1917年、ロシア革命が起こり、社会主義政権が成立。ソヴィエト政府がドイツ側と単独講和を結び連合国側から脱落すると、連合国側は革命のの影響と、ドイツ勢力がロシア領内の東方に及ぶことに大きな脅威を抱いた
1918年、イギリス、フランス、アメリカなどは、シベリアに追いつめられた連合国側のチェコスロヴァキア軍を救出するという理由で、シベリアに軍隊を派遣。革命に干渉した
日本もこれに協力して、大陸に勢力をはろうと企て、連合国側の要請に応じて、8月にシベリア出兵を宣言
東シベリア、北満州、沿海州などに軍隊を出動させた
出兵は十分な成果をあげることなく、列国は1920年にはいずれも撤兵したが、日本はなお兵士をシベリアに駐屯させたので国内外から日本政府に非難が加えられ、1922年にいたって日本はようやく撤兵した
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1920年2月、尼港を占領していた日本軍は、約4000人のパルチザン(熱心な政党員)に包囲され降伏した。パルチザンの一団は兵器・弾薬の全面引き渡しを要求
3月、日本軍は逆襲を試みたが敗退
領事館に集まった守備隊、居留民は全滅。約120名の日本人外交官や居留民は捕らえられ、獄舎に送られた
援軍の日本軍は解氷期を待って6月3日に尼港に達したが、時すでに遅し
パルチザンは5月24日夜半、捕虜をすべて虐殺し、市街に火を放って逃げた後であった
このとき命を失った反革命派のロシア人住民は約8000人
日本人兵士・居留民は135人
日本はその賠償を要求して、一時北樺太を占領した
このような悲劇のシベリア出兵は
約10億円の戦費をつぎ込み
約3000人以上の死者を出して
得るところなく終わったのである