るるの日記

なんでも書きます

法然の生きた京都修羅の暗黒時代=末法濁世には念仏

2022-03-28 11:09:35 | 日記
法然の生きた時代は暗黒時代
栄枯盛衰のめまぐるしい時代
君臣背き
父子が争う
盗賊横行
疫病
地震
飢饉
兵乱
兵乱により街炎上
寺の焼き討ち
京都は修羅の巷
このような暗黒時代であったから「念仏は末法濁世の時代の目足(最も大事なもの)」と信じられた
人の心では反抗できない力があった

法然は凡夫、大衆の救済を目安にしていて、その着眼点がこれまでの宗派と違っていた
宗教とは数人の貴人の成仏だけを目的とするものではない。世界にみちみちている生にあえぐ大衆を救済することを目的としなければならぬと

法然の浄土宗はこれまでの諸宗に対して全く新しく革命的なものだった

【元歴元年、平清盛の四男重衡は捕らえられて死ぬ直前に法然のところで法を聞いている。重衡の孫である13歳の少年は、内密に法然のところに預けられている】


仏教の預言「今は末法時代だから念仏が栄える」

2022-03-28 10:37:23 | 日記
信仰は法と機が一致しなければならぬ。それは各人の器量・素質・性格が、法の難易・修行の仕方・説き方と一致しなければならないということ

経文を読めない人に天台の奥義を理解せよは無理
弱気で神経質な性格な人に聖道門は適しない
日蓮宗などは強気な性格の者でなくては適しない
漁夫や軍人に殺生戒を保てといっても無理
これが法と機の合う合わないの問題です

時代によって要求するものが相違し
環境によって相違し
人の素質、心理状態によって相違する

今の時代は仏教的には末法の時代
教えは残っているが、それについて修行する者は極めて少ない。だから悟りを開く者も少なく、仏教の尻すぼみ時代。だからこの時代は念仏往生の法が栄える
最後に法滅の時代がくる
そして56億7千万年後に弥勒がこの世に出世して、再び正法の栄える時代が来る(教えあり、修行する者あり、悟りを開くものあり)

これは預言である



単純、素直、一すじを求める

2022-03-28 10:08:46 | 日記
★一心専念弥陀名号
(一心に専ら弥陀の名号を念じる)
★是名正定之業
(これを正定の業と名づく)

とハッキリと宣言されていると
それに決定して専修するのは
法然のような心情ひとすじな性格の者には、心が至心になっていさぎよい

★行住坐臥不問時節久近
(いつでもどこでも場も時も気にすることなく)

行の時だけ改まって、後は常識にかえって忘れてしまうという事では納得できない
生活の端端まで隙間なくやりたい
寝ても醒めてもという趣がほしい
いつも威儀を正していることは不可能だから、形態威儀を問わずいつも念仏していることはまことに相応しい

「草のいほに寝てもさめても申すこと南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
良寛も同じ心である

単純な、素直な、一すじなものがいい
人間の平安は、複雑で煩わしく、分裂するときに壊れる



他力を知るには自力を尽くさねばならぬ

2022-03-28 09:43:28 | 日記
法然は「仏の本願のゆえに凡夫が救われる」という大計画・大本願が自分にはちゃんと用意されており、それが目前にありながら、気づかず苦しんでいた自分をふりかえって思った

この世の人の位置の価値観では、仏の大本願に気づく事、信じる事はできない。人間業ではできない
人智を超絶した実在があるに相違ない。阿弥陀仏の実在と救済は相違ない

これは他力の信の発する微妙な契機であって、人間としてどーしようもなくなった感を感じないと到底理解できない
人間の自力を尽くしても尽くしてもダメだったような、自力の限界にきて初めて解るのである
他力を知るには自力を尽くし、悩み苦しまねばならぬ、という準備が必要である

だが、「他力を知るための準備として悩もう」という意識ではない。そんな悩みはありえない。自然のもよおしで悩む。因縁に相応し悩むのである
こうして時機は熟成されていく

仏の大本願が自分の運命を抱いてる
仏の広大な慈愛が自分の運命を抱いてる、、南無阿弥陀仏




浄土宗の非合理な教えのの本質は、非合理を越えたら見える【楽になりますよ】

2022-03-28 09:01:05 | 日記
■信仰は合理・道理から感情へ

そして極限にて合理・道理を離れて、感情の事実に帰する

法然はこれまで「往生要集」や「観無量寿経疏」を幾度か読んでも心に響かなかった。その同じ文字が法然の機が熟すや光明を得て、新天地を開かせたのである

■その文字
一心に専ら弥陀の名号を念じて
【一心専念仏弥陀名号】
いつでもどこでも時節をとわず
【行住坐臥不問時節久近】
念じて念じて念じ捨てない者
【念念不捨者】
これを正定の業と名づく
【是名正定之業】
この仏の願いに順ずるが故に
【順彼仏願故】

法然はなぜこの文字で光明を得、安心立命せしめた力があったのか?
心情的な事実か?

■そもそも浄土宗の信仰とは

法蔵比丘がまだ仏ではなかった時、「煩悩具足の凡夫を救いとりたい」という、これまでの諸仏のおこしたことのない大願を発して、ありとあらゆる難行苦行をして、遂に稀有の大弘誓を成就し、法蔵比丘は阿弥陀仏になって極楽浄土に住み、【一切の凡夫が「ただ仏をたのみ、仏名を称え」さえすれば極楽浄土に迎えてくれる】ということを、疑わずに信じる所に成立する

これは天台や真言のように即身成仏して自分が仏になったことを体験することとは相違して、弥陀の誓約を信じることである
弥陀が本当に極楽浄土にいるか?
弥陀の誓約は本当か?
これを証拠立てはできない
疑えばそれまでである
だから浄土宗の教えは非合理である

その非合理を超越し、信仰の体験的事実を内証してみれば、歴然として弥陀の救済の事実が成立する
非合理性の飛躍こそ信仰の本質
非合理を超越することは体験なのである

■順彼仏願故
この仏の願いに順ずるが故に

これは天地を逆さまにするものだ
価値の転倒
これまで上にあったものが下になっている
これまで自分の力で救われようと、自分の力から出発していた(気合いを入れるやら、やる気を出すなど)

それがあべこべなんだ
仏の願力で救われる
信じることさえ仏の力
気合いを入れるも、やる気を出すも、、

ははぁこれだな、、と思う
これに気づかなかったからうまくいかなかった。いくら頑張って努力してもうまくいかなかったのはこれだ!自分の力で何とかしようとしていたからだ!
それから法然は他力の救済を歩いた