るるの日記

なんでも書きます

歎異抄を知る「親鸞の弟子が、親鸞滅後に起こった異義邪説を破るために書かれた」

2022-03-30 13:59:03 | 日記
■歎異抄は親鸞が弟子「唯圓」が書いた
動機は、親鸞の滅後、異義邪説が起こって人を惑わしたので、その異義邪説を破って親鸞の「教行信証」を守るために歎異抄を書いた

■歎異とは
「先師口伝に【異】なることを【嘆】き」の、歎異である

■なぜ意義邪説が生じるか
自分の分別思量で、他力の義を乱すから

他力は如来より賜るものであって、自分の分別思量を捨てるところに生じる
如来の不可思議智慧、廻向されるものを、ただ受けて信じるという態度になるところに他力信仰は生まれる
そこに徹していないためであり、その驕慢な態度で先師の説に対するからである

親鸞を知る「すべてが煩わしく束縛だった。ただ一人念仏を楽しみたい」

2022-03-30 13:29:13 | 日記
親鸞は稲田で教団の中心人物になって暮らしていた
親鸞は気づいた
★いい気になって、自分に甘く、反省のない自分
★内心の名利欲に引きづられそうな危険な自分
★自分の宗教生活には、もう一息ふんばるべき余地がある。今のままではいけない。教化から、念仏一念の生活に没入したい

親鸞にとってはやはり、家庭も教団も束縛だったのだ。親鸞は内面に法を味わい、法を楽しみ、法と溶け合う、念仏がしたかった

親鸞は入滅までの20幾年間、念仏、著述、訪ね来る人と法談、書の返事を書いたりして過ごした。寺も教団も作らず、積極的に人を集めて説法をするようなことはなかった

親鸞は生の流転に身をまかせきって、泡沫人のごとく生の流れに浮かんでは消えることに無限の法悦を感じ得るようになっていた
現実苦は現実苦としけ受けながらも、苦しみの底に直ちに悲願の如来の声を聴き得るようになっていた

親鸞は京都ではほとんど、人に知られず暮らした。誰も親鸞に目をつける者はいなかった。そして親鸞は90歳で長い生涯を閉じた

親鸞を知る「最高の瞬間に悪魔は囁く。その誘いに負けてはならない」

2022-03-30 13:00:37 | 日記
親鸞は流刑地の越後で5年住み、流刑赦免の宣示が下ったが、妻の恵信尼と5歳以下の子どもが3人おり、これを引き連れて京都に帰るのは容易ではなく、京都には何のあてもなく、越後には恵信尼の外戚関係もいたので、さらに4年越後に住んだ

合計9年の越後暮らし

ようやく常陸国の稲田に移った
この稲田時代に初めて親鸞は本当に【教化という使命】を自覚し、またその時機の熟していることを感じた
それは聖覚の「唯信抄」を読んで、いたく感銘したことが縁となって、
「自ら信じて、人に教えて信ぜしめる」という方面に献身した

体験が重なり、人に法を説くという自信も出来て、時機が熟した
親鸞は「弘法は報恩」と思い定めて、人々に教えを説いた。そうやって働いているうちに、自然に自分の周りには教団ができているのを見いだした。そして自分は知らず知らず「名利の大山に迷い惑う」危険な地位に来ていることを自覚する

親鸞は26年間住んだ稲田を離れ、妻恵信尼と別れ、はるばる京都に帰って行った。親鸞65歳だった
何のために京都へ帰ったかの真実の理由は親鸞しか知らないが、死期が近づくと真剣な宗教者は、もう一度人生に対する真実の反省が、一層の深みにおいて起こるらしい、、、


親鸞の多くの著述は、決心以後の仕事である。「教行信証6巻」もこの稲田時代の著作である。これは法然の浄土宗の真実義を伝えるものだ

親鸞を知る「法然も親鸞も念仏申せるように生きた」

2022-03-30 12:12:41 | 日記
後鳥羽上皇の寵愛する女官二人出家事件の処罰として
承元2年3月16日
法然は藤井元彦
親鸞は藤井義実
と名をつけられ配所に落ちた

