親鸞
■承安三年(1173年)4月1日
山城国宇治郡醍醐村日野で生れた
幼名松若丸
父は日野有範
源頼政が平氏追滅を企てたとき、それに加わって戦死した。母もその数日前に亡くなった
母は源氏の出で吉光女という
俗姓(素性)は藤原氏
ということになっている
【たとえ親鸞が日野家の出でなく、平民の子であったとしても、そのために親鸞の価値が減じはしない】
■松若丸は9歳で叔父につれられ青蓮院へ。僧正道快によって得度剃髪
法名を範宴と授かった
【これは両親が死に、家運も衰え、生計も思うに任せず、叔父が出家させたのであろう】
■親鸞は比叡山で学ぶことになった。天台教義に関する親鸞の造詣は甚だ深かったので、熱心に聖教を読み研学したことだろう
しかし比叡山での親鸞は平凡な一堂僧に過ぎなかった。人からは目もかけられず、地道に研学し、修道しながら20年間を過ごした
心ある少数者は真剣に修道していたが、当時の比叡山は堕落していた。位階を喜び名利を求める僧、乱暴する僧兵。生死の一大事を忘れ、現世利益の祈祷ばかり、、といった具合
比叡山は世間
天台宗教団は俗界
だから山を下りて静かに道を求めようとする者を【隠遁】と呼んだ
(交わりを断って俗世間から逃れて暮らす)
【法然も俗世間化した山を下りた】
■親鸞は法然と異なり、その生涯は華やかではなく、光栄あるようなところは少しもない
親鸞の伝記を華やかに書き直すことは冒涜である
幼少の時から命終まで、なめつづけた痛苦は、現実的で深刻だった。それでも生きてきた親鸞を思えば、親鸞の生涯を華やかに色づけさせてはならぬのである
■正面から本格的に堂々と進んでいくには、どこかに愚直なところが要る。それは頭の力で出来るものではない。法然も親鸞もこの「愚」というものの尊さを知っていた
愚かにならずに念仏できるのか?
愚かにならないと始まらない気がする