以仁王は三井寺から宇治までの間で6度落馬した。これは昨夜眠らなかったせいだというので、平等院に入ってしばらく休息された
六波羅では以仁王を討つため、大将軍・平知盛(清盛四男)率いる軍勢2万8千騎が宇治橋に押し寄せた
敵は平等院にいると見た。先陣の兵が「橋板が外れているから、怪我をするな」と騒ぎ、後者の陣営はこれを聞かず、我先にと争って進むうち、先陣200騎は後から押されて橋の間に落ち、溺れ、流された
以仁王方では、射た矢が鎧でも、盾でも止まらず平家軍に貫く
源頼政とその嫡子仲綱は、この日が最後と思われたのか、わざと兜を着けなかった
五智院の但馬という者がただ一騎、橋桁上に進む。平家は弓をさんざん射るが、但馬は騒がす向かってくる。矢をくぐり、越え、長刀で切り落とした。それ以来彼は「矢切の但馬」と言われた
筒井の浄妙という者も橋の上に進み、大声をあげて名のった
「日頃は噂で聞いているだろう。今は直接目でも御覧あれ。一人当千の僧兵、筒井の浄妙明秀という。我こそはと思う人々は、寄って出会え。相手になる」と言って24本の矢を弓につがえては引き、つがえては引きさんざん弓を射た。その場で12人射殺、11人負傷させ、残った矢は捨て、橋桁を走り渡り長刀で向かって来る敵5人を倒し、6人目の敵に長刀を真ん中から折られたので、その後は太刀を抜いて8人斬り、9人目の敵で太刀が折れ、川へ入った。頼みとするのは腰刀だけ。【ただ一途に死のう】と戦った
三井寺の衆徒たちは、浄妙が渡ったのを手本にして我も我もと、橋桁を渡った
あるいは首を取って帰る者
あるいは痛手を受けて腹を切る者
橋の上の戦いは壮絶で激しかった