るるの日記

なんでも書きます

親鸞を知る「逆さまな娑婆世界だから、愚かにならないと何事も始まらないような気がする」

2022-03-29 12:48:15 | 日記
親鸞
■承安三年(1173年)4月1日
山城国宇治郡醍醐村日野で生れた
幼名松若丸

父は日野有範
源頼政が平氏追滅を企てたとき、それに加わって戦死した。母もその数日前に亡くなった
母は源氏の出で吉光女という
俗姓(素性)は藤原氏

ということになっている

【たとえ親鸞が日野家の出でなく、平民の子であったとしても、そのために親鸞の価値が減じはしない】

■松若丸は9歳で叔父につれられ青蓮院へ。僧正道快によって得度剃髪
法名を範宴と授かった

【これは両親が死に、家運も衰え、生計も思うに任せず、叔父が出家させたのであろう】

■親鸞は比叡山で学ぶことになった。天台教義に関する親鸞の造詣は甚だ深かったので、熱心に聖教を読み研学したことだろう
しかし比叡山での親鸞は平凡な一堂僧に過ぎなかった。人からは目もかけられず、地道に研学し、修道しながら20年間を過ごした

心ある少数者は真剣に修道していたが、当時の比叡山は堕落していた。位階を喜び名利を求める僧、乱暴する僧兵。生死の一大事を忘れ、現世利益の祈祷ばかり、、といった具合
比叡山は世間
天台宗教団は俗界
だから山を下りて静かに道を求めようとする者を【隠遁】と呼んだ
(交わりを断って俗世間から逃れて暮らす)
【法然も俗世間化した山を下りた】

■親鸞は法然と異なり、その生涯は華やかではなく、光栄あるようなところは少しもない
親鸞の伝記を華やかに書き直すことは冒涜である

幼少の時から命終まで、なめつづけた痛苦は、現実的で深刻だった。それでも生きてきた親鸞を思えば、親鸞の生涯を華やかに色づけさせてはならぬのである

■正面から本格的に堂々と進んでいくには、どこかに愚直なところが要る。それは頭の力で出来るものではない。法然も親鸞もこの「愚」というものの尊さを知っていた

愚かにならずに念仏できるのか?
愚かにならないと始まらない気がする





親鸞を知る「親鸞についての確実な資料は少ないので、感応で感知する」

2022-03-29 11:40:46 | 日記
親鸞については、確実な資料は実に少ない。親鸞は実在しなかった説まで唱えられたが、親鸞の筆跡や真像等の存在することが確実となり、親鸞の実在については疑う余地は無くなった。しかしその事跡(行った事)については明らではない

親鸞の伝記で一番古いものは
親鸞滅後33年に書かれた
覚如上人の「親鸞伝絵」
これは伝説的物語として書かれたものとみえて、そのまま受け入れないが、その後に出た多くの伝記は、親鸞伝絵を基本にして書かれたもので、親鸞の生涯はこの書にたよるしかない
また、伝説には人間の本質がかえって一層よく現れる事もある。古事記や日本書紀が日本民族の特色と、歴史的使命を最もよく現しているように



歎異抄を読んで内面を掘り下げ内界を完成させよう

2022-03-29 11:16:08 | 日記
■歎異抄は世界のあらゆる文書の中で
一番内面的な、求心的な、本質的なものである
宗教の中で最も内面的な仏教
その中でも最も求心的な浄土真宗の
一番本質的な精神を取り扱っている

歎異抄は親鸞の信仰告白、述懐、随感等を書き留めておいたのを、親鸞没後、直弟唯圓がそれを基にして書いたものである。親鸞の信仰、浄土真宗の安心の中心眼目を徹底的に明らかにしたものである
歎異とは異義を嘆くという意味

■道には求心的な方向と、遠心的な方向がある
★求心的な方向は、自己の安心立命まで、どこまでも厳しく鋭い反省をし、宇宙根本生命と自己が一つに融合するまで掘り下げる。内面に向かう

★遠心的な方向は、安心立命を得た暁に、自己から他者に遠心的に反転し、周囲を整え、社会、国、世界のために働く

★安心立命の決定しないまま、遠心力方向へ向かう時は、道の真意から離れ、その結果ミイラ取りがミイラになるような愚かなものに終わることが多い(周囲を整えるつもりが、周囲に染まり、かえって自己が乱れる)

