■12月23日、近江源氏が反乱を起こしたので、平氏軍勢2万騎で近江を攻め落とし、そのまま美濃・尾張へ行く
■興福寺の大衆が蜂起する
大衆は大きな毬の玉を「清盛の頭」と呼び、蹴ったり打ったりした
清盛はそれを伝え聞いて、まずは騒動を鎮めようと、瀬尾兼康率いる500騎を「衆徒が乱暴しても、けっして弓矢を持つな。鎧・兜をつけるな」と言って奈良へ向かわせた
しかし、衆徒大衆は兼康勢60数人を捕まえ、首を伐り、並べ、晒したので、清盛は激怒して「それなら奈良を攻めよ」と兵4万騎を奈良へ出発させた
■奈良大衆は7千人
奈良坂・般若寺2ヶ所の道を切断
堀を作り、盾を並べ、木を外向きに立て、待ち受けた
馬はなく徒歩
武器は太刀・刀
■防戦する奈良大衆は無数に討ち取られた
奈良坂・般若寺2ヶ所の城郭は陥落
平氏軍は民家に火をかけた。風が強く多くの寺に火が回った
★興福寺
藤原不比等の御願によって建てられた藤原氏代々の氏寺である
藤原不比等は東金堂においでになる
仏法が初めて日本へ渡って来た時の釈迦の像は西金堂においでになる
四方の廊下
朱、丹混ぜて塗られた二階建ての楼
九輪が空に輝いていた2つの塔
すべてが燃えた
★東大寺
聖武天皇が自分の手で磨いた、金銅作り高さ十六丈の盧遮那仏がおいでになる
その尊い姿も、今御頭は焼け落ちて地上にあり、御身体は溶け崩れて山のようである
八万四千の相好は、五逆重罪に沈み
四十一地の瓔珞は、十悪の中に虚しく捨てられている。
法相宗・三論宗の法文・経文は一巻も残らない
今、焼け落ちて汚れたこの世の塵に混じって、永久に悲しみを残した
わが国ではもちろん、天竺でも、これほどの法滅があろうとは思われない
炎の中で焼け死んだ人三千五百人余
戦場で討たれた大衆一千人余。首を斬って少々は般若寺の門にさらし、少々は持たせて、平氏軍は帰京
清盛だけが、怒りが晴れて喜んだ