るるの日記

なんでも書きます

平家物語・木曽義仲挙兵す

2022-03-03 14:23:41 | 日記
信濃国に、木曽義仲という源氏がいるという噂が世に伝わっていた

六条判官為義の次男義賢の子である
義賢は鎌倉の源義平(甥)に討たれた。その時、義仲は2歳。母が抱いて信濃を越え、木曽兼遠の所へ行き、「この子を何としてでも育てて、立派な人間にしてください」と言ったので、兼遠は引き受けて、骨身を惜しまず20数年養育した

ある時義仲は、お守役の兼遠を呼んで言った「源頼朝は、もはや謀反を起こし、関東八国を討ち従えて、東海道から京都へ進み、平家を追い落とそうとしている。義仲も東山・北陸両道を討ち従えて、一日でも先に平家を攻め落とし、日本国二人の将軍と言われたいものだ」と、気持ちをほのめかした

兼遠はたいそう喜び、畏まって
「そのためにこそ、あなたを今まで養育申し上げたのです。こう言われるのは、疑いなく八幡殿の御子孫と拝察いたします」と言って、すぐさま謀反を企てたのであった

兼遠は「まず、廻状をまわしましょう」と言って、
★信濃国では、根井の小弥太、海野の行親らが背くことなく味方になった。これをはじめとし、信濃国中の武士どもに、なびかない者はなかった
★上野国では、源義賢の縁故で、多子郡の武士どもも皆従属した

義仲はいつも兼遠に連れられ、都へ上り平家の人々の様子や行動を窺い見ていた。13歳で元服した時も、岩清水八幡へ参詣し、八幡大菩薩の御前で「私の四代祖父・義家朝臣は、この八幡大菩薩の御子となって、名を八幡太郎と号した。自分もそれにあやかり、その義家の跡を追うようにしよう」と言って、髻を結んで元服し、木曽義仲と名づけたのであった





平家物語・後白河法皇は嘆き悲しみ思い悩む生涯なのに、不思議と病に伏せない強さがあった。強さの原因は【継続した信仰姿勢】にある

2022-03-03 13:34:16 | 日記
後白河法皇は嘆き悲しみの生涯だったが、不思議と思い悩んで病に伏せることはなかった

永万1年
第1皇子・二条院崩御

安元2年
孫・六条院が亡くなる
妻・建春門院が亡くなる

治承4年5月
第2皇子・以仁王討たれる

治承5年1月
第7皇子・高倉院亡くなられる

それにつけても法皇の芯の強さはは、法華経の読誦は怠らずに行われ、真言密教の行法を修されることも積み重ねて、信仰が深くなられることなどに顕れている

清盛は自分の無情の振舞を、やはり恐ろしく思われたのか、後白河法皇をお慰めしようと、厳島の内侍が生んだ18歳の自分の娘を法皇へ差し出された。厳島からは身分の高い女官を選び、御付きの女房として参られた

だが、高倉上皇が亡くなってたってまだ14日も過ぎないのに、こんなことはよくないと、人々は皆ささやき合っていた

平家物語・心が広いのか?眼中にないのか?「夫が失恋して沈んでいるのを慰めるため、美しい女性を差し上げる妻」

2022-03-03 13:03:26 | 日記
高倉天皇が恋患いに沈んでいるのを慰めようと、皇后は【小督(こおう)】という女房を差し上げた。この女房は宮中一の美人で、琴の名手だった

冷泉隆房が恋していた女房でもあった
隆房は小督に手紙を何回となく贈り、恋慕っていたが、小督がなびく様子もなかった。だがそれでもやはり隆房の熱心な情に心ほだされ、しまいにはなびいて恋仲になった

けれども今は、小督は天皇のお召しを受けて会えなくなった。隆房は、【飽きたのでもないのに別れねばならない辛さ】に、どうしようもなく悲しく涙が乾くこともなかった
それでも、隆房は遠くからでも小督を見かけることができるかもしれないと、いつも宮中へ参内していた

小督は、「私が天皇のお召しを受けたうえは、隆房さまがどんなに言っても、言葉を交わしたり手紙を見るべきではない」と思っていた

隆房は一首の歌を詠んで、小督のおられる御簾の中へ投げ込んだ

「思いかね、心は空に、満ちのくの、近のしおかま、近きかいなし」
(あまりの思いに耐えかねて、あなたを慕う心は空一杯になるほどです。すぐ近くにいるのに、そのかいもありません)

小督は「すぐに返事がしたい」と思ったが、天皇のためによくないと、手にとって見ず、側に仕える少女に与えて、中庭へ投げさせた
隆房は情けなく恨めしかった
「この世では好きな女に逢うこともできず、死んでしまいたい」とばかり願うようになった

清盛にこの三角関係が耳に入る
天皇も隆房も、清盛の娘婿であったので、小督に二人の婿を取られ憤慨し、小督を殺すことに決めた

小督はそれを漏れ聞いて「自分は殺されてもいい。だけどそんな事になったら天皇がお気の毒、、」と思って、姿を消した
しかし結局天皇は、小督が居なくなった悲しみで涙にむせび嘆いた

夜更けに天皇は、宿直の源仲国を呼んで尋ねた「お前は小督の行方を知っているか?『小督は嵯峨の辺りの家にいる』と申す者がいたそうだ。その家を捜してくれないか?」と、涙を流された

仲国はよく考えた
「そういえば、小督殿は琴をひかれた。この夜の月の明るさに、天皇のことを思われて琴をひかないことはない。その琴の音を聞き出して、家を探そう」と決めた
仲国は馬に乗り、どことも分からないが、あてもなくさ迷って行った

