■清盛2つの乱に勝ち急速出世
内3名が諸衛の佐(しょえのすけ)という役職になる
忠盛は刑部公卿(きょうぶきゅう)になって58歳で死んだ。清盛は嫡男であるから、その跡を継いだ
その後
★保元元年七月
鳥羽法皇崩御のあと、藤原頼長(37)が崇徳上皇に勧めて「保元の乱」を起こしたとき、清盛は天皇の味方をして賊徒をたいらげ勲功があったので、播磨守に出世
★保元3年
大宰府次官
★平治元年12月9日
藤原信頼、源義朝らが謀反の兵を挙げたとき、天皇の味方をして賊徒をたいらげ、「勲功は1つにあらず、恩賞これ重くあたえるべき」とした
★平治2年
上三位(二階級上がる)
↓
宰相(参議)
↓
衛府督(えふのすけ・皇居警備)
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検非違使別当(検察庁長官)
↓
中納言
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大納言
↓
内大臣
↓
太政大臣・従一位
■太政大臣は神聖な職
「太政大臣は天皇に対する師範として、天下には模範を示す者であり、国を治め人の道を論じ、陰陽(万物を造りだす2つの気)を和合させて治めるものである。適任者が無いのなら空席にせよ
太政大臣はその資格ある人でなくては、その職を穢す、、、」
そのような太政大臣という職であるが、清盛が天下を掌中におさめた以上、清盛が太政大臣に任じられたことに文句は誰も言えなかった
■平家繁栄は熊野権現の御利益
昔、清盛が安芸守であった時、伊勢の海から船で熊野へ参詣されたが、大きな鱸(すずき)が船の中に躍りこんできたのを、先導の修験者が申すには「これは熊野権現の御利益。急いで食べなさい」と言う。清盛も「昔、周の武王の船に、白魚が躍りこんだそうな。これは吉事である」と言って、あれほど戒律を守り、精進潔斎を続けてきた道中であったが、魚を料理して皆で食べた
以後、吉事ばかり続いて太政大臣という極位にまで上った。こうして先祖9代の先例を越えたのは、まことに目出度いことであった