るるの日記

なんでも書きます

平家物語・清盛の重盛に先立たれた悲しみは想像以上に深かった「残り少ないこの世に心を使っても仕方がない、もうどうにでもなれ」

2022-02-26 18:09:49 | 日記
平清盛は8月1日に嫡男重盛に先立たれてからは、福原へ下って閉じ籠っていたが、11月14日、兵を引き連れて都に戻った

京市中では「清盛は皇室を恨んでいる」といった噂がたった
後白河法皇は驚いて、静憲法印を西八条の清盛邸へ派遣した
法印は朝から夕方まで清盛を待っていたが、何とも言って来ないので、後白河法皇の言葉を、判官・季貞に伝えた「、、朝廷に不満を抱いているらしいと私の耳に入った。これは何事だ、、」

清盛が出て来て、朝廷の不満をぶちまけた
■「内大臣重盛が死んで、私は悲しく暮らしている。私はだいたいの事を行うだけだったが、重盛は身を粉にして、後白河法皇の度々のお怒りが何度かあるたびに解決していた。そのほか重盛ほど功績のあった法皇の臣下はいない

そして臣下が死ぬのを代々の帝はみなお嘆きになった。親より、子どもより睦まじく思うのが君臣の仲だと思う

しかし、この朝廷は、重盛の四十九日も終わらぬうちに、八幡の行幸があって音楽も催され、お嘆きの様子は一つも見えない。たとえ私の悲しみを哀れみにならないにしても、どうして重盛の忠義を忘れるのか?

■「越前国を子孫まで変更しないと約束して、これを戴きましたのに、重盛に先立たれた後、すぐ召し返された事は、どういった科でしょうか」

■「中納言に欠員があった時、藤原基通(妻は清盛娘)を私が随分とりなしたのに承知なさらず、関白・藤原基房の子息を中納言になされたのはどういったわけでしょう」

■「藤原成親以下の連中が、鹿谷に寄り合って、謀反の計画をしていた事、これは彼らの個人的な計略ではない。すべて法皇が許したからです」

■「私は年老いてから子を亡くしました。今は残り少ないこの世にいろいろ心を使っても仕方がないから、どうにでもなれと、考えるようになりました」

平家物語・平清盛嫡男「平 重盛」43歳で亡くなる

2022-02-26 16:53:03 | 日記
平清盛嫡男・平重盛は熊野に参詣し、一晩中神に申しあげた

「わが父は、悪逆無道で後白河法皇を悩ましています。私重盛は長男としてしきりに諌めるが、私が至らぬために父は私の諫言に従いません。その振舞を見ると父一代の栄華でさえも危うい。まして子孫続いて後世に名を残すことは困難

そこで私が思うには名誉、名声、人望を捨てて隠退し、来世の菩提を求めたい。ただし善悪の判断に迷う凡夫の私は出家の志を遂げることもできない

願うは、父清盛の悪心を和らげて、天下を安全にしてください。また栄華が父一代限りで子孫が恥を受けるのならば、この重盛の命を縮めて、来世の苦しみをお助けください

父清盛を改心させるか、私の命を縮める、2つのお願いをして、ひたすら神のお助けをお願いします」

と祈ると、重盛の身体から火のような物が出て、パッと消えた。人は大勢これを見たが、恐れて口にはしなかった

重盛、熊野から帰ると、何日もたたないうちに病気になる。重盛は神が願いを受け入れたと治療も、祈祷もしなかった。すべては天の心による。その心を察せずに愚かに医療の手を借りたりはしない。それに病気が定められた業によるなら、医療を加えても無益。定業による病は治らない。現世限りの一時の災厄であるなら、医療を加えなくても助かる

清盛は
「こんな立派な大臣は昔にもまだ聞いたことがない、、まして現在にあろうとも思えない、、このような、、立派な大臣は、、日本にふさわしくないから、、どんなことをしても重盛は、今度死ぬに違いない」
と言った

7月28日
重盛は出家した
法名は浄蓮

8月1日
臨終正念のうちに重盛は亡くなられた。43歳

清盛が横暴な事をしても
この人が直しなだめられたからこそ
世の中は無事であったのに、、

平家物語・鬼界ヶ島で俊寛死す「飢え死に」

2022-02-26 16:09:51 | 日記
鬼界ヶ島へ3人が流されていたが、2人が都へ帰され、俊寛1人が鬼界ヶ島で辛い思いをしていた

俊寛が召し使われた童がある
名は有王
有王は、鬼界ヶ島の流人が都入りする日に鳥羽まで俊寛を迎えに行ったが、自分の主人はいない。人に尋ねると「俊寛は罪が重いので、島に残された」と聞いて、有王は都を出て商船に乗り鬼界ヶ島へ渡り、一所懸命俊寛を捜した

ある朝、磯の方から痩せ衰えた者が、よろめき出て来た。髪は天に向かって伸び、いろんな屑がついていた。片手には海草を持ち、片手には魚を持ち、よろよろしていた

有王はその人に尋ねた
「お尋ねします。ここに都から流された俊寛という方の行方を知りませんか?」

その人は言った
「それは私だ」と言うやいなや、砂の上に倒れ伏す。そのまま意識を失いそうだった俊寛を、有王は膝にのせて言った
「有王が参りました。こんな御様子で、生きながらえておられたのですね」

