るるの日記

なんでも書きます

シベリア出兵の悲劇〈尼港を占領していた日本軍、居留民、反革命派ロシア人たちを虐殺した政党員〉

2022-02-05 14:40:07 | 日記
1917年、ロシア革命が起こり、社会主義政権が成立。ソヴィエト政府がドイツ側と単独講和を結び連合国側から脱落すると、連合国側は革命のの影響と、ドイツ勢力がロシア領内の東方に及ぶことに大きな脅威を抱いた

1918年、イギリス、フランス、アメリカなどは、シベリアに追いつめられた連合国側のチェコスロヴァキア軍を救出するという理由で、シベリアに軍隊を派遣。革命に干渉した

日本もこれに協力して、大陸に勢力をはろうと企て、連合国側の要請に応じて、8月にシベリア出兵を宣言
東シベリア、北満州、沿海州などに軍隊を出動させた

出兵は十分な成果をあげることなく、列国は1920年にはいずれも撤兵したが、日本はなお兵士をシベリアに駐屯させたので国内外から日本政府に非難が加えられ、1922年にいたって日本はようやく撤兵した
1920年2月、尼港を占領していた日本軍は、約4000人のパルチザン(熱心な政党員)に包囲され降伏した。パルチザンの一団は兵器・弾薬の全面引き渡しを要求
3月、日本軍は逆襲を試みたが敗退
領事館に集まった守備隊、居留民は全滅。約120名の日本人外交官や居留民は捕らえられ、獄舎に送られた

援軍の日本軍は解氷期を待って6月3日に尼港に達したが、時すでに遅し
パルチザンは5月24日夜半、捕虜をすべて虐殺し、市街に火を放って逃げた後であった

このとき命を失った反革命派のロシア人住民は約8000人
日本人兵士・居留民は135人
日本はその賠償を要求して、一時北樺太を占領した

このような悲劇のシベリア出兵は
約10億円の戦費をつぎ込み
約3000人以上の死者を出して
得るところなく終わったのである




一党独裁政治つながり〈ドイツと平和条約締結したソヴィエト〉

2022-02-05 14:01:59 | 日記
■中国革命
「満州民族清国を倒せ!漢民族による国家建設!」の声があがり、革命運動が活発化。指導者は【孫文】
孫文は日露戦争における日本の勝利が明らかになった1905年8月、東京で【中国同盟会】を結成した

1911年、武漢にて、軍隊の暴動がきっかけに、中国各地で反乱が勃発
1912年、南京で中華民国建国宣言
孫文が臨時大総統になり、清国は滅亡した

後、軍閥の圧力で孫文を退けた
【袁世凱(北京で初代大総統となる)】は、革命派の国民党(中国同盟会後身)を弾圧
1913年、孫文は日本に亡命した

その後も中国国内では混乱が続き、外からは列強国の圧力を受け
前途多難、、

■ロシア革命
皇帝の圧政に反抗する気運が高まり
革命が起きた。第一次世界大戦勃発以来激しいインフレが起こり、労働者・農民の生活は圧迫され社会不安が高まった

1917年、首都ペトログラードで労働者のゼネスト(組織ではなく全国レベルのスト)が起こり、鎮圧側の軍隊もかえってこれに同調する
これが革命に発展し、帝政は倒れ、自由主義を中心とする臨時政府が成立した

11月、レーニンを指導者とする
社会民主労働党の【ボリシェヴィキ派(共産党)】が武装蜂起し、臨時政府を倒して、
【革命党左派】とともにソヴィエト(会議)を基礎とする
【世界最初の社会主義政権】を樹立

★ドイツ・オーストリアと単独に平和条約締結し、連合国陣営から脱落
★ボリシェヴィキ派は一党独裁政治を確立していった
〈労働者・兵士・農民によるプロレタリア(賃金労働者)独裁体制〉



第一次世界大戦「三国干渉の復讐戦として」また「東アジア権益強化」のため、日本はドイツに宣戦布告

2022-02-05 13:17:30 | 日記
■ドイツ帝国
19世紀末以来、ヨーロッパでは
国家統一を実現したドイツ帝国が急速な発展をとげ、イギリスに対抗して中近東に進出をはかり、大規模な海軍拡張を推し進めてイギリスを脅かした。ドイツはイタリア・オーストリア=ハンガリーと結んだ三国同盟の強化をはかり、とくにオーストリアとの軍事的協力を深めた

■イギリスがドイツ包囲体制つくる

〈イギリス同盟国〉
★日英同盟
★英仏協商、英露協商、露仏同盟と併せて三国協商が成立
ドイツへの包囲体制ができあがった

■ドイツVSフランス
1905年、1911年
モロッコをめぐって対立

■同盟VS協商
(ドイツ・イタリア・オーストリア)VS
(イギリス・フランス・ロシア)

★バルカンをめぐって対立

■ロシアVSドイツ・オーストリア
バルカンの諸スラヴ系民族の結集をはかりつつ進出をはかり、この地域で「パンゲルマン主義」をかかげて勢力拡張をはかろうとするドイツやオーストリアとの対立激化
国際的緊張が高まっていった

