平清盛は8月1日に嫡男重盛に先立たれてからは、福原へ下って閉じ籠っていたが、11月14日、兵を引き連れて都に戻った
京市中では「清盛は皇室を恨んでいる」といった噂がたった
後白河法皇は驚いて、静憲法印を西八条の清盛邸へ派遣した
法印は朝から夕方まで清盛を待っていたが、何とも言って来ないので、後白河法皇の言葉を、判官・季貞に伝えた「、、朝廷に不満を抱いているらしいと私の耳に入った。これは何事だ、、」
清盛が出て来て、朝廷の不満をぶちまけた
■「内大臣重盛が死んで、私は悲しく暮らしている。私はだいたいの事を行うだけだったが、重盛は身を粉にして、後白河法皇の度々のお怒りが何度かあるたびに解決していた。そのほか重盛ほど功績のあった法皇の臣下はいない
そして臣下が死ぬのを代々の帝はみなお嘆きになった。親より、子どもより睦まじく思うのが君臣の仲だと思う
しかし、この朝廷は、重盛の四十九日も終わらぬうちに、八幡の行幸があって音楽も催され、お嘆きの様子は一つも見えない。たとえ私の悲しみを哀れみにならないにしても、どうして重盛の忠義を忘れるのか?」
■「越前国を子孫まで変更しないと約束して、これを戴きましたのに、重盛に先立たれた後、すぐ召し返された事は、どういった科でしょうか」
■「中納言に欠員があった時、藤原基通(妻は清盛娘)を私が随分とりなしたのに承知なさらず、関白・藤原基房の子息を中納言になされたのはどういったわけでしょう」
■「藤原成親以下の連中が、鹿谷に寄り合って、謀反の計画をしていた事、これは彼らの個人的な計略ではない。すべて法皇が許したからです」
■「私は年老いてから子を亡くしました。今は残り少ないこの世にいろいろ心を使っても仕方がないから、どうにでもなれと、考えるようになりました」