■歎異抄の方向性は、内界完成にあるので、首尾一貫して求心的なものである

信仰の本質問題から遊離せず
人間の心の実相を凝視し
生死の一大事と取り組み
救済の心証へと究め迫る

目指す目的に向かって
誠実に
一筋に
全生命を打ち込んで
わき目をふらない

■歎異抄から宗教の遠心的な方面を期待してはならぬ。遠心的方面にはそれに適した文書がある。日蓮の文書はその一つであろう

歎異抄からは、どこまでも内心の声を聴かねばならぬ。この書を読めばまだまだ自分が無難な生き方をしていると感じるだろう

■歎異抄がぴったりと心にはまり、その文章の調子が共鳴し、契合するようになれば、浄土真宗の信心はその奥所に於いて決定しているのです

所詮は
南無阿弥陀仏と申して
疑い無く往生するぞと思いて
念仏申す

のが決定道である
歎異抄はこの外の事を何も言ってはいない
我々の心を分岐させるようなことは少しも言わず、分散し外向する心を集約させ、求心させることのみ説いている





法然と九条兼実の同性愛

2022-03-29 10:06:56 | 日記
九条兼実の法然への帰依は、生きた菩薩に対するようであり、特別濃厚な交わりがあって、法然みずからが「月の輪殿(九条兼実)と自分とは、前世に深い因縁があるのだ」と言ったくらいである
九条兼実は法然の最も有力で熱心な庇護者だった

「選択本願念仏集」は九条兼実に頼まれて、浄土宗・念仏の要義を述べたものである。法然は生前にこれを公表せず、直弟子だけに見ることを許していた

九条兼実は法然が流罪になってから、いつも法然の事を愁いては、食事もすすまず、病気になって、4月5日念仏を称えつつ死んでいった

法然と兼実の関係は、師弟関係以上の特別なものだった。同性愛という関係だった

九条兼実の邸宅である月の輪殿には
法然を招くための特別な部屋が用意しており、晩年の法然は念仏三昧のためと称して、誰の招きにも応じなくなり、九条兼実のいる月の輪殿だけに出向いた
弟子がそれを咎めると、法然は不機嫌で、「月の輪殿と自分とは前世からの深い因縁があるのだ」と言った

藤井元彦

2022-03-29 09:45:48 | 日記
■後鳥羽上皇の寵愛を受ける二人の女官の出家問題

巷に浄土宗が弘まり
宮中にも浄土宗が弘まる中
法然の弟子の安楽と住蓮の軽率な行動から、後鳥羽上皇の寵愛を受ける松虫、鈴虫という二人の女官が出家
建永元年、再び法門に法難が襲った

当時の念仏僧は宮中に出入りする者多く、女官たちと法話を通じて深い知り合いになる者もいた
この頃の寺は劇場のようなもので、女性を惹き付ける魅力を持っていてた。僧侶は役者のように人気があった

建永元年7月15日盂蘭盆会
鹿ヶ谷の安楽寺
法然上人を招いて、法然の弟子・安楽房、住蓮房は別時念仏(特定期間の念仏勤行)を勤めた。その評判が京都街中に伝わりたくさんの参詣人が訪れた

宮中女官の松虫、鈴虫は清水寺に参詣した帰りに安楽寺へ参詣した。そのとき法然は「出家功徳経の由来」を説いていた

二人の女官はその説法に感動。御所へ帰ったがこの話が身に沁みて忘れられず遂に12月19日、後鳥羽上皇が熊野へ参籠している隙に御所を出て、安楽寺へ尋ね行き出家の志を述べた

安楽、住蓮の二人は一応とめてみたけれど、切なる願いで拒めば自害しかねない様子なので遂に望みを叶えて、その夜髪を落とし比丘尼にしてしまった
松虫は妙亭、鈴虫は妙智と法名をもらって、黒染めの法衣に身をつつみ、紀州の粉河寺に落ちて行った

後鳥羽上皇は翌年1月16日熊野から帰り、事の次第を知って非常に憤った

■浄土門を妬む比叡山山門が女官出家問題に便乗し、浄土宗排除する計画をたてる

法然、主たる弟子たちを死罪に、その他には流罪を行い、念仏を停止させることを朝廷に訴えた。興福寺、東大寺もこれに加わった

朝廷はその訴状をとりあげ、遂に「浄土門念仏禁制」を宣告された
時、建永2年2月4日

安楽、住蓮は死罪
法然は讃岐に流罪
その他高弟は死罪、流罪
親鸞も越後へ流罪

3月14日、親鸞はひそかに法然を訪ねた。二人はそれが生き別れとなった

法然は名を藤井元彦とつけられ、
3月16日、75歳にして住みなれた都を出発し配所へ向かった