テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

写真機雑感その6

2011-11-17 11:52:44 | 写真機 画像
視点を固定したまま、視界の隅々まで意識をめぐらせてください。
視界の辺縁にあるモノ、視点の先の焦点のあっているモノ以外については、あまりよく見えていないことがわかります。

ただ、そのよく見えなさに、違和感はなく、頭の中では、クリアな視界として認識されています。

脳が、眼球というカメラから入ってくる、倒立した視界の映像を、正立しているように認識し、意識させる過程の中で、余計な視覚情報は適度に間引いているからです。

同じように、視界が倒立するプリズムめがね(上下左右が逆さまに見える)をかけて暫くすると(はじめは、見え方も視界中の動きも逆なので、動けないし、船酔いに似た状態になるらしいが)、やがて倒立めがね越しの視界を、脳は正立したものとして認識させる補償を行い、逆転した視界が、正常なものになります。

鮮明な映像の夢を見るヒトについても、脳の視覚認識野が、記憶野、意識野に騙された(=補償)結果として、そのような夢を見ると考えられています。

攻殻機動隊で、電脳化した視覚野をハッキングされて、バトーが、「俺の目を返せー」と叫ぶ場面がありますが、生体脳についてもそれが可能ではないかと、考えるワケです。

以前に紹介したLytroのLightFieldCameraは、上記の可能性を高めるように考えています。
左右独立したHMDというか、電脳メガネっぽいデバイスで、これも以前紹介したE1の視線フォーカスの機能を用い、リアルタイム動画映像として表示されるLightFieldMovieの映像を眼球に送り込んでやると、脳は、その映像をその個体がいる場所の視界として処理、認識する可能性が極めて高いと考えます。

つまり、別の場所の眺め、視覚情報のすべてを、自らの視覚として体験できるようになる、ということです。

視覚に加えて、長らく進歩研鑽を重ねてきた聴覚については、バイノーラル記録された音響情報などは、充分に音場感をもって再生できることが、実証されています(ウチのオーディオでも、良好な録音のピアノソナタは、演奏者の手足の動きのみならず、胴体の動きまで聴覚に感じさせる場合がある)。

視覚聴覚が自分のいる場所とは異なる場所にある記録デバイスのそれと、意識レベルで置き換わるとすると、何が起こるでしょうか。

脳の生理作用が形作る自我がどうなるのか、興味深いトコロであります。