楽しいブログ生活

日々感じた心の軌跡と手作りの品々のコレクション

やがて一年

2013-02-23 22:27:45 | 日記

今日は父の一周忌の法要でした。
実家のお墓は見晴らしのいい場所がいいと祖母が取り決めた山のてっぺんにあり、墓参りの度にぜえぜえはあはあと荒い息をしながら足元もおぼつかなく山道を登ることとなる。
年月が経つうち潅木が茂り、見晴らしがいいとはとてもいいがたい姿に景色も変化してしまっているが、感心するのは義妹が仕事のかたわら、きつい山のぼりを厭わず、こうしたお参りの機会のある時にはいつも墓周辺を徹底的にきれいに掃除してあることである。夏には道をじゃまする木々をのこぎりで引き、冬は滑らぬようにと枯葉を道の端にかいて寄せてある。
誰でも出来ることだとは思わない。先に先にと気を使って人が困らぬように不快な思いをせぬようにと手を打つのだ。
母とはよくけんかをしていたわがままな父も良く出来た嫁さんのお陰で、平和裏に自分にしたいことが出来ていたのかもしれないとさえ思う。
それでも父が亡くなってこの方、何度か(あ!)と眩暈に似た息苦しい思いに捉われたことがある。
ふっとした拍子に父の顔が脳裏に浮かび、もうこの世にはいないのだ、そして決してその声を聞くこともないのだと思うと胸苦しくなって、薄情な娘も人が死ぬというのはこういうことも通過儀礼のひとつなのだろうかと唇を噛んだものである。
以前にも聞いて紹介したかもしれないが、拝みにきてくれたお寺さんが、供養とはという話を少ししてくれた。
いわく、ろうそくの火は灯明といいますが、仏様の道案内のためのものです。
花は仏様が座す場所、線香は礼拝の場を清浄にして、 私たちの心身のよごれを清めるため、お供物は仏様をもてなし喜んでもらうためのもの、おちゃとうの水は心を洗うためのもの、読経は仏様の安楽を祈り現世人に功徳を施すものと言う風なことでした。
ただ形式に従うのではなく、そこに意味があるのだという認識のもとに、故人に心を寄せることが出来れば、此岸側の人間も居場所を得たような気持ちになります。
親戚とかが集まれば、子供たちの成長が早く、自分たちが年取ったという現実を嫌が上にも思い知らされるという会話に終始するようになるのですが、さあ、やっぱりしょぼくれていても始まらない。
亡くなった人への一番の供養は残された人間が幸せにその天分を生かして生き抜くこと以外にはないのじゃないですかね。
どう生き抜きますか・・・。
コメント (2)
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