治承4年4月22日
新帝の御即位が行われ、華やかでめでたい事がいろいろあったが、世間は平静ではなかった
後白河法皇の第二皇子以仁王という人は、母は加賀大納言季成の娘
三条高倉にいたので高倉の宮と申した
建春門院の妬みのため、押し込められてしまい位にはつくことができなかったが、詩歌を書き、笛を吹き、日夜を過ごしていた
今年30歳
源頼政が以仁王の御所に参って申した
「以仁王さまは神武天皇から数えて第78代に当たります。皇位に就くべきですのに宮であることを残念だと思いませんか
現代の様子を見ますと、うわべでは従っているようですが、内々は平家を憎まない者はありません
謀反を起こして平家を滅ぼし、あなたも皇位に就くべきです。これが孝行です
謀反を決められて、令旨を下されましたら、喜んで馳せ参ずる源氏どもは多くおります」
以仁王は謀反の計画を立て始めた
熊野にいる十郎義盛を呼んで蔵人にし、彼は行家と改名し令旨の使いに東国へ下った
4月28日
都を立ち、近江国、美濃、尾張の源氏に次々と触れを出す
5月10日
伊豆の北条に到着
流人の前兵衛佐殿(さきのひょうえのすけ・源頼朝)に令旨を差し上げた
熊野別当湛増は、平家に深く心を寄せる者だが、源氏が平家謀反を起こすことを知り、源氏の味方をするであろう那智新宮に矢を射ようと、武装した兵1千人を引き連れ出発し、那智軍勢2千人余と3日間戦った。熊野別当湛増は家の郎党を多く討たれ、自分も負傷し逃げ帰った