■第一次世界大戦
1914年6月
ボスニアの首都サラエボを訪問中の【オーストリア皇太子夫妻】が、
反オーストリア秘密結社に属する
【セルビア人青年】によって暗殺された。この事件は一瞬のうちに国際危機を爆発させ、全ヨーロッパをたちまち戦争の嵐に巻き込んだ

7月、オーストリアがセルビアに宣戦布告

8月、ドイツがオーストリア側に立つ

ロシア、イギリス、フランスがセルビアに味方し参戦

第一次世界大戦が始まった

■日本参戦
イギリスは東シナ海におけるドイツ武装商船の撃破のため、日本に参戦を求めた

日本政府(大隈重信内閣)は、外務大臣・加藤高明が中心となり
「東アジアでの日本の権益を強化する機会である」と、
また「三国干渉の復讐戦」であると断じて、1914年8月【対ドイツ宣戦布告】し、連合国陣営に加わった
(イギリスは日本の軍事行動を海上作戦限定するよう要請していたが日本は応じず)

3ヶ月ほどで日本陸軍はドイツ軍の重要根拠地「青島」を、海軍はドイツ領の南洋諸島を占領。ドイツ勢力を東アジア、オセアニアから一掃した



【軍備拡張案実現】北風と太陽の太陽のような大隈重信パワー「庶民的」「国民大人気」→与党が衆議院過半数占め大勝利

2022-02-05 12:21:59 | 日記
♦️日本は【帝国国防方針】により、軍備拡張長期目標を設定

★陸軍は17個師団を25師団に増やす
★海軍は戦艦・装甲巡洋艦、各8隻
の建造を中心とする、八八艦隊を実現する

■西園寺内閣

しかし財政事情が苦しく、計画は予定通りに実行できず

明治44年、中国で辛亥革命が起きると、これに刺激された陸軍は、朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を西園寺内閣に強く要求した
大正1年、西園寺内閣は財政難を理由に受け入れなかった

これに抗議した陸軍大臣・上原勇作は、単独で天皇に辞表を提出し、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた

■陸軍・藩閥を後ろ楯とする桂内閣

12月、桂太郎が陸軍・藩閥政治家・官僚勢力を後ろ楯に、内閣を組織
桂は天皇の権威に頼り、詔勅を出して反対派を押さえようと計画したが、その少し前に明治天皇が亡くなり、大正天皇が新しい天皇になったばかりのときで、国民には新しい政治の期待も広まり【陸軍や藩閥などの横暴を非難する声】がにわかに高まった

尾崎行雄、犬養毅、新聞記者、商工業者が中心となり、【藩閥族打破・憲政擁護】のスローガンを掲げ
桂内閣打倒をめざす【憲政擁護運動】が展開

桂は立憲同志会を結成。反対派の切り崩しをはかったが、立憲同志会は衆議院の多数には至らず、立憲政友会・立憲国民党の大多数は激しく桂内閣を攻撃

2月、桂内閣退陣
このとき護憲派を指示する多数の群衆が国会議事堂を取り囲み、警察官と衝突し、警察署、新聞社を焼き討ちにする大きな騒動となった
このような民衆の動きが、政局の成り行きに大きな影響を及ぼすようになった(明治末~大正)

■海軍を勢力に持つ山本権兵衛内閣
ジーメンス事件(海軍高官汚職事件)が起こり大正3年退陣

♦️大隈重信内閣
庶民的で国民の人気を集めた
総選挙で与党が衆議院の過半数を制するという勝利を収めた
大正4年、懸案の2個師団増設・海軍拡張案を実現する



【忠君愛国】反政府運動のせいで自由主義教育から国民統制強化教育へ【教育勅語】

2022-02-05 10:43:57 | 日記
国民教育は初め自由主義だったが、反政府運動が高まり、国家統制強化教育の方向へ

■小学校
儒教道徳に基づく修身教育
政府による教科書検定制度を取り入れ、自由主義的な教科書は使えなくなった

尋常小学校4年→6年に延長
義務教育制度
授業料廃止
就学率98%以上

■教育勅語
儒教的家族主義の道徳と、愛国の理念を基礎に「忠君愛国」「忠孝一致」を教育の基本とする

天皇は政治的主権者であるばかりでなく、国民の道徳的・思想的中心とされた

教育勅語は学校で奉読することで大きな効果を発揮し、広く国民に国体観念を植えつけ、天皇を中心とした国家体制を内面から支えた

■高等教育
★帝国大学
※東京帝国大学
東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学が設立。帝国大学公布令とともに東京帝国大学に改称

京都帝国大学
東北帝国大学
九州帝国大学
北海道帝国大学
京城帝国大学
台北帝国大学
大阪帝国大学
名古屋帝国大学

★民間大学
慶應義塾(福沢諭吉)
同志社(新島襄)
東京専門学校→早稲田大学(大隈重信)
東京法学校→法政大学
明治法律学校→明治大学
英吉利法律学校→中央大学
関西法律学校→関西大学

★良妻賢母教育
日本女子大学(成瀬仁蔵)
女子英学塾→津田塾大学(津田梅子)