るるの日記

なんでも書きます

日本を否定する日本人は信頼できない【明治時代・第二次世界大戦後】

2022-02-05 09:58:57 | 日記
■日本人の日本歴史・伝統文化の否定

第二次世界大戦後の日本では、知識人の間に「戦前の日本に対する全面的な否定評価が流行」した

明治時代にも、西洋文化摂取や近代的変革の進行に伴って、日本の知識人の間で「日本の歴史や伝統文化を軽視する」傾向が広まった

自国の歴史や文化を軽視するようなことでは、かえって外国人たちの信頼は得られない

■ベルツの観察
「なんと不思議なことに、日本人は、自分自身の過去について、もう何も知りたくないのです。それどころか教養ある人々は過去について恥じてさえいます
『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした。』『我々には歴史はありません。我々の歴史は今からやっと始まるのです』と私に言明しました
このような現象は急激な変革の反動からくることはわかりますが、しかし人の気持ちを不快にする現象です
それにその国土の人たちが、固有の文化をこのように軽視するば、かえって外国人たちの信頼は得られないでしょう」

天皇直訴で足尾銅山鉱毒は防止されたが、鉱毒沈殿遊水池建設地の谷中村は廃村

2022-02-05 09:22:49 | 日記
栃木県足尾町(日光市)にある銅山は、江戸幕府直営の銅山だったが、
明治に民間に払い下げられ
古河市兵衛が経営者となった

古河市兵衛は最新洋式機械で採掘にあたったので、銅の産出額は増大した
だが、銅の製錬過程で出る鉱毒が多量に渡良瀬川に流れこみ、大量の魚が死滅。1890年の洪水では渡良瀬川流域の村々の作物が枯れ、田畑を荒廃させた

1891年、栃木県選出の衆議院議員・田中正造(立憲改進党)が、その対策を政府に迫り、その後も被害民とともに鉱毒除去、鉱山操業停止、被害民の救済を政府に求めた
民間でも知識人らが鉱毒問題解決を求めるキャンペーンが展開され社会問題に発展

政府は経営者に対し鉱毒除去を命じたが、鉱毒防止措置は効果がなく、被害はやまなかった

1900年、陳情のため集団で上京しようとした被害民と、警官隊が衝突し多数の検挙者を出した

議会での請願や質問では効果がないと判断した田中正造は、1901年衆議院議員を辞職し、明治天皇に直訴した
後、政府は鉱毒防止対策として渡良瀬川の洪水調整と、鉱毒沈殿のための遊水池を建設するとし、建設予定地にあたる谷中村村民の反対を押しきってこれを実行。谷中村は廃村になった

劣悪な労働条件改善のための労働組合運動→社会主義思想→天皇暗殺計画→12名死刑→政府は労働者保護法制定

2022-02-05 08:55:36 | 日記
日清戦争後、劣悪な労働条件を改善するために労働者は団結するようになった

■労働組合運動から社会主義思想へ

高野房太郎、片山潜により【労働組合期成会】が結成。その指導のもと各地に労働組合がつくられ、待遇改善や賃金引き上げを要求する労働争議が起こり、労働組合運動が展開された
労働運動の理論として社会主義思想が芽生えるようになった
1898年、社会主義研究会が生まれ
これを母体に、日本初の社会主義政党である社会民主党が結成された
しかし、政府はこれを禁止した

■社会民主党
〈中心メンバー〉
幸徳秋水
片山潜
安部磯雄
西川光二郎
木下尚江
河上清

〈理想〉
軍備全廃
階級廃止
土地・資本の公有化

■日本社会党結成

日露戦争を通じて社会矛盾が深まると、労働争議は激しくなった
片山潜・堺利彦・西川光二郎らは
日本社会党を結成。社会主義実現に燃えた
★東京市電の値上げ反対運動では、日本社会党は大衆行動にでて警官隊と衝突
★日本社会党内部では、幸徳秋水ら急進派が直接行動を主張して、穏健派と対立。日本社会党は政府から解散を命じられた
★翌年、仲間の出獄を歓迎した社会主義者たちが、革命歌を歌い、赤旗を揚げて行進し、警官隊と衝突し多数の検挙者を出す
★第二次桂内閣が成立すると、社会主義運動に対する取締りは厳しくなった。1910年、明治天皇暗殺を計画したという理由で、多くの社会主義者が逮捕され、翌年処刑された
(大逆事件)

■大逆事件(明治天皇暗殺計画)

第二次世界大戦後、その真相が明らかになった
宮下太吉、菅野スガら数人の活動家が、「天皇はすべての社会悪の根源」とし、暗殺を計画。爆弾製造にあたっていたことが発覚し逮捕された
政府はこれを機に大量の社会主義者を検挙
26名→非公開の裁判
12名→幸徳秋水ら死刑
14名→懲役刑
実際には幸徳秋水は天皇暗殺計画には消極的だったらしく、処刑された人々の中には無実だった者もあったとみられる

政府は、社会主義運動を弾圧するため、警視庁内に特別高課を設置
国民の大多数は社会主義を危険視するようになり、社会主義活動は衰えた
同時に工場法(労働者保護法)を制定するなど、労働条件の改善をはかり、労働者と資本家との協調をはかろうとした
(工場法は、今まで資本家側の強い反対で実現されなかった)

国民から嫌われて
処刑されて
、、、やっと労働者は保護された
立派にやり遂げましたよ





明治時代のブラック企業

2022-02-05 07:58:05 | 日記
明治中期以降、工場制工業が次々と勃発するに伴い、賃金労働者の数も急増した。産業革命の中心となった繊維産業の労働者は大部分が女性であり、重工業や鉱山では男性労働者が多かった。これらの労働者は欧米諸国に比べると、はるかに低賃金で長時間の過酷な労働に従事し、悪い衛星環境・生活環境におかれるなど、労働条件は劣悪だった

■東京砲兵工廠や石川島造船所(大企業)
★1日10~11時間労働
★日給・30~35銭(現在の3000円)
(実際は13~16時間労働で日給50~60銭を得ることが多かった)
★休日・月2回

■紡績工場(大企業)の女性労働者
★昼夜交代制の12時間労働(実働11時間)
★賃金・日給7~25銭
★休日・隔週1回
★寄宿舎に住む(肺結核など健康を損なうことも多かった)

■製糸工場・織物工場(中小企業)
労働条件はいっそう悪く、16~17時間労働

忙しい時期は朝床を出て直ちに業に服し、夜業12時に及ぶ
業務がひまな時期は奉公に出て、その賃金は雇用主が取る
1年の賃金は20円を出ない

食物は麦6分、米4分
寝室は豚小屋

■大卒官吏
初任給・月額40~50円

■女工小唄
「かごの鳥より、監獄よりも
寄宿住まいはなお辛い
工場は地獄で
主任が鬼で
廻る運転火の車
糸は切れ役
わしはつなぎ役
そばの部長さんにらみ役」