアに露出することができることを示している。
スペインのポデモス、ギリシャのシリザという新興左派連合は、短期間に支持を伸ばし、政権入りを果たした。この二つに共通するのは、既成勢力との違いを見せつけるために、他の議員たちが、男性は必ずスーツにネクタイといった服装なのに対し、ノーネクタイ、ジーンズ、セーター、Tシャツなどラフな服装で臨んだことだ。それだけでなく、ドイツのメルケルは、徹底して地味な普段着で通している。そこから、メルケルの人間性を表そうとしているのは明らかだ。どこの国の環境保護政党「緑」は、議会でも普段着着用者が多い。これらは、明らかに「見た目のイメージ」を意識していると言っていい。
野党は、自公と違うことを見せつけるために、まずは、服装を変えろ
テレビは面白くないものは取り上げない。絵にならないものは、取り上げない。とにかく、話題作りのためにでも、服装を変えるべきだ。ジーンズ、Tシャツ、ポロシャツ、セーター、作業服、紋付き袴、何でもいい。そうすれば、必ず、テレビは放映する。大きな批判は起こるだろう。しかし、批判が大きければ大きいほど、メディアは取り上げ、そこから必ず、新たな支持者は現れるのだ。
国会の服装規定は、上着着用だけだ。穀田は、国会にも着物姿で通すべきだ。まさか、着物に品位がないとは言えないだろう。