俊寛
「去年、他の2人に捨てられ、後の頼りなさといったら無かった。こんな穏やかな日には磯に出て、釣りをする人や網を引く人に頼みこんで魚をもらい、貝を拾い、海草をとり、命をつないで生きていた

暦もなく月日が変わっていくのも知らない。たまたま花が散り、葉が落ち、蝉が泣き、雪かわ降るのを見て季節を知り、月の満ち欠けを見て30日間を区別してきた」

業にはいろいろある
順現業・順生業・順後業
俊寛はこの一生の間、自分を用いるところは、大寺院ばかりではなかった。だからあの平家謀反の罪によって、この世で早く結果が現れたのだ

有王が鬼界ヶ島へ渡って23日目、その庵の中で俊寛は、とうとう生涯を閉じた。37歳だった

このように平家に人々の恨み嘆きが積もっていった。平家の行く末がどうなるか、恐ろしい事である

京中にはつむじ風おびただしく吹く
人家は多く倒れ、空中に散らばる。
人は多く死に、牛馬無数に打ち殺される。神祇官で占いが行われた
「百日の間に大臣の謹慎あり。天下の重大事起こる。仏法、天皇は衰える。戦乱は続く」と出た






平家物語・真言密教の金剛界・胎蔵界の垂迹(化身)は、安芸の厳島・越前の気比宮である

2022-02-26 15:14:13 | 日記
平家が安芸の厳島神社を信仰しはじめた次第は、鳥羽院の御代に清盛が安芸守だった頃、「安芸国の収入によって高野山の大搭を修理せよ」と命じられたので、6年かかって修理をした

その後に清盛は高野山に登り大搭を参拝し、奥の院へお参りされたところ、どこからともなく老僧が杖にすがって出て来られ清盛に話しかけた

「昔から今まで、この山は真言秘密の教えを伝えて衰えることがない。大搭はもう修理が終わりました。ところで安芸の厳島、越前の気比の宮は、金剛界・胎蔵界の垂迹ですが、気比の宮は栄えていますが、厳島は荒れ果てています。このついでに奏上して修理なさいませ。修理さえなさるなら、あなたの官位昇進は他に及ぶ者はありますまい」と言って立ち去られた

老僧が座っていたところがには不思議な芳香が薫っていた。清盛が人につけさせると、老僧は三町ばかりは人の目に見えていたが、その後はかき消すように見えなくなった

これは人間ではない、、
弘法大師でいらっしゃったのだと
尊く思い、この思い出にと、高野山の金堂に曼陀羅を描いた。西曼陀羅を常明法印という絵師に描かせ、東曼陀羅を清盛が描いたのだが、八葉の中尊の宝冠を、自分の頭の血を出してそれで描いた

上京し鳥羽院にこの事を奏上すると、鳥羽院も感動して厳島の修理をなさった。鳥居を建て替え、社を造り替え、180間の回廊を造った

修理が終わってから、清盛が厳島へお参りして、終夜参籠した時の夢に、御神殿の中から天童が出てきて
「私は大明神の御使いだ。汝はこの剣を持って、天下をしずめ、朝廷のお守りとなれ」と言って小長刀をくださる夢を見て、目覚めて見ると、現実にその小長刀が枕元に立っていた
また大明神は御託宣をされた
「お前はまだ覚えているか。高野山で老僧をして言わせた事を。ただし悪行をしたら、栄華も子孫まで及ぼすことはできないであろうぞ」と告げて大明神は去って行かれた

平家物語・天皇の子出産時の呪術【呪術師・後白河法皇】

2022-02-26 14:10:15 | 日記
11月12日午前4時
高倉天皇中宮で清盛娘が産気づく

御産が無事であったら、八幡・平野・大原野神社などへ中宮が御礼参りに行くという願を立て、全玄法印がこの願書を読み上げた

神社は伊勢神宮をはじめ20余ヵ所
寺は東大寺・興福寺以下16ヵ所
で誦経が行われた

神社70余ヵ所へ神馬を奉納した

仁和寺は孔雀経の法
天台は七仏薬師の法
三井寺は金剛童子の法
そのほか
五大虚空蔵
六観音
一字金輪
五壇の法
六字河臨
文殊八字
普賢延命の法に至るまで
残ることなく行われた
また、中宮と等身大の七仏薬師、五大尊像を造りはじめた

護摩の煙は御所中に満ち
金剛鈴の音が響き
どんな死霊、生霊であっても対処しようがなかったかのようにみえたのだが、、、
中宮は陣痛に苦しむばかりで、出産されない

後白河法皇は熊野へ詣でるために、精進していたから、中宮近くに座って千手経を高らかに読み上げた。すると中宮に呪縛している霊は鎮まった

法皇は言う
「どんな死霊・生霊でも、私が側にいるなら、中宮には近づけない。中でも今現れた怨霊たちは、みな我が皇室の恩を受けて一人前になった者どもだ。妨げをなしてよいはずがない。さっさと退散せよ❗️」と言って

「女人生産し難からん時に臨んで、邪魔遮障し、苦忍び難からんにも、誠をいたして、大悲呪を称誦せば、鬼神退散して安楽に生ぜん」
と千手経を読み祈祷された

中宮はその後は安産され
生まれたのは皇子であった
清盛は嬉しさで声をあげて泣いた
泣き喜びである