るるの日記

なんでも書きます

平家物語・一行阿闍梨之沙汰「九曜曼陀羅」

2022-02-25 09:06:20 | 日記
比叡山衆徒は大講堂の庭に御輿を据えて評議した

祐慶が論ずる
【比叡山は霊地、鎮護国家の道場、山王の御威光が盛んで、仏法・王法は並行して優劣がない。だから衆徒の意見に至るまで立派で世間で軽蔑しない。徳行が重く比叡山の受戒の師である座主が罪がないのに罪をこうむる。これは比叡山の憤慨するところであり、興福寺・園城寺の嘲りを受けるところである
今、座主を失って多くの学僧が勉学を怠るというのは悲しいことだ
要するに、わたし祐慶が首謀者として流罪にされ、頭をはねられることにするが、それはこの世の面目であり、冥土のみやげであろう】

大衆は前座主を妙光房に入れた
一時の不慮の災難は、神仏の生まれ変りという人も逃れられないのか。昔、唐の一行阿闍梨は皇帝の護持僧だったが、皇帝の后・楊貴妃と浮き名が立った。昔も今も、どのような国も、人の口のはうるさいことだが、その疑いのために果羅国へ流された
その果羅国へ行くには3つの道がある。
輪池道といって行幸の道
幽池道といって雑人の道
暗穴道といって重罪の道
一行阿闍梨は大罪を犯した人だから、暗穴道へ行かせた。七日七夜月日の光を見ないで行く道だ。真っ暗でさ迷い歩く。露に濡れた衣も乾かない。濡れ衣を着て無実の罪によって流罪をこうむることを天が哀れんで、九曜の星の形を現して、一行阿闍梨を守られた。その時一行は右指を食い切って、その血で左たもとに九曜の形を写された。日本・中国で真言宗の本尊である九曜の曼陀羅がこれである


平家物語・一行阿闍梨之沙汰「御輿に乗ろうとしない前座主に『そうゆう心だから流罪にもなるのです。さっさと乗るべきです』祐慶は諌める」

2022-02-25 08:21:24 | 日記
配流されようとしている前座主を、奪い取りに来た比叡山衆徒は、御輿を寄せて前座主に言う
「さっさとお乗り下さい」
前座主
「昔は座主であったが、今はこんな流人の身。どうして衆徒たちに担ぎ上げられて山に登ることができよう。たとえ登るべきでも皆と同じように歩いて登ります」
と言って乗らない

その時、阿闍梨祐慶という荒法師が、前座主の所へ参って怒り睨み言った
「そういう心ですから、こんな目にもあうのです。さっさと乗るべきです」

前座主明雲は恐ろしさに急いで乗った。衆徒は御輿を担ぎ叫んで登った。御輿を担ぐ者は交代しながらだが、祐慶は交代せず険しい坂を平地を行くように東塔へ向かった

平家物語・一行阿闍梨之沙汰「神の託宣・配流されようとしている前座主を奪い取れ」

2022-02-25 07:59:37 | 日記
比叡山衆徒は、十禅師権現の前で、また会議を開いた
「我々が粟津に向かって、前座主を奪い取り止めよう。無事に奪い取るためには十禅師権現さまの力以外に頼るところがない。」
「問題なく座主を引き取ることができるならば、ここでめでたい瑞相をお見せください」
と、老僧たちは祈念した

鶴丸という18歳が、苦しみ悶え汗を流して急に狂いだして言った
「どうして我が比叡山の座主を、他国へ移してよかろうか。それはいついつまでも悲しいことだ。そうなるのなら自分がこの麓に鎮座していてもしかたがない」

衆徒は確かめるため
「まことに十禅師権現の御託宣でしたら、しるしを示してください」
と言って、僧侶500人が持っている数珠を床に投げ上げた。鶴丸はその数珠を走り回って拾い集め、少しも間違えず、もとの持ち主に配った

衆徒はみんな手を合わし
「座主を奪い取り、止めよう」と言うと、大勢で出発した
大勢の比叡山衆徒を見て、前座主を配所に送り届ける役人は逃げた
前座主は驚いて言った
「天皇から罰を受けた者は月日の光にさえ当たらぬ。まして至急都を出るようにと、院宣を受けたのだから、少しも躊躇してはいられない。衆徒は山へ帰りなさい
そして、、我が身に過失はない。無実の罪によって流罪という重罪を受けたのだが、世も人も神も仏も恨むことはない
ここまで訪ねて来られた衆徒方の志は十分ありがたい」と涙された

平家物語・座主流し「比叡山は座主を流罪にした西光父子を呪詛した」

2022-02-25 07:11:25 | 日記
1177年5月21日、明雲の配流先は
伊豆国と定められた。西光法師親子の讒言(人を陥れるための嘘)によってそのように行われたのである

ただちに今日都を追い出されるべきだと、役人が明雲を追いたてた

比叡山では「我らの敵は西光父子以上の者はいない」と言って、親子の名字を書いて、根本中堂におられる十二神将のうち金比羅神将の左御足の下に置き、踏まれるような形にして「十二神将七千夜叉、すぐ西光父子の命をお召し捕りくだされ」と叫んで呪詛した

23日、明雲は配所に向かった
比叡山の澄憲僧はあまりにも名残惜しく思い、粟津(大津市)まで送ってさしあげた。明雲はその志の深さに感心して、長年自己の心中に秘めていた【一心三観の血脈の相伝】を伝授された
この法は釈迦の伝授されたもので、馬鳴比丘、龍樹菩薩からしだいに相伝してきたのだが、それを今日の情けに対してお授けになった。澄憲はこれを伝授され涙ながら都へ帰って行かれた

比叡山では衆徒らが評議をしていた
「天台座主が始まって五十五代の今に至るまで、座主が流罪になった例を聞かない。延暦の頃桓武天皇は平安京に都を立て、伝教大師はこの山に登って、天台の教えをお広めになった。以来千人の清浄な僧侶が住んでいる。峰には長い年月法華経読誦が行われ、麓には日吉山王七社の霊験が日々にあらたかである。比叡山は帝都の東北の鬼門にそびえて、国家を鎮護する霊地である。どうして比叡山に傷をつけてよかろうか」
と叫ぶと、比叡山全部の衆徒がみな東坂本へ下った

平家物語・座主流し「伝教大師の予知・未来の座主の名字を記してある紙がある」

2022-02-25 06:19:48 | 日記
流刑を定められた
前天台座主明雲大僧正という人は
村上天皇第七皇子の具平親王から
六代子孫の大納言・源顕通の子
またとない大徳のある方
天下第一の高僧
四天王寺・六勝寺の別当を兼ねる
しかし陰陽師安倍泰親が申すには
「明雲と名乗るのはわけがわからぬ。上に日月の光、下に雲」

1166年2月20日、天台座主になる
3月15日、中堂の宝蔵を開かれると箱がある。座主がその箱を開けて御覧になる。黄色の紙に書かれた文が一巻あり、伝教大師が未来の座主の名字を前もって記しておかれたのである。自分の名のある所まで見て、それから先を見ず、もと通りに戻しておかれるのが常である。明雲もそのようになさった尊い人なのに
前世の行為の報いを免れないのか