親鸞は越後へ流され暮らしたことで全くの凡夫大衆の現実苦の中に同化し、親鸞は愚禿親鸞と名のった

妻は流罪前に一人目、流罪後に越後で二人娶って、第三人目の妻が親鸞と長く連れ添った恵信尼だった
子は7人以上あったが、父子との縁は薄く別れたり、絶縁などして、その家庭生活は悲惨で、一生の悩みの種だった

親鸞は「妻帯するなかれ」の意味を身にしみて実感した。妻子を持つことは煩い、悩み、束縛の種だったからだ。夢告は青春の甘い理想だった
しかし、その煩わしさの種になる、妻帯をせずにいられないのも親鸞だった。娑婆での人の命の種子が絶えぬのも業の報い、仏のはからいである
ならばその煩わしき業報を味わおう
業報の中での救済の自覚こそ浄土真宗の本質である

往生のためにわざと苦に汚れず
往生のために善を装う必要もない
宿縁にまかせたあるがままの姿に
弥陀の悲願は最もよく感得される

法然も親鸞も宿縁にまかせたのだ
親鸞からは、法然のように生活しなければならないのか?、、と思う
法然からは、親鸞のように生活しなければならないのか?、、と思う

親鸞はは親鸞の業報がある
「妻を持たねば念仏できない」
法然は法然の業報がある
「妻を持てば念仏できない」
【念仏申せるように生きればいい】

宿縁=宿業=業報








親鸞を知る「法然の不徹底・自力行と期待の念仏へ」

2022-03-30 10:35:15 | 日記
人はそれぞれ宿業が異なる
親鸞は、自分と法然の宿業の深浅を感得した。それは法然と40年も若い時代の差異もある

法然上人は持戒することを好んだが「持戒しなくては救われない」とは決して言わなかった。しかし凡夫から見れば法然上人のようにならなくては救われないのでは?と思ってしまう
法然を真似て暮らせば、凡夫悪業を救う如来の慈悲は感じられなくなる
それは浄土宗の信心の心持ちとは違ってくるからだ

凡夫としては、持戒して凡夫とは違う生活態度を送る法然上人は、【仰ぐべき人】であって、畏れ多くて仲間という気はしなかった

法然上人は自力精進を思わせる所があって、浄土宗から見るとこれは不徹底な部分だった

【その部分を親鸞は訂正し、徹底させた。後世にそれは〈浄土真宗〉という別の宗派立宗のような趣〈信不退〉となり、法然の浄土宗は行としての念仏へ発展した〈行不退〉

元々、法然は〈信行不二〉を説かれたが
「助けられると信じて称える念仏」から
「三昧発得、臨終正念、諸仏来迎を求める念仏、期待の念仏」
となった
これが法然の不徹底である
それができなくても念仏往生できる】

法然は親鸞に念仏三昧を勧めた
法然は自らを「念仏の行者である」と言ったが、親鸞は念仏の行者という言葉につまづいた。迷いが生じた
親鸞は、自分は師の法然上人よりも悪業が深い、煩悩が強いと自覚した。女がいなくては念仏に身がはいらない。それだけ清涼ではなく濁ったアクがあるのだと自覚し嘆き、と同時にその悪業の上に顕れる「弥陀の誓願の不思議」を感謝した
これが浄土宗の救いの自覚だ

同時に親鸞は自分の使命も自覚した。貴族的僧侶意識の誇りは捨て、自分は大衆の中に進む。大衆と同じ生活様相になり、その喜怒哀楽を同感し、肉食妻帯し、一介の凡夫となり、その生活の中で弥陀の大慈悲を感受し喜ぶのだ
自分の業の報いの方向はここにある