亀山あたり近く、松が一群立っている方で、かすかに琴の音が聞こえる。馬を急がせて行くうちに、ある家の内に、誰かが琴を心澄ましてひいておられた。まぎれもなく小督の琴の音である。楽曲は「想夫恋」。
仲国は腰から横笛を抜き出し、琴の音に合わせて吹いた。琴の音は消えた

仲国は門を叩き、告げた「内裏から仲国がお使いに参りました。お開けください」。中から「家間違いです。こちらは内裏からお使いなどいただくような所ではございません」と申すので、押し開けて中へ入った

仲国は言う「どうして、こんな所にいるのですか?天皇は思い沈んでおられ、命も危なく見えます」

小督はこたえた
「清盛さまが、私を殺すと申していると聞いたので内裏から逃げました。明日から大原の奥に行こうと思い立ちました。ですので今夜かぎりの名残を惜しんで、また過ぎ去った名残を懐かしみながら、手慣れた琴をひくうちに楽々と聞きつけられましたよ、、」と言って涙を流された

「明日から大原の奥に行かれるとは、尼になられるという事でしょう。なりませぬ。天皇のお嘆きを何となさるつもりですか?」
「この人を出さないで守っていてくれ」と伴に告げ、仲国は内裏に帰って、天皇に小督殿の様子を告げた

天皇は仲国に「お前が、すぐ今夜連れ参れ」と言われたので、回り回って清盛に伝わるのは恐ろしいが、天皇の御言葉であるから、小督をなだめすかして内裏の人気のない所に隠し住まわせた。そこに毎夜天皇が通っているうちに、姫宮が一人生れた。坊門の女院である
(治承元年(1177)範子内親王誕生、土御門天皇准母、1206年坊門院と号す)

清盛は漏れ聞いて、小督を捕らえ、尼にして追放した。小督は23歳で、濃い墨染めの衣をまとい、嵯峨の辺りに住んだ

このような、いろいろな事のために、高倉天皇は病気にかかり、亡くなられた







平家物語・高倉天皇の愛の告白を受けた少女は、嬉し過ぎて死んでしまう「悩み過ぎも命を落とし、嬉し過ぎも命を落とす、ということか?」

2022-03-03 10:22:43 | 日記
高倉天皇の中宮に仕えていた女房がいる。その女房の召し使っていた少女がいる。意外にもその少女が天皇近くに参ることがある。天皇はいつも、その少女をお召しになるのだ
少女の名は葵前といった
だから葵前の主人の女房は、逆に葵前を主人のように大切にした

御所内では「女を生んでも悲しみ嘆くな、女は妃になれる」「この少女は后となり、国母ともなって仰がれるだろう。素晴らしい幸せだ」
とささやかれていた

天皇はその噂を聞かれて、その後は葵前を側にお召しにならなかった。愛が無くなったわけではない。ただ世間のそしりを、はばかれたからである
それ依頼、高倉天皇は物思いに沈まれがちになった

天皇は古い歌を思い出し、一首書かれた
「しのぶれど、色に出でにけり我が恋は、物や思うふと人の問うまで」
(私の恋は人目を忍んで内密にしていたが、顔色に出てしまった。物思いしているのかと、人が尋ねるほど)

この歌を、冷泉少将隆房が頂戴し、あの葵前にお与えしたところ、葵前は顔を赤らめ「気分が悪くなりました」と言って、家に伏せること5~6日で、とうとう死んでしまった

【天皇の一日の恩寵のために、妾の一生涯の身をあやまる】




平家物語・治承五年正月、、、悩みに悩んだ高倉上皇が亡くなる(21歳)

2022-03-03 09:41:34 | 日記
■治承五年正月一日
朝廷では、東国の戦乱・奈良の炎上によって祝い事は取りやめになり、天皇の御出ましもなく、藤原氏の公卿は一人も参内しない。藤原氏の氏寺、興福寺が焼失したからである
仏法も王法もともに亡くなり、宮中は不吉の空気が漂うように見えた

後白河院が嘆かれる
「私は十善の戒行を守ったその余徳のために、天子の位を保っている。四代にわたる帝王も自分の子であり孫である。それなのにどういうわけで、天下の政務を止められて、年月を過ごすのだろう」

■興福寺別当花林院僧正、思い乱れ亡くなる

五日、奈良の僧侶らは僧官を解任され、朝廷の法会に召される資格を停止し、
僧職も没収された
衆徒は大勢滅び、わずかに残る連中は山林に隠れた

興福寺の別当・花林院の僧正・永緑は、あれこれ思い乱れたことから、病にかかって、とうとう亡くなられた。優雅で情け深い人であった
葬儀は、公卿が隠れていた僧侶を召し出して、型通りに行うことができた

■高倉上皇、思い乱れ亡くなる

★一昨年、後白河法皇が押し込められた事
★昨年、以仁王が討たれた事
★都遷都
★都帰り
いろいろな事を心苦しく思われたことから病気にかかられた
★さらに東大寺・興福寺が焼け滅んだ由を聞いて、悩みはますます重態になられ、14日とうとう亡くなられた。21歳だった

仏道では十戒を保ち
儒道では五常乱さず
儒教の仁義の道を再興し
今は絶えた「民を安楽にし世を治める仁政」を行われ、治世12年の高倉上皇だった

だが、死は誰も逃れられぬ道
万物無常なのが世の習い
高倉天皇はこの道理に従うのが、、余りにも早過ぎた